ペリ・プシュケース -心とは何か‐

 ふとしたときに、いつも思い出す。その日はいつものように松の木に登るため庭に出ようとしていた。出て行かれてはまずいと思ったのか、侍女に急いで呼び止められたのだ。


「ぼくが海外に?」


 又聞きではあるが、ぜひ自分を連れて行きたいと頼み込んでいるのだと言う。その大学教授は胡散臭かったが、悪い話ではなかった。神童がいると聞いて尋ねてきた彼は、熱弁を振るい丞の肉親を説得しようと何度も試みたらしい。自分に話が回ってくるまでたいへん時間がかかってしまった。

 初めから自分へ話を通してくれれば無駄な手間を取らせないで済んだのに、とんだ苦労を掛けた。凡人たちには理解ができないのだろう。


「どこへ行くの?」

「それが……ソビエト連邦とのことでございます」


 言いにくそうだったのでさぞ遠いのかと思ったが、意外と近くて拍子抜けだった。日本とソビエトは国交もいい。そこで思う存分計算式を考えていてもいいのなら、と半ば了承しかけた。


「それは、ぼく、ひとり?」


 脳の奥で、ひとりの影が引っかかる。いつも柔らかく笑っていて、たまに何かを憂いて泣いている少女だ。しかし侍女は違う意味だと捉えた。


「その……旦那様と奥さまは、あまり――」

「そういうことじゃない」


 血を分けた人たちは興味がない。連れて行きたいのはか弱い少女だ。こうなったら直談判してこないと気が済まない。大人でも言い負かせられるほどの頭脳がある。

 そう思っていたが、教授には敵わなかった。勝負と言えるものではない。本当に望んでいるのか彼女に訊いて来いと、そう発言したのだ。それは否定でもなく肯定でもなく、ただ自分の道を自分で見極めろとの教えだった。


 駆けて庭まで出てみると、思った通り眞子都が花を愛でている。きっと遊び相手が自分しかいないのだろう。意気揚々と声を掛けてやる。


「おい、西園寺」

「じょうくん? どうしたのかしら?」


 たまに言葉遣いを間違っているが、それはどうでも良かった。これから外国語を覚えるのだ。自分とともに海を渡り、そこで一生過ごすのだ。


「ぼくと来いよ」

「どこに?」

「ソビエト連邦」


 聞いたこともない地名に眞子都は頭を捻る。しかし記憶のどこにもその場所は見つからなかった。


「どこかしら?」


 知り合って一ヶ月ほど。それでも自分は彼女に心を許せるようになったし、彼女もまた自分に心を許していると感じている。相思相愛ならどこへでも来てくれるのが夫婦というものだ。だからこの歳にして婚姻も考えた。

 着物も余るほど買ってやる。引き抜きに来るということは、異なる地でも頭脳で勝負できるということだ。


「ぼくはお前が好きだ! だから一緒に来い!」

「嬉しい! わたしも好きよ。お父さまもお母さまも、総一郎さまも!」


 だけど彼女は笑って告白を無視した。分け隔てがないのだ。嫌うことをしない。普通ならある自己防衛のための垣根が、存在しないのだ。好きのレベルはいろいろある。友達としての好きと恋人としての好きが違うことは理解できるはずだ。

 しかし眞子都にはそれがなかった。まるで自分が愛されることが当たり前のように時が過ぎていく。ぬるま湯にずっと浸かって、湯水のように人の愛を受けている。


 気味悪がられた自分とは違うのだ。頭の良さで幸せが変わるわけではなかった。


「でも、ぼくが一番お前を愛している!」


 違う、愛してほしかったのだ。まだ愛を知らないあどけない彼女に、自分のすべてを受け入れてほしくなったのだ。


「好きは、たくさんあってはいけないの?」


 困ったように眉を下げていた。そこで丞は気付いたのだ。まだ早すぎることに。だからもう少し大人になったときに、迎えに行こうと思っていた。だが異国に行って、自分の考えすらも甘いと感じたのだ。


「君が来てくれて良かった」


 もうどこにも行けない。運命はただただ残酷で、自分から働きかけることはできなかった。それでもこうして眞子都が会いに来てくれて、とても嬉しかったのだ。


「もう一度言おう。僕は君が好きだ」


 十年以上もの歳月が流れたが、気持ちは変わることはなかった。再び顔を合わせたときに、この気持ちがまだ残っているのか予測できなかった。けれど彼女は真っ直ぐで泣き虫で、以前と変わらぬまま丞の前に現れてくれた。

 愛がなければ来てくれない。それがもし自分に向けられたものでなかったとしても、出会えばどうとでもなる。


「でも……」


 その反応も想定内だ。成長した分理解ができるため、言い淀みも多くなったと感じる。昔のように自分勝手な好意を振り撒けばいいというわけでもない。告白を受けて、好きと気軽に返せる時代は終わったのだ。


「良く考えてほしい。ここには味方もいない代わりに、敵もいない」


 この場所で人知れず過ごしたとしても、誰も責めやしない。その代償として味方もいないが、それは自分が補うことができると丞は思った。


「君のためなら技術も研究も要らない」


 第二の故郷すら見限っても構わない。どこか知らない土地で新しく生活を始めても構わない。それでも眞子都は頑なに首を縦に振らなかったので、極めつけの一言を付け加える。


「僕の元へ来れば、ⅡB‐SAを直してやる」


 一瞬の静寂の中、息を呑む音だけが聞こえた。実は手紙では現状は書かなかった。壊れているのが分かったら、ともすれば無視されてしまうかもと考えたのだ。それでは孤独のままだった。どうしてももう一度、眞子都に会って確かめたかったのだ。


「治す……。ツバサは、どうなったの?」


 思った通り食いついた。青ざめた顔は大人の色香を纏う。シベリアで艶めかしい日本女性を久しぶりに見られて、やっと真意を思い出した。

生みの親として、事の経緯を伝えるべきだろう。


「ⅡB‐SAは凶弾に斃れた。胸に一発、喰らっている」


 言って丞は自らの心臓の位置を指で示す。ちょうど自分の人差し指くらいの大きさの弾が、残っていた部分から検出された。きっとそれで体が割れ、頭のほうだけ安全などこかに飛ばされたのだろう。


「そんな……ツバサが――!」

「別にそこまで驚かなくてもいいだろう? たかが機動召使だ」


 自分が機械の召使なんて開発したせいで、海外の貴族から恨まれることも少なくなかった。機動召使は、自分をとてつもなく良く映す鏡。世界で一番美しいのはあなただと、ずっと言い続けてくれる。なので特別な感情を持ってしまう者も多かった。

 それも多少は収まってきていたのだ。いまだに日本に、それも自分が好いた女性までたぶらかしてしまうなんて、皮肉以外の何ものでもなかった。


「そんなことないわ! 確かに機械かもしれない! でも、それでも……っ!」


 ツバサは笑いかけてくれる。愛していると言ってくれる。器なんかじゃない。たくさんの声を聞いて、感情を受け取って。でもきちんと彼自身が考えて行動している、はずなのだ。


「夢を抱かないで。機械のことは、僕が良く分かってる」


 丞とともに来れば、ツバサは治してくれる。愛した相手と同じ顔で、同じように歩める人間であるなんて、これは願ってもないことだ。それに丞もまた、眞子都を愛していると言ってくれた。これ以上、何を望む。


「ごめんなさい。わたしは、ツバサとともに居たい」


 最近は、謝ってばかりだ。人の心を傷付けて、謝って済むものではない。けれど愛は、かけがえのないものだと知った。一方的なときもたくさんあるけれど、人を愛するということは素晴らしいのだと気付いた。


「じゃあ君は、ⅡB‐SAの心の声が聞こえるとでも?」

「聞こえるわ」


 今度ははっきりと。あのころとは違う。自信のなかった幼いころとは違う。それでも根拠のないものではなかった。人間だって何かを教えてもらわなければ、言葉すら知らない生き物だ。ただ地上を彷徨い、細かな粒のように風に吹かれて消えてしまう。

 その中で“心”という小さな火を育て、灯し続けてきた。人も動物も植物も、愛を叫んで必死に生きている。それは、無機物だって同じなのだ。


「だって、運んでくれたもの。ツバサの想いが、わたしをここまで、動かしてくれたもの」


 始まりは最悪だった。婚約破棄の代償にと勝手に運ばれてきただけだ。そもそも父が浮気などしなければ、母が再婚などしなければ、総一郎が他に女など作っていなければ。いまだってぬくぬくと温かい家庭で暮らしていけていたはずだった。


 しかしツバサはたくさんのものをくれた。本や、クローバーの栞、嫉妬だって立派な贈り物だ。だから自分は櫛をやった。大切なものには大切なものを返さねばならない。

 いつまでも蹲って、めそめそ泣いてなんかいられない。


「心があるのよ、機械にも」


 機械だけではない。すべてのものに魂は宿り、声をあげている。それに気付かせてくれたのは、他でもないツバサだから。


「また、君は嘘を吐く」


 認めたくなかった。自分が眞子都に愛を伝えたくて必死で作り上げたものに、彼女を取られるなんて。非科学的なことは信じたくなかった。


「でも、分かったよ」


 昔と変わらないと思ったけれど、ずいぶんと変化があった。どこで差がついてしまったのだろう。過去に囚われていては、成長はないということだろうか。


「僕の元へ来るのなら、別個体を紹介してやろうと思っていた」


 これから見せるのは、惨憺たる有り様の彼だ。戦場に行って無事な者はいない。ましてや使い捨ての機械なんか、誰も見てくれはしないだろう。でも彼女は、そんな一個体に心を生み出してくれた。そのもの自体をきちんと直視して、受け止めてくれたのだ。


「覚悟はあるね?」

「……はい」


 泣きもせず真摯に容認する。まるで結婚の挨拶を相手の親にするように、それは厳粛に執り行われた。

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