ローリンガール&ボーイ
「じょう、くん?」
ひとつだけ、記憶に残っていることがある。あの子はいつも木の上に登って空を見ていた。計算をしているのだと言う。それなら何か書くものをと紙を持ってこようとしたが、誰かに見られてはいけないからと断られてしまった。
「お前の着物、毬の模様だろ?」
その日は眞子都の幸せを願われて、手毬柄の着物を着せられていた。対する男児も昔から続く家系で、彼も同じように着物と身近に育っている。
「球体ってのはすげーんだぜ? いつまでも転がり続けるからな」
「どうして? でも、いつかは止まっちゃうわよ?」
「それは摩擦とか空気抵抗とかいろいろ……。ま、話しても分かんねーわな」
木登りは得意ではなかったらしいが、家の喧騒から逃れるためにはそこに登らねばならないと話してくれた。そこは現在空き家になった、西園寺家の裏にある屋敷である。塀がなく茂みで敷地を分けられていたので、行き来がたいへん楽にできた。
「西園寺家の嬢ちゃんだろ?」
やけに大人びたというか、口の悪い喋り方をする子だった。初めて聞くような言葉遣いにきょとんとして、眞子都は首を傾げる。その間に彼はああでもない、こうでもないと独り言を呟いていた。
「はい、西園寺 眞子都と申します。あなたのお名前を窺ってもよろしいですか?」
けれど正体を聞かれたので素直に、眞子都は教えられた通りに名乗り、相手の名前を聞いた。まず自分から名乗れと、父に口酸っぱく言われていたからだ。
少年は鼻を鳴らして、その脳みそお花畑の少女にそっぽを向いた。そう易々と名乗っていい名前ではないし、簡単にへりくだる女も気に食わなかったからだ。
「教えてやらない」
また眞子都は首を傾げて、相手の言った意味を理解しようとしていた。意地悪されたのが初めてなのだ。やがて違う結論に至って、居た堪れない表情を浮かべる。
「名前がないの?」
「そうじゃない!」
純粋なその目は、当時子どもの彼でもたじろぐほどだった。唸りながら少年はまたさらに突っぱねる。知能指数が合わない。これ以上女と会話するのは無意味だった。
「邪魔だからどっか行ってくれない?」
冷たく跳ね除けて、眞子都を遠くへ追いやろうとする。いまは本当に計算で忙しいのだ。紙面などに写さなくても、頭の中にすべて入っている。
「あっ」
「……今度は何だ?」
「枝が……」
横を見ると、松の枝が半分折れてぶら下がっていた。声を上げたから何事かと思ったら、植物の心配だと気付いて拍子抜けする。どうでもいいことに心を動かされ、令息はイライラしてしまった。
「枝なんてどうだっていいだろ!? これ以上ぼくの邪魔をするな!」
「どうでも良くはありませんわ! だって、あなたが座っている枝も、折れてしまうかもしれないじゃありませんか!」
「――は?」
自分が座している枝は、自信の腕よりももっと太いものだ。ともすれば胴回りくらいはあるかもしれない。それが折れるかもしれない、だと、この愚図な娘は心配している。それに、と彼女は付け加えた。
「松の木が可哀想よ! 早く手当てしてあげなくてはいけないわ!」
手当と、幼い彼女は言った。血も涙もない植物に、痛みなんてないだろう。頭のネジが緩んでいる。呆れて少年は溜息混じりに成立しない会話を投げた。
「この木の言葉が聞こえるとでも?」
「き、聞こえるわ! たぶん……」
変に強がっていると見える。案の定、こちらが揺さぶりをかけたらボロが出始めたので嘘だと分かった。声が聞こえるなんてありもしないことは言ってはいけない。どうせ吐くならもっとマシな嘘を吐くべきだ。例えばそこから病気になるとか腐るとか。そもそも、いちいち樹木のことを気にしていたら人生なんてすぐに過ぎてしまう。
「気が済んだ? もう帰ってよ」
言い負かされたのが気に障ったのか、彼女は目を潤ませながら自分の家に帰っていった。これでいい。静かな時間は計算するのに持って来いだ。しばらく待ってみたがその日は帰ってこなかった。変わった娘だ。自分と対等に話せる者は少ないが、眞子都はよっぽどだった。
「何、やってるの?」
しかし明日の朝、昨日と同じく松の木に来てみたら、先客がいた。眞子都だ。手に包帯を持って、着物姿で木に登ろうと、ぴょんぴょん飛び跳ねている。
「あっ、おはようございます! 手当をさせてもらおうと思って――」
「何だよ、それ」
「こ、これは、救急箱から借りてきたので、早く返さなければいけないのですが……包帯です!」
そういうことを訊いているわけではない。昨日散々、もう来るなと告げたのに、なぜ来ていると問いたいのだ。包帯だということは誰だって分かっている。馬鹿正直にこれは何、と訊いているわけではない。その事象に対して何だと言ったのに、彼女は何を考えているのだ。
得意げに笑うのも腹立たしい。早く自分の前から消えてほしい。けれど眞子都は諦めが悪く、いつまでも松にしがみ付いては足をバタバタするだけだった。
「貸せよ」
「えっ?」
見兼ねて彼は包帯を奪って、幹に足を掛ける。向こうも同じ着物姿だと言うのに、流れるようにいつもの場所まで到達した。勘違いしないでほしい。手を貸したのは、もう目の前に現れないでほしいからだ。
眼前でちょろちょろされると面倒だからだ。気が散ってしょうがない。
「コツがあるんだよ。直すから早く帰って」
言って少年は折れた枝に素早く包帯を巻き付ける。余りを返すと、太陽のような少女は嬉しそうに笑って言った。
「ありがとうございます! 松の木も嬉しそうね!」
嬉しそう、と彼女は言う。聞こえないのに、分からないのに。もしかしたらここで折れていたほうが幸せだったかもしれないのに、勝手に判断して満足している。
「嬉しそう? そう言ったの? 違うかもしれないのに?」
「そ、それは……」
もじもじと俯いていく。自信がないことを嘯かないことだ。根拠のないことを発表すると大恥をかく。だからやめたほうがいい。
「だって、わたしが嬉しいから」
「――っ」
唇が、戦慄く。何だって良かったんだ。彼女は自分の感情が満たされるなら。しかし否定はできない。自分も、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
自分を満たすことができなければ、誰も救うことはできない。しかし救うには何をすればいい。彼女のように、優しい心を持った者が傍にいてくれればいいのだ。
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