第六か条

裸の心

「お前の家紋はいいよな」


 丞はときどき遊びに来る眞子都に、いまだに名を告げられないでいた。恥ずかしさからか誤魔化しながら伝えているが、眞子都が気付くことはなかったのだ。いまもどうにか遠回しに探っているが、どうにも思い通りにならない。


「左三つ巴に羽根だ。羨ましい」

「どうして?」


 彼女は愛らしく首を傾げるばかり。それしかないのかと言わんばかり。堪らず丞は口を開いてしまった。直接言わなければ伝わらない。


「ぼくが飛鳥っていうからだよ! ぼくの名前は飛鳥 丞だ!」

「あすか……? どうしてそれが羨ましいの?」


 眞子都はまだ漢字を知らなかった。ある程度の教養は学習中とはいえ、まだそこを習うまでには至っていなかったのだ。丞は地面に漢字を書いて、眞子都に稽古をつけてやる。


「飛鳥は……飛ぶ鳥って書くんだよ」

「そうなの!? すごい!」

「うっ!? べ、別に凄くなんかない」


 きらきらとした目は直視できない。ただの女の子なのに、侍女たちとはどこか違っていた。自分の世話をする彼女らはいつも冷たく、上辺だけで笑っている。それなら機械を従えたほうが何倍もマシだった。


 だけれども眞子都は心の底から接してくれている。こちらを尊く扱い、かつ対等に話してくれる。願わくはずっとそうしていてほしいが、きっと彼女も大人になれば変わってしまうのだろう。


「あと、ぼくのことは丞って呼べよ? 苗字は、あまり好きじゃない」

「じょう、くん? 分かったわ、教えてくれてありがとう」


 いつまでも飛べない人間に“飛鳥”なんて、滑稽で悲惨な名前だ。空に憧れるしか能がないと思われては困ってしまう。それならばいっそ、自分で飛ぶことができる何かを開発すればいいのだ。地べたを這い蹲うのは、嫌いだ。





「本当に、お前の家紋は羨ましい」


 翼を持つ者は遠くまで飛び、空に舞い上がれそうだ。あの子の元まで、飛んでいければいいのに。海を渡った国同士では、触れ合えることができない。


 ⅡB‐SAには願いを掛けた。その羽根でどこへでも行けと。自分はもう、この地に骨を埋めるしかなくなっている。売国奴みたいなものだ、いまさら故郷には帰れない。鳥ならば、国境などないも等しい。

 天から遣わし者。天命を届け、付喪神の声を聞く。その存在はいまでこそ受け入れることができたが、非科学的なものは信じ難かった。それでもすんなり聞く耳を持ったのは、自分にも思い当たるところがあったからだ。


 きっと彼女こそが、僕の天使。


「ジョー、手紙だ」

「手紙……!」


 国際便の出し方は、メアリに教わった。眞子都からの誠意がこもった文面を紐解く。挨拶もそこそこ、本音しか語れぬ少女は心の内を簡単に吐露した。


 丞がその手紙を受け取る数日前、まずは返事を書くべきと友人に絆され、眞子都は何とか冷静さを取り戻す。震える指で筆を執り、逸る気持ちを抑えながら挨拶から認(したた)めた。しかしやはり感情を阻むことはできなかったようで、短い定型文しか書けなかった。

 名前をすんなり教えてもらえなかったので記憶からは薄かったが、確かに遊んでもらえて楽しかったことは覚えている。


「まぁ、いいけれど……飛鳥が可哀想ね」


 眞子都は気付かなかったようだが、手紙の内容から向こうが好意を持っていることは明らかだ。メアリは苦笑しながら、書き終えた手紙を封筒に詰め宛名を代筆する。ソビエト語はあまり知らないが、さすがに日本人よりかは海外の言語に達者だ。

 眞子都の心は悲しいまでに丞に向いていないことを実感すると、不快に思っている相手でも同情する。いつしかメアリも、眞子都のツバサへの愛を認めてくれていた。


「メアリ」申し訳なさそうだが、決心したように、眞子都が呟いた。「わたし、そこへ行きたいわ」


 しかし術を知らない。悔しいくらいに近くに行けない。いつになく本音で、真剣に言い放った。それを受けて呆れたようにメアリが溜息を吐くが、表情は困りながら笑っている。


「それ、あたしの前で言う? 綾小路産業はいま、ソビエトに船を出しているのよ?」


 乙女の指が重なりあう。現実と夢の狭間で揺れたふたりの少女は、道は違えどそれぞれの将来を歩んでいく。何が幸せか分からないけれど、互いに互いの幸せを願っている。


 行った先で何が待っているか分からない。でも道は自分で切り拓くもの。悲しみも絶望も、いつかはきっと嬉しい未来を運んでくる。


「それって……!」


 向かうのが戦地でも、大手を振って送り出せる。背中を押すことができる。


「船に乗りなさい。あたしは行けないけど、それでいいわね?」


 そして連れ戻して来なさい。己の可愛い機動召使を。丞に会うならメアリも一言ガツンと言ってやりたかったが、それは次の機会にしよう。我が綾小路産業の子らも、しばらくしたら壊れなくてもいい時代がやってくるかもしれない。

 だが、それを切り拓くのは、自分自身にしかできない。


「ええ、ありがとうメアリ」


 だってこんなに幸せそうに笑うのよ。あなたたちには負けたわ。自分ももう少し、自分を信じていれば、眞子都と同じになれただろうか。


「親友だもの。自分の納得する結果を、絶対に勝ち取りなさい」


 いつの間にか、大切な友人は親友となった。しっかと抱き合って無事を祈る。場合によっては今生の別れになるかもしれない。それでも後悔はないと言い切れる。

 彼女らの腕は細いが、立派に大地に立つだけの力が備わった。誰かの胸のスペースに入るだけの人物になっている。


 その甘くて渋い香りを思い出し、眞子都は荒れた海を渡る。心配なので匡祐も行きたがったが、丁重に断った。船内の料理番見習いとしてなんとか空けてくれた枠だ。これ以上他人を振り回すことはできない。やっと伸びてきた髪を再び切り捨て、矢絣の柄のハンカチをお守りに、たくさんの想いを大切に受け止めた。


 白い厨房着が灰色にくすむほどの時間が経ったとき、やっと真白の大地が見えてくる。シベリアに着くと暇を貰い、内密に丞を探す。敵陣の中央に向かうのだ。反逆者として捉えられても文句は言えなかった。帰る手段すら必要ないと、命を掛けた旅だ。


「待っていたよ」


 けれど思ったより早く彼は現れた。すでにソビエトには足首まで雪が積もっている。着物は着て来られるわけがないが、カモフラージュのために制服を持ってきており厚手のコートを羽織っていた。

 そんな中を歩かせられないと、丞のほうから来てくれたのだ。絆を繋ぎ止めるための、折れた櫛を持って。


「じょうくん……で、合っている?」

「あぁ、良く来てくれた」


 久しぶりに会った丞は、ツバサに良く似ていた。

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