理人

下手くそな抱っこでもユキは大人しくしている。赤ん坊のくせにいっちょまえに空気読んでんのかな。賢いところはたぶん父親譲りなんだろう。


先に書斎を出るとまっすぐリビングへと向かった。どうしてもたったひとつのことを母さんに聞きたくなってしまって。


「あのさ、あの親父のどこがすきなわけ?」


仕事ばかりで家のことは何ひとつまともにできないし、俺にはただの不甲斐ないおっさんにしかみえない。

しかも結婚相手なんて選び放題の20代の母さんが、俺みたいなどうしようもないコブ付きのおじさんに逆プロポーズするなんてほんとに意味がわからない。


「何よいきなり。照れるじゃん」

「いや、そういうの要らないから」


冷蔵庫を開けて水を飲むと、母さんはうーんと唸ってから椅子に腰かけた。


「そうね、まずは何してても呼べば必ず目を見て返事してくれるとこかな。仕事中でも新聞読んでても急いで出かける間際でも、どうした? って振り向いてくれるの。その時の顔が好きで用事がなくても呼んじゃう」


母さんは穏やかな表情のまま両手で頬杖をついた。


「なにその答……わけわかんない」


ただのおっさんの地味な笑顔に人生かけちゃって大丈夫なのかよ。


「話もちゃんと聞いてくれるし。すごく優しいよ」


寝不足で疲れているはずの顔がぱっと華やぐ。とっくに知ってはいたけれど、この人は親父のことがほんとに好きなんだ。


「そういうのが、一緒に生活していく上ですごく大事だと思うんだよね。家族の声にきちんと耳を傾けるって、簡単そうでなかなかできることじゃないよ。それがすごく安心できるし、頼もしいの」

「頼もしい? あれが?」


逆さにして振ったって息子の俺からはそんな言葉出てこないけど。


「そうだよ、あれが」

「……尚更わかんねー」


理解に苦しむ俺を見て、母さんは楽しそうに足をぶらぶらさせた。


「でもパパって視界が広い人じゃないじゃん。きっと意識して頑張ってるんじゃないかって思うんだよね」

「ていうか親父のそれ、努力のベクトル間違ってね?」

「そうかな? そういうとこいいなって思うのは、あんたのママと同じな気がするんだけど」


しかも元嫁の話まで普通にできるなんて、それこそ理解不能。


「母さんて案外呑気なんだ? 母ちゃんにやきもち妬いたりしないんだ?」


何気なくそう聞いたら母さんは天井の一点を睨みつけてうーんと唸って唇をとがらせた。


「まぁ何ていうか、死んじゃった人にはどうやったって勝てないからやきもちとか無意味かなって思うことにしてる」

「ふーん、そんなもんか」


大人って、シンプルなのか複雑なのかよくわからない。


「理人はふたりのいいとこどりだよね。写真でしか知らないけどあんたのママ美人だもん。まぁあたしには負けるけど」


さっきの大人な発言はなんだったのかと疑うレベルであからさまに不機嫌になってるし。

でも親父を理解するよりは、母さんの気持ちの方がまだわかりやすいかもしれない。


「なんだかんだめちゃくちゃ嫉妬してるしマウントまでとってんじゃん。さっき自分が何言ったか覚えてる?」

「いいじゃん別に。てかあんたの性格はたぶんママにそっくりだからね」

「それ一度にふたりディスってんな」

「違うよ、理人を通してあたしはあおいさんを知ろうとしてるの。もちろんパパからも。これは現在の嫁からの敬意みたいなもんよ」


こういう単純明快で率直なところが親父の安らぎになったんだろうか。俺のせいで疲弊しきった何もかもを、この人の無邪気な笑顔が救ったんだと今はよくわかる。


「母ちゃんのことは実は俺もよく知らなくて」

「理人一歳くらいだったんだもんね」


子供の頃の思い出話をいちいち覚えているわけじゃないし、中学に上がってからは親父に反発していたせいでろくに口もきかなかったせいだ。


でも小さい時親父はアルバムを捲りながら母親の話をたくさんしてくれた。具体的に何をと問われたら答えられないけれど、そのことだけはちゃんと覚えてる。

物心つく前に死別してしまった母親なんて元からいなかった人となんにも変わらない。もちろん恋しい気持ちもない。

だけど自分を産んだ人なんだと思ったら不思議と興味だけは募った。


「ね、話全然変わるんだけどさ、あんた彼女できたでしょ」

「なんでいきなり?」


母さんはオムツと一緒に置いてあった小花柄のランチバッグにゆっくり視線を送ってからこちらに同意を求めてきた。


「作ってもらったんだよね?」

「いやこれは……」


圧がすごい。含み笑いがキモい。


「部活前に食べてね、みたいな感じでしょ」

「あー、ね」


ただの忘れ物なのにと、弁当箱をチラ見した。

まさか中身がぎっしり詰まってるなんて思わなかったし、捨てるのも罰当たりじゃん。

だから食べたんだけど、それって不正解? なんて聞けるわけがない。

つまり他人の弁当を盗み食いしただけ、なんてこの流れで言うのはちょっと無理。


「それだったらオムツのサイズ間違えたのだって納得できるのよ。彼女のことで頭がいっぱいなんだよね? 恋ってそういうもんだもん」

「うそ、サイズ違った?」


頬を赤らめている母さんを無視してサイズをチェックした。Mサイズって念押ししたのに、どうやら神崎さんはSサイズを買ってしまったらしい。


「いいのいいの。とりあえずお薬塗って様子みるから。とにかく怪我が見た目より酷くなくてよかったし、あんたが恋してるってわかってなんか嬉しい。ほっとしたら疲れちゃったな、ちょっと休ませてもらおーっと」


母さんが席を立ったから、そっとポケットに手を入れた。

神崎さんに連絡しようか。

いや、それはまだ早すぎるかもしれない。

なかなか決断ができなくてスマホを手にしたまま固まっている。

誰かの気持ちを察するって難しい。

ずっと自己中心的にわがまま放題で生きてきたからある意味コミュ障なんだよなぁ俺。


いつまでも迷っていると、親父がやって来て無言でユキを俺の膝の上に置いてった。

あの人、何するつもりだ?

黙って見ているとキッチンに入って5分も経たずに悲鳴が上がった。

それに驚いたユキの体がびくんと跳ねてついでにかわいいおならも出て、笑いたいのをこらえるのに必死だった。


絶対やらかしてると思って仕方なく見に行くと、床にはミルク缶の中身がぶちまけられていた。

ちょっとくらい高くてもこれからは液体ミルクを買うべきなのかも。


「なんか手伝う?」

「すまん、父さん買いにいってくるから」

「いいよ、ミルクなら予備がいっぱいあるし。たまにはユキの相手してやって」

「……そうだな」


ユキを親父におしつけた。


「ほらパパ、しっかり。絶対落とすなよ」

「……ぱ、ぱぱ?」


嫌味を込めて言ったのに、露骨に恥じらっている。そういえばこのおっさんには意地悪が通用しないんだった。


両手があいてしまうとやっぱりポケットの中に自然と手が伸びた。

だってあんなことがあったあとだ。

俺だって当事者なんだから気にならないほうがおかしい。

彼女はあれからどうしたんだろうか。

買い物を間違えたのは、やっぱり俺が動揺させてしまったからだろうか。

いつの間にか結構な血が滲んでしまったガーゼを見ていたら、急に傷が疼きだした。


ほっといたらまじ大事故だったから、余計なお世話だったとは思わない。

でも彼女に負い目を感じさせることになったのは事実だ。

ほんとに明日登校してくるかな。

やっぱり彼女のことが気になって、結局ポケットからスマホを取り出した。



















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