つぼみ
そのあとの休み時間が終わる頃、久住君はやっと目を覚ました。
「おまえはゾンビか」
低血圧なのかエンジンのかかる気配のない彼に嶋野君がうんざりとした口調で突っ込む。
「起きたら職員室に来いって。ヨネが言ってた」
クラス委員の谷崎君も、担任からの伝言を伝えにきた。
久住君はまだ眠そうな目をこすりながらそれに適当な相づちをうつと、机のうえに出しっぱなしの嶋野君のノートを勝手に取り上げて、面倒くさそうに中身をぺらぺらとめくりはじめた。
「もしかして俺寝てた?」
「おまえのその発言やばいぞ」
「勉強しなきゃ……ノート借して?」
「いやもう勝手に取ってんじゃん」
あれは完全に寝ぼけている様子だ。
「なぁおまえの字、全然読めないんだけど! こんなんじゃ赤点じゃん。目覚め悪っ……」
「どの口が言ってんだよ、赤点も居眠りもおまえのいかがわしい生活のせいだからな?」
そんな二人の漫才みたいなやり取りの着地点が、まさか自分だなんて思いもしなかった。
「というわけなんで」
「え?」
「よかったらさっきの授業のノート貸してもらえない?」
しゃべる機会なんか一生ないだろうと思っていた久住君が、にっこり笑ってこっちを見ていた。
「う、うん。どうぞ」
でもノートを手渡してから、これは朝のお礼を言うチャンスだと気がついた。
「あの、さっきは……」
「さっき?」
「えーっと、あの」
「はい?」
「なんでも、ないです」
結局勇気がなくて、会話はそれで終わってしまった。学校でも家でもあまりしゃべることがないせいか、自分の声の細さにびっくりした。何も聞き取れなくて当然だ。
それなのにノートの表紙を見た彼は、予想外にもまたこっちに向き直った。
「
「……いえ」
彼はノートの表紙を見てから名前を呼んだ。入学初日に一人一人自己紹介をしたけれどわたしの名前を覚えている人なんてたぶんいないんだろう。
「すぐ返すから」
「ううん、急がなくて大丈夫」
たっぷり眠って充電満タン。
勉強モードにたった今シフトチェンジしましたと言わんばかりにすごい勢いで彼はノートを写し始めた。
「まとめるの上手いね。俺まで賢くなった気がしてきた」
「ふ、ふつうじゃないかな」
「嶋野もほら、借りた方がいいって」
嶋野君にまでノートを覗き見られて顔が熱くなる。
「まじか! ノートってそんなふうにまとめんのか」
褒められたり感心されたりが慣れなくて、返す言葉がひとつも出てこない。こんなの、すごく感じが悪い。
「てか神崎さんてどこ中から来たんだっけ?」
書く手を止めて肘を付いた久住君が半身をこっちに向けて呟いた。
「
下を向いたまま独り言みたいに返事をした。無愛想にも程があるなと自分でもあきれてしまう。
「あーあそこか、ちょっと離れてるね」
「うん、だね」
会話を振ってくれたのになんで発展させられないんだろう。そう思うと余計に次の言葉が出なくなる。
「なんでここ選んだの? うちの学校にあんまいないタイプかなぁと」
「……そうかもしれない」
「ごめん。なんか偏見!」
彼はひとりで納得して、またノートに向き直ってしまった。
なんでこの学校を選んだのか、理由はちゃんとある。だけど「姉と遭遇する確率の低い場所を選んだだけなんだ」なんて個人的なことを、ただのクラスメートに言えるわけがない。
でも、半ば投げやりに選んだこの学校はすごく自由な校風で個性的な人ばかりで、着崩した制服も身につけたアクセサリーも明るい髪色も、すべてがキラキラしていて自分には到底場違いなところだった。
特におしゃれをしていないのは、もしかしたらわたしと彼くらいかもしれない。
でもこれだけはきっぱり言いきれる。
わたしたちは正反対だ。
何をしても冴えない自分とは違って、彼には圧倒的な存在感がある。生まれ持ったものが華やかだから、着飾る必要がないんだと思う。
入学した日から今も、芸能人みたいな男子がいると学年を問わず女子がこのクラスを覗きにくるくらいだから。
もう何人かに告白されたって噂も耳にしたことがあるし、そういえば嶋野君も年上彼女がなんとか、って朝話していたような気がする。
でも彼にとってそんなことには日常なのか、すごくマイペースだし調子にのったり威張ったりすることもない。
むしろ寝癖が付いていたり居眠りをしたり赤点を取ったりなんていう奔放で親しみやすいところがあって、クラスメートにも先生たちにも良くも悪くも愛されている感じ。
委員会決めなんていう重い時間も、彼の一声で流れが良い方向に進んだり、和やかになったりする。
久住君が笑うと、いや、そこにいるだけでまわりの空気は自然と明るくなる。
きっと彼は神様にそういうスイッチを持たされて生まれてきた特別な人なんだ。
入学早々そんな魅力的な人と隣になるなんて、わたしはとことんついていない。
ただでさえ学校で浮いているのに、根暗なことが更に目立ってしまいそうで怖い。
彼の近くにいるとそれが余計に強調されてしまうから、実は誰よりも強く早急な席替えを望んでいた。
「神崎さん、何度もごめんなんだけど」
「はっ、はい!」
それなのにまた話しかけられて声が裏返ってしまった。もう会話はあれで終わったと思っていたのに、不意打ちは心臓に悪い。
「これ。ここさ」
久住君の指が、つい書いてしまったあのカタカナを指していた。
「こんな単語、古典でやった?」
胸の内ポッケに隠し持っていたものがみつかってしまった気がして心臓がどくんと跳ねた。
「意味、知ってる?」
「えっと……なんだったかな」
どうかちゃんと笑えていますように。焦りを見抜かれていませんように。
「俺は知ってる」
ノートを寄せられ端正な横顔が予想したよりずっと近くに来たからあわてて体をそらした。
それに、彼がその言葉を知っていることは意外だった。そんなことを思うのは失礼なのかもしれないけれど、15歳にはすこし早すぎる言葉じゃないかなと感じていたから。
「漢字もわかるよ。確か草かんむりに……なんだっけ思い出せねぇ……」
悔しいのか苦虫を噛み潰したような顔をするから、思わず吹き出してしまい慌ててそれを取り繕った。
「なんか、見慣れない字だった気がする」
焦るあまり訳のわからないことを口走ってしまった。
「テストには出ないよね?」
「うん、たぶん」
そう返すと納得してノートに向き直ってくれたから、なんとか落ち着きを取り戻すことができた。
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