君が空を泳ぐいつかのその日まで

みどり

わたしはなぜかその人と隣どうしでホームのベンチに腰かけていて、自分が乗るはずだった電車を見送っていた。

「こういうの、しょっちゅうなんだよね。そそっかしいの」

誰に言うでもなく唐突につぶやいた彼女はほとんどノーメイクで、無造作にひっつめただけの短い茶色の髪にはゆるやかなウェーブがかかっていた。

耳たぶのちいさな宝石が、午後のわずかな光をひるがえしてぴかぴか光り、頬はつるりと白く唇はふっくらと艶めいてる。

さっき通せんぼされたときにぶつかったふくよかな胸元からは、甘ったるく懐かしい匂いがして、これと似たものを知っていると思ったけれど、なかなか思い出せなかった。

長い上向きのまつげの先をこっちに向けて、彼女はずっと楽しそうに笑っている。

「各駅だと思ったのに急いで損しちゃった。あなたも間違えたんでしょう？」

まるで歌うようなよく通る明るい声だった。

「……ですね」

それに対して久しぶりにしゃべったわたしの喉はがさがさなうえにだいぶ塞がってしまっていて、話したあと息をしたら一緒にひゅぅと空気のなる音がして恥ずかしくなった。

「じゃあちょっとだけ一緒に時間潰してくれる？」

「えーと、はい……」

人見知りとかしないんだ。

なんて屈託なく笑う人なんだろう。

「あたしはみどり。あなたの名前は？」

「神崎、つぼみです」

「つぼみちゃんかぁ。ねぇ、あたしのことこれからなんて呼ぶ？」

「これから？」

ビックリしてしまった。

駅で偶然ぶつかっただけの相手にこれからなんてあるんだろうか。

「あたしはどうしよっかな。つーちゃんでもみーちゃんでもいいけど、つぼみんも可愛いくない？ 小さい頃ずっと妹が欲しかったんだよね」

彼女の口角がきゅっとあがった。

「つぼみんはちょっと……」

「そう？ 残念だな」

彼女が率直すぎるからなのか、つられて少し笑ってしまった。

「ねぇ、次の電車はすぐくるの？」

「どうかな、ちょっと待たないとかもしれないです」

「じゃあその電車が来たら起こしてくれない？」

「えっ？」

「お願いね」

もしかして寝るつもりなんですか、と言い終えるまえに、みどりさんはその小さな頭をわたしの肩に預けた。

彼女の髪から南国のフルーツが熟れてはじけたような香りがした。こんな香りの女子は学校にはいない。きっと大人の女性が使うシャンプーなんだろう。

彼女が主婦だということは、持ち物を見てすぐにわかった。

マチの広い収納力たっぷりのシンプルなバッグの隣には、さっき久住君に頼まれたお使いでたくさんの種類があることを知ったオムツが置かれている。

青いパッケージには、天使みたいな金髪の赤ちゃんの写真がプリントされていて、パンツタイプのLサイズって書いてあった。

これなら睡眠不足も普通に納得できた。

すぐにやすらかな寝息をたてはじめた彼女のカーディガンの肩口にカチカチなお米の粒がついているのをみつけてしまった。女性としてはちょっとだらしない方なのかも。

でもそれは毎日大忙しのお母さんの象徴というか、もしかしたら自分より大事なものを持っている人の勲章なのかもしれない。

呼吸のたびに胸が微かに上下すると、あかちゃんを立派に育てることのできる滋養のつまったドリンクがとぷんとなめらかな音を立てるんじゃないかと、おもわず耳を澄ましてしまった。

さっき、この胸にはじき返されたんだ。

ぺらぺらだな、わたし。

その事実を認めてしまったら虚しくなって、摘まんだお米の粒を指先でぴんとはじいた。

それは一瞬宙に浮かんで逆光のなかに吸い込まれて、あっという間に消えてしまった。

米粒がきれいだと思うなんて末期かもしれない。

「あんぷしちゃダメ！」

でも突然の大きな寝言のせいで、つくはずだったため息を飲み込んでしまった。

ふたりの体が同時に飛びあがり、自分の寝言で起きる羽目になったみどりさんと目があって一瞬の沈黙のあとぷっと笑いあってしまった。

「寝言おっきいですね」

「いやぁ、恥ずかしい。自分でもびっくり」

「しかもあんぷって。方言ですか？」

かわいらしい言葉だなと印象に残った。

「たぶんね。母親に小さい頃言われた記憶があるもん。お口に入れちゃダメだよって言ったつもりだった」

彼女にもはっきりとはわからないらしく、苦笑している。

「変わった言葉ですね。ひらがなで書くとかわいいし、音も好きです」

何それ、変なこと言うんだね、って笑われるかと思ったのに、みどりさんは「確かに角のないころんとした字になるね」と、感心し共感してくれた。

「うちの子好奇心旺盛なの、なんでも拾って口に入れちゃうの。石でもゴミでも電池でも。さっきは夢の中で10円玉食べようとしてたからびっくりしちゃって」

わぁ、と口を大きく開けて露骨に驚いてしまった。あかちゃんて、おそろしい。お母さんって常にそんなことを警戒しなくちゃいけないんだ。

見ず知らずの他人の肩すら借りたくなる気持ちが今わかった気がした。