溺れる金魚
「あぁ、もうこんな時間! あたしは別のところに行かなきゃいけないのよ。来栖、修理に出すついでに、途中抜けしていいからマコを屋敷まで送っていってあげてほしいわ」
「えっ、ちょっと待っ――!」
「そういうことなら、いいですよ。じゃあ眞子都、準備するから少し待ってて」
大変なことになってしまった。そう思う眞子都をよそに、各々別行動を始めてしまう。どこにも縋れない心細さを久しぶりに味わって、社会の厳しさと慌ただしさを味わった。会話がなくなったせいで、室内のざわつきが聞こえてくる。
うるさいと言うほどでもないが、十人そこそこの女性交換手は電話を取って応対し続けていた。電話対応はほとんどやったことがない。こういうとき昔の使用人の顔を思い出してから、次いでツバサの笑顔に思いを馳せる。
「お待たせ。話は付けてきたから、行こうか」
「ひゃっ、ひゃい!?」
匡祐はコートを身に付けて、眞子都の背中を押す。返事をした声は上擦ってしまったので、彼に淡く笑われてしまった。車はなく徒歩で通勤していると、申し訳なさそうに話される。
「車で来るほど遠くには行かないから持ってはなかったんだけど……眞子都の送迎まで命じられるなら、そろそろ買ったほうがいいかもしれないな」
「え、あの、そんな! わたしは大丈夫ですし、何だったら行きも帰りもひとりで充分ですから!」
「君、この時代の治安の悪さを知らないね? 朝はともかく夜は気を付けたほうがいいよ」
近代化が進んで好景気のため華やかで豊かな時代だと思われるが、農村部では経済格差なども多く犯罪が減らなかった。しかしこの地域であれば華族もいれば産業街もあるし、暴漢だっていないと考えている。
だが、その根拠のない自信は出鼻を挫かれることになった。急いで連れて来られたので会社内の道順すらも危うかったのだ。これでは先程の言葉を撤回しなければいけない。言ったそばから頼り切ってしまって、眞子都は肩を落とした。
「ここは入り組んでいるからね。気にしなくていいよ」
「すみません……」
「大丈夫、しばらくしたら覚えられるから」
と勇気付けたはいいが、この少女にはあまり慣れてほしくない気持ちもあった。ここは煙の臭いがする魔窟だ。綾小路が作り出した、感情のないカラクリを産み続ける卵管だと感じている。
そこの頂点に君臨するメアリは視察と称してときどきやってくるが、女王はいつまでも凛として折れそうもなかった。青い目の彼女は人形のようで、こちらの意見なんかあったものではない。
「西園寺って華族なんだろう? 身寄りがないとは言っていたが、機動召使くらいはいないのか? 綾小路のお嬢さんとお友達なんだから」
自分は好かないが、華族には機動召使が付き物だ。眞子都も機械を駆使しているのかと考えると、口中が苦くなったように感じる。
それに、と匡祐はやはり意地悪くからかう癖があった。昔から素直じゃないので誤解されることも多く、世を渡るには少々苦難した性格だ。話を逸らせば自分の嫌なことを聞かずに済むからだった。
「帽子の彼は、お兄さんなんじゃなかったっけ?」
「あっ……! そ、それは……」
思った通り隣の彼女は青ざめて口をパクパク開閉していた。嘘を吐くのが苦手で、騙し合いの世界には住んでいないのだろう。
まるで金魚だ。水槽の中でずっと飼われていて、主人の都合で取り出される。飼育されたペットは、用意された餌と綺麗な浮草しか知らないのだ。
言い訳の仕方も、濁った水も知らない、大切に育てられたお嬢さん。しかし女性はそれでいい。ましてや華族なんて、俗物を知らなくてもいい家庭に生まれている。
「まぁ、いいけどさ。俺は綾小路のお嬢さんに命じられたことをやるだけさ。あ、でもその前にケーブルを修理に出したいんだが、ちょっと付き合ってくれるかい?」
ようやっと出口が見えたので、匡祐がまた話題を変えてきた。修理工場は綾小路社のすぐ近くにある。産業ばかり集中した街なのでそのほうが都合がいいのだが、常に煙が立ち込めており雲行きは悪かった。
軽そうに担いでいるが、太いケーブルは意外と重く骨が折れる。往復して修理に出すよりも、先に預けてしまえば効率がいい。匡祐は顔見知りの親父にケーブルを差し出すと、いつもと同じように伝票を手配する。一仕事終え肩を回し、修理屋を後にした。
「お待たせ。じゃあ送っていこう」
「ありがとうございます」
念のため西園寺家の場所を聞いたら、やはり坂の上の屋敷だった。産業街の入口までは一本道だが、下界は迷路のようなのでメアリの判断は間違っていなかったとも言えた。工場は大きい建物なので迷うことも少ないと思うが、きょろきょろ見渡しながら歩いているだけで誘拐されかねない。
「眞子都は、仕事をするのは初めて?」
「は、はい」
「じゃあ少し教えておこうか。なに、簡単だから。マニュアルもあるし」
急いで出て来たものだからいまは持ち合わせてはいないが、明日にでも渡せばいい。口頭で多少は教えておかねば不安だろう。彼女も勝手に決められた同士だ。
「まずかかってきた電話を取る。そうして言われた部署に繋ぐ。電話ケーブルを該当の相手先に差し替えるんだ。すぐに覚えられるよ」
「そ、そうですか……」
とは言っても不安は残るだろう。初めは慣れるために別の仕事を用意しなければならない。メアリはこちらの具合も聞かず一方的なので苦手だ。確かに先日退職者が出たばかりだが、ひとり欠けても充分立ち回りできるくらいだった。
適当に仕事に就けて眞子都に給料を出そうという魂胆が丸見えだ。それほどまでに大切にされているのを、当の本人が気付いていないのが悲しいところである。
「あの、ケーブルってさっきのでしょうか?」
黒く巻かれた細い蛇のようなものの正体が気になっていたが、はっきりとは聞いていなかった。事に関わるなら知っておかねばなるまいと眞子都は思い切って質問する。家にも電話はあるが、業務用のものなのかコードの形状が少し違って見えていた。
「そうだよ、電話を見たことはなかったか?」
「いえ、あるにはありますが……」
「それなら話が早い」
確かにあれは電話線だが、仕事で使うものなので特殊なのだと教えてくれた。家庭用より太く強固だとされているが、壊れやすくてどうしようもなかった。
「そもそも重いから床に置くしかないんだがな、踏んでしまうのがいけないと思っている」
それでも踏まなければ移動はできないし、移動しなければ仕事ができない。現在、機動召使産業に力を入れているのでこちらには新しいものは回ってこないし、永遠の悪循環だ。なのでたまに視察に来るときにはここぞとばかりに嫌味を飛ばしているのだが、彼女は強かった。
そうこう喋っているうちに、眞子都の生家である西園寺の屋敷へと着く。
「明朝、八時半に迎えに来るよ。週何日働くかはそのとき決めよう。明日はもっと詳しく教えてあげるから」
「分、かりました。ありがとうございます」
帽子を上げて別れの挨拶をする匡祐に、眞子都は会釈をして返す。坂道の途中にある西園寺家は、立派だがどこか侘しかった。先日眞子都と共にいた帽子の男の、気配すら感じられない。
匡祐はひとつ溜息を吐くと、踵を返して会社に戻ることにする。早く戻らねば交換手の女どもがうるさい。この道をこれからふたりで歩いていくのか。女上司はたまに無茶を言うが、今回は酷かった。
自分に任せたからには、眞子都がどうなろうとも関与しないことだ。獲物は柔そうなのですぐに歯形が付きそうである。
『眞子都! おかえり!』
「ツバサ!」
そうして不意に現れた男の影を見送ってから、ツバサは姿を現した。これはもしかしたら幻想かもしれないが、胸のモーターが激しく熱を発している。眞子都がいない間、どうしても笑顔を作ることができなかった。
まるで恋人同士がするようにツバサは眞子都に抱擁する。急にされたから驚いたのだろう。小さく、息を呑む音が聞こえた。
『大丈夫だった? 心配したよ』
優しい声、接している胸が熱い。部屋が暖められているからではなさそうだった。ツバサは人の匂いもしない代わりに、機械の臭いもしない。ただ柔らかく、それは人肌のように包み込んでくる。
「うん、大丈夫よ」
『……あの人は誰? 明日、何があるの? 登録されていないよ?』
「そうだわ! ツバサに報告があるのよ!」
ハッと思い出したように現実に引き戻される。できればずっとこの柔らかい世界で、守られて過ごしていたかった。それでも人は生きるために行動しなければならないのだ。
眞子都に向ける顔は常に笑顔で、何があっても乱れてはいけない。この軟(やわ)な少女はすぐに焦ってしまうから。自分よりも他人の心配をしている。少しずつ自己主張をするようになったので安心していたが、この日短時間外出しただけでもう潰れかけている。
それでも精一杯の愛を込めて応えなければいけない。
『そう、だったのか。大丈夫、眞子都はできるよ。だってボクがついているから』
恋に溺れている。深く、深く。息もできないほど。
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