つぼみ
それからいつも通りに1日をやり過ごし、ようやく待ち望んだ帰りのホームルームになった。
それは学校での一日に終わりが見えて、やっと一息つくことのできる貴重な時間だった。
帰り支度をしながら朝と重さの変わらないお弁当箱をしまっているとき、久住君が机の下でスマホをいじっているのが見えた。
特に隠そうとする様子もなく、それどころか横顔に穏やかなほほえみさえ浮かべて誰かと頻繁にやり取りをしている。
画面を見ている横顔がとても幸せそうに見えるのは、きっと相手が特別な人だからなんだろう。
中学の時、わたしにも憧れの人がいた。でも思い出なんかひとつもないし、惨めな思いをしただけで終わった。身の程も知らないでうきうきしていた自分が惨めになっただけだった。
久住君みたいな人は、どんな人と付き合うんだろう。
カレカノって、どんなやり取りをするんだろう。好きな人と心が通じあうって、どんなふうだろう。
そんなことをぼんやり考えていたせいか、手元の画面がうっかり視野に入ってしまった。
ごめんなさい見てません! 忘れます!
慌てて目をそらしたけれど、画面の写真が予想外だったせいで逆にしっかり記憶してしまった。
盗み見したと思われたかも。
気になって、目線だけ動かし彼を見た。
やり取りが一段落ついたのか、いつの間にか久住君の動きは止まっていた。
ぴくりともしないからよくよく見てみると、スマホをいじっていたときのままの姿勢で彼はまた目を閉じていた。
うそだよね、どんだけ寝るの?
ホームルームもう終わっちゃうよ?
今度こそ起こさないと。
そわそわしていたらちょうど日直の号令がかかって、久住君はその声に驚いたのか電池が入ったようにしゃきっと顔を上げた。
みんなが席を立ち始めているのを見てカバンを手に取り慌てて席を立つ。
「おい久住待て! おまえはそのまままっすぐ職員室に行け」
「ごめん先生、明日行くから!」
「学校なめてんのかこら!」
担任の怒号のような声をひらりとかわして教室を飛び出した。でも今度は彼のまえに隣のクラスの男子が立ちはだかる。
「おまえいい加減陸トレだけでも顔出せって」
広い肩幅でとおせんぼしているのは水泳部の人だったと思う。
久住君が運動部所属だなんて意外だった。放課後は一目散に下校しているイメージしかなかったから。
「大丈夫、ちゃんと家でやるって」
体格のいい男子を押し退けて走りだしたと思ったらまた誰かに捕まって……全然前に進めていない。
しかも今度は隣のクラスの女子。そこに朝、楽しそうに彼とおしゃべりしていた戸田さんも追いついて挟み撃ちになっている。
彼女はおしゃれで美人で性格の明るさも手伝って、いつもみんなの輪の中心にいるクラスカーストのてっぺんにいる女の子。彼氏がいなかったことがないって噂にも説得力がある。
そんな子に先手を打たれているのに、彼はそれすらあっけなく振り切って階段を駆けおりてしまった。
ふと我に返る。
なにやってるんだろう。久住君ばかり目で追って、人気者にちょっと話しかけてもらったくらいで変に気にして。
とたんに恥ずかしくなった。
さっさと帰ろう。それ以外に予定はないし、学校は家より居心地が悪いから。
そう気を持ち直すと、足早に昇降口で靴を履き替えて自転車置き場へと向かった。それからはいつもどおり夕日が降りていく駅のほうへひたすら自転車を漕ぐ。
これで学校は遠のく。
だけど家が近づく。
誰もいない、静まり返った家が。
そんなことはないのに、もうふたりに何十年も会っていないような気がした。
このまま関係は希薄になっていくんだろうな。でもそれでいい、顔を合わせても気まずくてお互いうんざりするだけだから。
それなのにどうしてか去っていったふたりのことを思い浮かべてしまう。
中学のときに両親が離婚してずいぶん経って、わたしだってもう高校生。家族はみんなそれぞれの時間を生きている。
咲いた桜はかならず散るし、季節は移ろうものでそれは特に不自然なことじゃない。
過去を懐かしんだって意味がない。そうわかっているのに胸の辺りキリキリと迫るこの虚しさはなんだろう。
いつまでも喉に魚の骨が刺さっているみたいに、ちくちくとした痛みが消えてくれないのはなんでなんだろう。
仕事で忙しいはずのお父さんが毎日お弁当を持たせてくれるのも正直言えばストレスだった。
焦げたたまご焼きが入っている色味のないお弁当をクラスメートに見られたくないし、人のいない場所を探してこっそり食べるのだって疲れる。
本音を言えばいらない。
購買やコンビニの方がいい。でもお父さんが傷つくかもしれないと思ったらそんなこと言えない。
自転車、進まないな。
ペダル重いな。
お弁当がからっぽじゃないから?
そのなかに罪悪感がぎっしり詰まってるから?
そんなことを思ったら、スイッチが入ったみたいに胸が痛くなった。
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