理人
「ユキどうしてる?」
帰り支度をしながら、担任の目を盗んでメールを打った。返事はすぐに来たけれど、それは俺の問いかけを見事なまでにスルーしていた。
「もう学校終わったの?」
まだまだ信用されていないようだけど、それも仕方ない。つい数ヶ月前までまともに授業なんか受けたことがなかったんだから。
「終わった」
とりあえずそう返した。まだ終わってないけどね。
「昼間はよく寝てくれるんだけどな」
お腹いっぱいで、しっかりゲップを出したあと。きっとオムツも濡れていない。
なんでこんなに一生懸命に寝るんだろう。しかも最近は笑えるくらいほっぺたがパンパンになってきた。
タオルケットの端を掴むちいさな白い手は小籠包みたいだ。
早く帰って頬擦りしたい。
ユキに思いがけず癒されてしまったからか、気がつくと手にスマホを握りしめたまま寝落ちてしまっていた。
スマホにはまた母さんからのメッセージ。
「帰りにオムツ買ってきてー」
出た……得意のパシり。
一度はそううんざりしたものの、続きのメッセージで睡魔が一気に飛んでいった。
「今使ってるの合わないかも。ちょっとお尻赤くって」
そういえば一度ひどいオムツかぶれでお尻が真っ赤になったことがあった。
痛いのか痒いのかどちらともなのか、あの時はすごく可哀想だった。
兄として、弟のピンチに早く駆けつけてやらないと。
ユキ、兄ちゃんが今お高いやつ買って帰るから待ってろよ。
ちょうど号令がかかってホームルームが終わったところだったから、意気込んで教室を飛び出した。
でも焦るとろくなことがない。
競輪選手並みに飛ばしていた自転車に急ブレーキをかけた。財布……教室に忘れてんじゃん!
店はすぐそこなのにと、絶望感たっぷりで引き返している途中で、まさか更なる悲劇に見舞われることになるなんて思いもしなかった。
まぁなんとか自分も神崎さんも生還できたことはよしとしよう。でもまたガミガミ言われんだろうなぁ。
「ただいまー」
「おかえ……なに? どしたの!」
リビングに入ってきた俺を見るなり母さんは持っていた包丁を投げ出すと、せわしなく救急箱を取りに行った。
「もしかしてあんたまた喧嘩したの?」
「んなわけないじゃん。チャリで転んだ」
あちこち手当てをしてもらいながら、ユキの気配がないことに気がついた。
「ユキまだ寝てんだ?」
「ううん、パパの部屋にいるよ」
「げ、あの人いんの?」
「それよりさ、ほんとに病院いかなくていいの?」
「怪我よりユキのこと心配したほうがいいって」
「ちょっと待ちなさいよ、まだ終わってないのに!」
手当てもそこそこに親父の書斎に向かうと乱暴にドアを開けた。
「たいして面倒もみないくせに勝手にユキを連れてくな」
「あぁ理人かおかえり。おまえ……その怪我はどうした」
穴の空いた制服と俺の顔を交互に見て、親父も目を点にした。
「転んだだけ。たいしたことないよ」
「そうか、ならいいんだが」
ユキは親父の胸を背もたれにして、その膝の上で大人しくしている。絵本の一ページを飽きもせず眺めてぺたぺたと触って、いつもより上機嫌だ。
それにちょっと腹が立った。
俺といるときは甘え泣きばっかなのに。
「理人もはらぺこあおむしが好きだったな、ぐりとぐらも」
「なにそれ、知らね」
「覚えてないか、そうだよなぁ」
うんざりする。
大人ってなんで過去を振り返りたがるんだろう。
「とにかくそろそろミルクの時間だから。家にいるときくらい父親らしいことすれば?」
「もちろん。今日は父さんに全部任せなさい」
自信満々な言葉とは裏腹に慣れない手付きでユキを抱き上げると、数字や英語だらけの本でいっぱいの、唯一異質な一角に絵本を戻した。その動作はカチカチで、正直目もあてられない。
わかるよ、まだ首が完全にすわっていないユキを抱くには結構気を遣うしコツがいる。
しかもこの人は子供だった俺がお父さんを助けなくちゃと使命感に駆られるくらいどんくさい人だから尚更だ。
この不器用な手で育てられて、自分はよく無事にここまで大きくなれたもんだと思う。
でもそのお陰でたぶん、ひと通り身の回りのことができるようになった。
いや、そうならざるを得なかったといったほうが妥当かな。
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