我が愛者に逢はずは止まじ

「ツバサ……!」


 久しぶりに見た彼は、体のほとんどがなかった。胸から上しか確認できなかったが、確かにツバサだ。左腕は肩から、右腕は肘から先がない。千切れたゴムの下では、鉄骨が歪な形で曲がっていた。

 胸の中央には、銃弾が通った跡が残されている。そこから亀裂が無数に入り、残りの体は見つかっていなかった。


 眞子都は恐る恐る、その愛しい顔に触れる。ラテックスの肌には擦り傷がたくさんできていて、痛々しい。右の口元には一際大きく、ぱっくり割れた跡があった。だがそれは戦いのためにできたものではない。櫛を噛み折ったときに細かい櫛歯(しつし)がつけたものだ。それほど強い力で、執念で、思い出を残したかった。


「櫛、使ってくれていたのね。嬉しいわ」


 狭間の産毛を見て取って、眞子都は懐かしむように悲しく微笑む。ボロボロになった髪も、その一本一本が愛おしく、壊れた櫛で梳いてやった。これが、眞子都が最期にツバサにできることだ。すき間だらけのそれではあまり整わなかったが、土埃などは少し払えた。


「パーツを変えれば元通りにできなくはない。が、もう記憶回路は戻らないだろう」


 記憶が戻らないのも辛いが、部品が変わってしまえばそれはもうツバサではない。眞子都は少し逡巡したが、やがてはっきりと辞退した。


「いいの、大丈夫。ありがとう、じょうくん」


 それはいつか生まれる、新しい命に使ってほしい。どこかで誰かが、救われてくれるかもしれないから。自分のように愛を知らない人たちはたくさんいる。


「天使は、西園寺をモデルにしたんだ」

「え、えっ!? 聞いてないんだけど……」


 理由は察せないけれど、そこまで神格化されていると思うと畏れ多い。眞子都は顔を赤らめて、それでも静かに旧友の話を聞いていた。


「さっき昔話をしたときに、気付いてくれると思ったんだがなぁ」


 丞は苦笑して、可愛い幼馴染に教えてやる。鈍すぎて本当にこれからの将来が思いやられるくらいだが、頭のいい自分が惚れた娘だ。いろいろな困難はあれど、神は祝福してくれるだろう。


「日本には素晴らしい文化があってな、八百万の神って言ってあらゆるものに神を感じているのさ」


 あのときの松だって同じだ。精神はすべてに宿り、我々を見守っている。支え合って、命を助け、魂の欠片を与えている。


「君は、無償の愛で助けようとしていた。まるでそれが当たり前のことのように。それができるのは、天使しかいない」


 そう簡単にできるものではない。助けても何の得もない相手を、ただ可哀想だからという精神で救おうとしていた。当時は定かではないが、あれで家の松は本当に助かったのかもしれない。


「天使、って何なのかしらね」


 いつか親友から聞いた問いを、ぽつりと漏らす。どこにでもいるようで、どこにもいない存在だ。眞子都にとっては、ツバサが天使である。きっとその人にとって天使の在り方は違うのだろう。

 でもだからこそ、見つける価値がある。


「ツバサを、持って帰ることはできるかしら?」

「……まぁ、何とかね」


 国が重きを置く技術職になんてことをさせるんだろう。少女は強く、誰にも負けないほど芯が太くなっていた。


 愛している。どんな姿になったとしても。例えネジ一本、羽根の一枚でも、ツバサと分かるものなら持って帰るつもりだった。庭に埋めてやろう。あの梅の木の傍がいい。ツバサが初めて、愛を語った場所だ。もし屋敷が立ち入り禁止になっていたとしても、意地でも入ってやるつもりだった。


「箱を持ってきてやるよ。下手に見つかるんじゃねーぞ」

「ええ、お願いね」


 やっと丞は昔の調子を思い出したのか、口が悪く戻っていた。これでいいのだ、彼女との関係は。


 小包に入れる前にと、眞子都はツバサの額にそっと口付けをする。もう少しの辛抱だから、待っていてほしい。そうしてどうにかして屋敷を買い取って、いつか自分も傍にいる。何年かかってもいいから、近くに居させてほしい。

 櫛は左の胸ポケットに仕舞って、死ぬまで一緒にいるつもりだ。羽根は見つからなかったのが悲しいが、丞が言うには戦場で破れたわけではないとのことだった。戦闘に行くには邪魔だからと、恐らく兵士がもいでしまったのだろうと教えてくれる。


「そう……」

「見つけてやれなくて、申し訳ない」

「ううん、いいのよ。櫛には、残っているから」


 いまだに羽毛があってくれるのは奇跡に近かった。これならずっと覚えていられる。彼に羽根があったことは、関わったすべての人が覚えていてくれる。

 ムリに笑顔を作るのも、これで最後だ。丞との別れは、もう二度と会えない可能性が高かった。それでも笑って再会を誓わなければ、相手に失礼だ。


「また手紙を出すわ」

「期待しないで、待っている」


 幸あれ。願いは波の音に掻き消され、溝を深くしていく。ツバサが来てから、ひとりではなくなった。心で強く通じる相手を、たくさん見つけられたのだ。日本に帰ったらたくさん伝えなければいけない。大切な人たちに、愛した相手のことを。


 帰りの船も怒涛だった。メアリが手を回してくれたのか、いつ眞子都が帰ってきてもいいようにとすべての船に通達してくれたらしい。お土産も何もないのに、本当に気が利く親友である。

 しかし再び厨房見習いとしての短い生活に逆戻りして、眞子都は声をあげて苦笑したほどだ。転んでもタダで起きないのがメアリである。使える者は使っておけとの言葉が、脳裏に過ったようだった。それでも女性だからと特別に小さな部屋も用意してくれていた。そこに包みを置いて、暇なときはずっと眺めている。


「未練がましいかしらね」


 それでも、船に乗っている間くらいは傍にいさせてほしい。故郷へ帰ったらまたしばらくは離れ離れだ。冷たい土の中に置き去りにしてしまうのは気が引けるが、自分も何十年かすればどうせ一緒である。


 冬は、あまりいい思い出がない。許嫁もいなくなり、好いてくれた相手を振り、ついにはツバサも失った。それでも、春はやってくる。そろそろ梅も咲くだろう。漬けた梅干は、どうなっているだろうか。ツバサが人間であれば、ともに感動を共有することができるのに。いや、それはもう関係ない。心のどこかで繋がっているから、これからひとりになろうが、寂しくはなかった。


 東京に着くと、まだ陽の昇らない、深夜に近い早朝の時間帯だった。もぬけの殻になったあのときの、蔵の中の暗さと静けさを思い出す。この時間なら人もほとんどいないだろう。案の定屋敷に行ってみると、物音ひとつなかった。鉄門をそっと開けて、念のため中を窺う。静かに佇んでいる屋敷は寂しそうで、申し訳なく思うほどだ。扉も壊されたままなので居た堪れなかった。この家にも、たくさんの神が宿っているというのに。

 蔵の横から取ってきたシャベルで土を掘り起こす。穴を掘るのは初めての作業で、意外と骨が折れた。小包を開けて横たわるツバサが目に入ると、どうしても感情が込み上げてきてしまう。愛する者を失くすということは、体の半身を失うということだ。


「あっ、あれ……?」


 自然と涙が溜まってしまう。丞の前でも船の中でも泣かなかったのに、気付いたら瞳が充血するほど潤んでいた。


「ああ、う……」


 心臓が痛いくらいに脈打っている。自分も機械だったら良かったのに。そうしたら初めから苦悩などなく、ツバサと一緒にいられたのに。


 苦しい。苦しい。こんなに苦しいのは生まれて初めてだ。泣きながら眞子都は、愛者(はしもの)を土に埋めてやった。蕾はまだ硬いが、そろそろ綻んでまた花が咲く。


「また、いつか一緒に、見ましょうね」


 手はかじかんですでに感覚はないが、垂れる涙が熱く染み入っていく刺激はあった。泣いている。涙を流している。心が揺れ動き、彼の傍にいたいと必死に抵抗している。


 でもいけない。自分は明日を見なければ。生きなければいけないのだ。母は、父の訃報を知っているのだろうか。だんだんと明るくなっていく空を見上げて、眞子都は自分のやるべきことをやるために、また立ち上がった。

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