みどり
「そんなんだから嫌でもタフになるよ。胸だってほら、人生初でっかいの。見て!」
知り合ったばかりの彼女の、ふっくらとした胸元の感触を思い返してみた。張りがあってしなやかで、甘い香りのする……そうか、この懐かしい香りはきっと、あかちゃんのにおいなんだ。
ご機嫌に胸を張るみどりさんのなめらかな横顔は、とてもきれいだった。
「あの……この辺で働いてるんですか? いつもこの時間の電車に乗るんですか?」
考えるよりさきに言葉が口をついたことに驚いて口元をふさいだら、思いがけずスマホが鳴りだして、今度はお尻が浮いてしまった。
「だれー? 彼氏?」
「いや、鳴ること自体が珍しいからびっくりしちゃって」
画面を見るとそこには久住君からのメッセージがあった。しかもたったの一文。
『サイズ間違えてたよ』って。
どうやらわたしは似て非なるものを買ってしまったらしい。とにかく急いで返事を返さないと。
『買い直して届けます、ごめんなさい』
『それはいいんだけど』
わたしの顔色が変わったことを気に掛けてくれたみどりさんに、この顛末を簡単に説明した。
同じクラスの隣の席の男の子で、ついさっき怪我をさせてしまったことをおおまかに話したらなぜか続きを催促されて、これで全部なんだけどなと困ってしまった。
『今どこ? 帰りついたら連絡して』
久住君からまたすぐに来たメッセージの意味がよくわからなくてどう返事をするべきか悩んでいると、みどりさんがそれを見てヒントをくれた。
「優しい子だね。あなたのことを心配してメールしてきたんだと思うよ」
「心配?」
まるで幼稚園児に言いきかせるようにゆっくり声を言葉にして、いつくしむような目でこっちを見ていた。心にぽっかり空いていた穴に、ぎゅんと風が吹き込んだみたいだった。
「あの……みどりさん。よかったら連絡先を交換してもらえませんか? わたしたち、もっと話せませんか?」
今度は自覚を持って、勇気を出して問いかけたら彼女はすぐほころんだ顔を見せてくれた。
「もちろんだよ。でもね、実は今朝携帯壊したの。新しいの持ったら交換してくれる?」
揃えた靴のつま先に視線を落としたまま困ったような顔をして、それからふと思い出したように何かをポケットから取り出した。
「そうだ。それまで代わりにこれを預けとくっていうのはどうかな?」
その言葉の意味がわからないまま、彼女の手のなかのくしゃくしゃなものを曖昧に受け取ってしまった。
「なんですか? これ」
「これ実はね、今朝旦那さんから奪ってきたものなの。無視されて頭にきてさ、まぁただの夫婦喧嘩なんだけど」
「もしかして、それで携帯を?」
投げつけて、壊したんだ。
なんてことまで確認してはいけないか。
個人的で繊細なものだと思ったんだけれど、みどりさんは悪びれずに明るく笑っていた。
笑っているけど、旦那さんに振りむいてほしかったんだよね。
きっと振りむかせたかったんだよね。
後先考えずに行動してしまうその衝動さえ、すべてが彼女の魅力に思えた。
「ダンナ、読みながらちょっと涙ぐんでるの。だから一応読んでみたんだけどこのページだけじゃ内容なんかちっともわからないし、それで更にイライラしちゃって。でもそれは彼の気持ちを理解できない自分に対してなのかもしれないな、ってちょっと反省もしたんだよ?」
みどりさんは一気にまくしたてて最後に盛大なため息をついた。
「あーあ。自己嫌悪ぉ」
こんなすてきな人でも自分に愛想が尽きることがあるんだ。わたしと同じだって、すこしだけ思ってもいいんだろうか。
でもそういうのって、きっとうやむやにしちゃいけないんだと思う。
後悔や未練なんていう負でしかないものを、みどりさんにはひきずってほしくないな。
「その本、買ってきちんと読んでみたらどうですか? それから謝れば、誠意だって伝わりやすいかも」
まさかばったり出会った大人に、高校生の自分が助言するなんて思わなかった。
「そっか、やっぱそうだよね」
「早い方が仲直りもしやすいんじゃないかと」
わたしも姉に嫌われたことにちゃんと向き合って受け止めればよかった。傷つくのが怖くて、流したりしなければよかった。
「じゃあ新品を用意して謝ろうかな。でも腹が立ってるうちはちょっとなぁ。言い合いになったら自制心きかないし捨てるかもわかんないし。だからみーちゃんが預かっててよ。ね?」
「……わたしがですか?」
それはちょっと荷が重いような。
「会うたびに仲直りできたのかって、毎回聞いてよ」
「え、えーっとそう言われても……」
ためらっていると、みどりさんは握っていたスマホごとわたしの手を包み込んだ。
「なんかさ、そういうのって電話やメールなんかよりちゃんと繋がってる気がしない? 次にここでまた会えたときに一緒に買いに行くなんてどうかな?」
彼女の明るい瞳のなかに、くっきりと自分の姿が見えた。迷っておどおどしてばかりで、他人と目を合わせるなんてできないのに、今はまっすぐにみどりさんを見つめていられることが不思議。
「その相手がほんとにわたしでいいんですか? さっき会ったばかりの他人ですよ?」
「いいいい! みーちゃんがいい! もっとおしゃべりしたいもん」
返事に困っていると、彼女はわたしの顔を覗き込んで目を細めた。
「だからね、みーちゃんもあたしに会いたくなったら素直にここに来なきゃだめだよ。スマホなんかなくてもあたし達はもうちゃんと繋がってるんだからね」
彼女のその声に感動して、戸惑いながらもその紙をしっかり受け取ってしまった。
「じゃあ、確かに預からせてもらいます」
「うん、頼んだ。なんかドラマチックだね」
気の弱いわたしはたぶんみどりさんというこの
でもこの心地よさに今はただ身を委ねていたい。
「それ読んでみて。 途中のページでしかも一枚きりだから、誰が読んでも意味不明だと思うけど」
「はい、ありがとうございます」
返事をするとみどりさんは大きく息を吸い込んで、同じくらい大きく息を吐いた。
アナウンスが流れて、電車がもうすぐホームに到着すると告げた。それはちいさな紙切れが、この手のなかで特別なものに変わった瞬間だった。
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