つぼみ
どうしよう、クラスメートに大怪我をさせてしまうなんて。耳鳴りがするほど心臓の音がうるさい。
いたたまれなくてホームに駆け込んでみたけれど、やっぱり身の置き場なんてどこにもない。わたしはいつも隠れられる場所を探しているような気がする。
息が上がって、得体のしれないものが胸のあたりで蠢いているのがわかる。思わず座りこみそうになるほど息苦しくなった。
早くここから立ち去りたい。
満員電車でも、しんとした家でもいいから違う場所へ行きたい。
だってこんな所で呑気にしていたらデート帰りのふたりにだって遭遇してしまうかもしれない。
そう思ったら今度は頭のなかが真っ白になった。いやだ、倉持君のそばにいる千絵梨になんか会いたくない。仲良く笑いあっているふたりなんか見たくない。
さっきから耳にイヤホンを入れようとしているけれど、手が震えてそれさえままならない。とにかくスマホをいじろう。誰かの主張やくだらないニュース、なんでもいい、なんでもいいから。
お父さんとお母さんの喧嘩が始まると、だいたいはそうやってしのいできた。整然と流れていく画面を見ていると、どうにか心をフラットに保てる気がしてベッドのなかでいつも丸くなっていた。
あの頃と同じように適当な曲の音量をあげると、自分の心拍が消え入るような錯覚を起こした。
でもそうやって現実逃避をしようすればするほど、体は鉛のように重くなる。
足枷をつけられて、少しずつ水かさを増していく水槽のなかにうずくまってるような気持ちになる。
両親の不仲の原因に具体的な答えなんてきっとなくて、わたしだって気にしていないふりをした。
でもそれは振り回されていることを認めたくなくて強がっていただけ。
千絵梨とだって友達みたいに仲良しだったのに、今はこんなにも気まずい。
どんなくだらないことでも話せていたあの頃が、遠い昔のことみたいに思える。
倉持君のことが気になっていることだって打ち明けていた。
彼と目があったこと。
おはようって返してくれたこと。
理科の実験のとき、同じ班だった彼の手にうっかり触れてしまったこと。
日常のなかの宝物みたいな一瞬を、千絵梨も一緒になって喜んでくれていたはずだった。
それなのにいつ頃からだろう、ふたりが付き合っているって噂が流れ出したのは。
そのときわたしたちはもう口もきかなくなっていたと思う。だから千絵梨に嫌われたことは自覚していたけれど、どうしてもそんな噂を信じることはできなかった。
でも結果それは事実で、姉を信じたいと思っていた自分は現実から目を背けていただけだったのかもしれない。それを証拠づけるように今、うやむやな気持ちがずっとくすぶっている。
さっきの後ろ姿を思い出すと息が詰まる。
いくら冷静を装っていたって、実際にこの目であんなところを見てしまったらボロが出た。何事もなかったように振る舞えるほど自分は物分かりよくできていないって思い知らされただけだった。
胃のあたりから込み上げてくる苦いものを無理矢理飲み下しても、嫌な後味はいつまでも口のなかに残って消えてはくれない。
何にも納得できないままでみんなが散り散りになってしまったことが、こんなに自分を不安定にさせるなんて思わなかった。
「間もなく○○方面行き快速列車が通過致します。黄色い線の内側まで下がってお待ち下さい」
アナウンスが流れるのをぼんやり聞きながらホームの黄色い線のデコボコに足を乗せた。
足裏で自分の体重をちゃんと感じとれることになぜか安心して、もう片方もゆっくりラインの上に移動させてみた。
これがわたしという存在。
その重さなんだよね。
足裏を刺激する重力に思いを馳せた。
でも、足からとおく離れた頭のなかでは、そんなものにとらわれるなと、ずっと誰かの声がしていた。
(いっそ飛んでみたら? そしてあっち側にタッチしなよ。ほら、その黄色い線をスタートラインにしてさ。足枷なんてあるわけないんだから。飛べるって)
頭のなかに響く声に言われるがまま、足元を見た。
ほんとだ、大丈夫。
そんなものついていない。
(だからほら、そのラインで力いっぱい踏み込んじゃえ)
誘うようなその声に導かれるまま、いつのまにか両足は黄色いラインから一歩を踏み出していた。
反対側のホームの看板のなかから、きれいな女優さんが旅に出ようと誘っている。
じっと見入っていると、だんだんそれがお母さんのようにも、千絵梨のようにも見えてきた。
なんの予兆もなく目頭がぶわっと熱くなる。
旅行に行く約束したのって、いつだっけ?
普通に楽しかったし、仲良しだったよね。
ふたりに近づきたい。
触れていいのなら触れたい。
なんて子供っぽい願いだろう、そんなものがまだ自分のなかにあったなんて。
だけど今それを伝えなければもう一生ふたりとわかりあえない気がするんだ。
行かないとだよね。
行ってもいいよね?
今行くから、お願い拒絶しないで。
ふらふらと足を踏み出したとき、突然視界が塞がれ足は止まってしまった。
どこか遠いところで上がる悲鳴を、まるで他人事のように上の空で聞いた。
そのとたんに何かに弾き返され、思い切り後ろによろけた。どうやら誰かにぶつかってしまったらしい。
さっき擦りむいた手のひらのほてりが、地面の温度で冷めていく。
何が起こったんだろう。
ゆっくり目を開けたら視界いっぱいに鮮やかなグリーンが広がった。
目線をあげると、緑のカーディガンを羽織った女の人が目の前にいて、彼女は柔らかな手で倒れこみそうになるわたしの腕を掴んでくれた。
「ごめんね、大丈夫?」
彼女の後ろを快速がちょうど通過するところで、突然吹きあげるような強い風が吹いた。何て返事をしたらいいのかわからなくて、わたしたちはしばらくその風に無言で煽られていたのだった。
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