芽吹くココロ
帰宅すると眞子都の胸がかさりと鳴る。持って帰ってきてしまった棘は、甘く刺さってしばらく抜けそうもなかった。どうしてかバツが悪いので本棚の奥へ仕舞い込む。
それからは比較的、ツバサが大きく笑うようになった。桜の橋での出来事が霞むくらいに生活を続け、この環境も甘んじて受け止められるほどにはなっている。あれから外出は控えるようにしていた。そもそもあの日あのときが異例なのであって、普段はもっぱら家の敷地内の移動だ。
欲を言えば確かに、もっとツバサと広い場所に出かけたいとは思っている。それでも以前の突風のせいで、眞子都は怖気づいてしまったのだった。曖昧な応えをしながら、一歩踏み出すことを恐れている。
『誰だろう、ボクを呼ぶのは……?』
花が散り若葉が盛るころ。初夏の照りつけが肌を焼き始める季節に、ツバサは遠くで声を聞いた。瑞々しい緑を感じる声が彼の耳を叩く。この場所は、本当に植物が多い。根強く生えた命たちは絶えず天使を呼び続けていた。
見てほしい、喜んでほしいと、幸せを分ける準備を欠かさない。ツバサは瞼をそっと閉じ、声のするほうを集中して感じ取った。
『ああ、君か』
やがて特定した場所は、この屋敷の外であった。いまは夜更け。主人である眞子都はすうすうと寝息を立てている。
『どうしても、と言われても……。ボクはここから出てはいけないことになっているんだよ』
ツバサは困惑した笑顔を繕って、独り言を漏らす。窓ガラスに引かれたカーテンをそっと開け、月明かりのない空を仰いだ。こんな日は、眞子都の顔を思い浮かべられなくなりそうだと誤認して、機動召使は目を伏せた。
『天使は神の言葉を伝えるべき……。分かってる、分かってるんだ』
天使としての使命と機械としての使命。そのどちらも背負わされているからこそ、自分はときたま故障してしまいそうになる。桜のときもそうだった。どうしても体が動かなかった。きっとそれは無意識に出した命令だ。
けれど今夜は、絶対に出るなとは言われていない。その逆手に取ったような卑怯な理屈で、ツバサは外套を羽織らされる羽目になった。
『そう、踏まれるのは……痛いよね』
感じることのできない痛みを、口に出してみる。心がこもっていたのかは分からない。
お叱りを受けるだろう。憤怒で歪んだ眞子都の顔はできれば見たくはないが、その先の喜びがいつか巡ってくると計算して、静かに屋敷を出た。
眞子都が朝目覚めると、ツバサが珍しく寝台の横に跪いている。その手には純白の布が乗っており、何事かと思った。
「おはよう、ツバサ。えっと、それは……」萎れかけているが、ハンカチに乗せられたそれは、青々としたシロツメクサの葉だった。「クローバーね。……急にどうしたの?」
『静かに茂っていたから、眞子都に見せたくて』
「あら、そうなのね。でも摘んでこなくても、庭にあるなら一緒に――」
そこで彼女は気付いてしまった。庭師がいたときから雑草はキレイに根元から抜かれており、シロツメクサはその類だからと一切見たことがなかったのだ。生えてきたのだろうか。いや、それでも種が芽吹くには時間がかかるだろう。庭師は解雇の直前まで、きちんと手入れを欠かしていなかったはずだ。
ツバサも不穏な空気を察したのか、眉を下げて対応する。
『これはね、夜のうちに摘んできたんだ。ボクは夜目が利くから、探すのも簡単だったよ』
「……どこで?」
群生する場所を考えた瞬間、眞子都の血の気がサッと引いた。ツバサは答えない。どんなに都合の悪いことでも正直に言えとプログラムされているはずの、機動召使が。
「もしかして外に出たの!?」
遠くには出るなと、メアリの言葉が呪縛のように眞子都の耳にこびりついている。こうして何事もなく戻ってきていることに感謝もできない。
その怒りは心配から来るそれだった。もうこれ以上自分の傍から、誰も何もいなくなってほしくないという、焦燥の表れだ。しかし機動召使は叱咤を叱咤でしか捉えられない。ここまでは想定内であった。
『外に出たよ。近くの山だ』
眞子都の家が建つ前の道は、緩やかな坂道になっている。下れば産業街、登れば山に続いていた。人目の多い街に降りていないとはいえ、やはり危険に思える。山路にも人目がないわけではない。
『勝手に屋敷を抜け出したことは、とてもいけないことだと知っている。けど、その日は新月で、周辺の治安も良かったし、どうしても眞子都に持って帰りたかったから……』
「誰かに見つかったらどうするのよ!」
先日の花見も、精神的にはヒリヒリしていた。それでもツバサと過ごせるなら、とどちらかと言えば高揚感のほうが強かったのだ。ひとりで行ってしまっては、眞子都は楽しくも何ともない。
「ツバサがいなくなったら、わたしは――!」
ひとりぼっちに、なってしまう。初めて味わう孤独だ。怖くて、それ以上は言葉として表現するのをためらってしまった。息ができない。口元を掌で覆っているからではない。いまこうしてツバサと話しているのも、ただの独り言かもしれないと考えてしまったからだ。
『眞子都、ごめん。ごめんなさい。でも、ボクは……』
覚えた言葉は果たして感情と言えるのかどうか。それでも口にしなければ、音に乗せなければ伝わらない。何度だって言う。眞子都がツバサを、本当に心の内に入れてくれるまで。
『眞子都を、愛しているから』
それは、ツバサが花や物から感じ取った心であった。彼らは最大限に叫び声をあげているのに、人間には聞こえない。聞こえなくなってしまった。だからツバサがこの体を借りて、言葉が喋れるものとなってこの地に舞い降りたのだ。
『眞子都の周りにいるものたちは、みんな眞子都を愛している』
しかし機械の体と繋がるときに、記憶の断片をどこかに落としてしまったらしい。それでも少しずつ、思い出してきた気がしていた。昨夜だって進んで出て行ったわけではない。葛藤があったことを知ってほしい。それが例え役目から来るものであっても、迷うことをしたのだ。一度は断ったのだ。
ツバサを支え、指南する神はどこにでも宿っており、愛を叫んでいる。眞子都に伝えなければ。そのものたちから備わった言葉で、声で。受け入れてくれるまで、何度でも。
『眞子都を、愛している』
「な……、どう、して?」
強い愛は、時に人をよろけさせる。いまは固定された布団の上だから、さして倒れ込んではいないものの多少身をよじったようだ。主人の歪んだ顔は嫌悪なのか、それとも困惑なのだろうか。突然そのようなことを言われても、どう接していいのか分からないのだろう。真剣に作りすぎた表情を、機械は一度戻さねばならなかった。
『主人に、笑顔になってほしいから』
ふ、と笑いを作って、同調を誘う。それを見て眞子都は胸を撫で下ろしたのか、一瞬感じた何かを流してくれたようだった。
ツバサが摘んできたシロツメクサは、葉が四枚あるものだった。丸い葉身に白い筋。葉にも花言葉があるのだという。
『幸せになってほしいと願っていた。人知れず朽ちていくのは辛いから、と』
踏みつけられて生きている。道端の草は何も感じていないと思っている。彼らにも願いはあるのだ。それをツバサは自分に重ねてしまって、最終的にはどうしても居ても立ってもいられなくなり決まりを破ってしまった。何も感じないはずだが、高千穂家にいたときと、どこか似ていると推測が働いたからかもしれない。
「それでもわたしは、ツバサが大切なのよ」
震える声で、やっとそれだけ伝えることができた。自分のためにいろいろとしてくれるのは、ありがたいと思う。生の心を言える仲だからこそ、許せないこともある。子どもの喧嘩のようなそれは、柔らかい感情にカヴァーを掛け合うことで収まるものだ。
ひとつオーガンジーの薄布を纏わせて、眞子都は深呼吸のあと、心を震わせた相手に緩やかに尋ねた。
「ツバサ」
『……どうしたの、眞子都?』
主人を愛さない使用人はいない。それは機動召使も同じなのだろう。だから慕っているという意味で、愛を語った、きっと。例えそれが回路に組み込まれた言葉であっても、眞子都の胸を打つことには成功している。
「ちゃんと、帽子は被っていった?」
『うん』
「コートは? いまは暑いから、薄手のものでもいいけれど」
『ちゃんと着て行ったよ』
逆にその成であれば、この夏場は怪しまれるほうだが。それでもツバサは言いつけを守り、外に出て行った。この四つ葉の声を主人に伝えなければと思ったのだ。数日前から、小さな声はどこかでしていた。はっきり聞こえたのは今日になってからだ。もうすぐ枯れてしまうから、誰かに愛を伝えたい、と。
「その、ごめんなさい。わたしも気が動転していたわ」
『ううん、ボクが悪いんだ。勝手に家を留守にしてしまったから』
「今度からは、どんなことでもわたしに言ってね」
ツバサがひとつ頷いたあとは、また緩やかな時間が流れ始めた。そうしてツバサはとある隠し事を成功させた。訊かれなかったからと勝手に言い訳し、本当の授けものの意味を隠したのだ。ちょうどいいからと手折っていった四つ葉のクローバーの持つ複数の意味を、説明はしなかった。激しく眞子都を自分のものにしたい。もっと自分を想ってほしい、と。
感情の起伏さえ見せたものの、それから眞子都はあまり見たことがない枚数の葉を綺麗に押し花にし、本の栞として使っている。風で飛んでいきそうなので室内でしか使えないが、結果的にそれでも良かった。けれどもツバサが外に出たことに変わりはない。部屋の中でしか飼えない鳥のようで、とても不憫に感じられた。
しかし彼は、あんなことがあったあとでも仕事を卒なくこなし、いつまでも笑っているのだ。
そうしているうちにずいぶんと月日が経った。いまだに眞子都はツバサの考えていることが完全には分からないが、共に過ごす時間はかけがえのないものになっていったのだ。
夏には梅をもぎ、梅干を漬けた。浴衣の柄は朝顔や菖蒲など、涼しさを味わえるもの。晩夏に至るまで打ち水をしたおかげなのか、今年の夏はそこまで暑くなかった。
秋には山に実る栗や柿などをもいでみた。少しばかりのお礼にと、道祖神にもお供えをする。そこでもツバサは楽しそうに笑いながら話していた。
『この山の持ち主は寛大だから、少しなら採ってもいいって』
「そう? でも許可を取らないと……」
『ねぇ、山の主はどこ? ……そう、分かったよ。ありがとう』
この石と何を話したかは分からないが、ツバサが示す先を渡っていったら本当に山の所有者に会えたので、眞子都は驚いた。そのころには彼の不思議な能力について、理解し始めていたときだ。混乱するときもあるけれども、それはそういうものなのだろうと受け止めていた。
「ツバサは、どうしてそんなに分かるの?」
『分かるんじゃない。ただ、聞いているんだ』
そう言えば以前も同じ会話をした気がする。
機動召使は陰から隠れて眞子都と山人のやり取りを聞いていた。道祖神の言うように、本当に優しい人だった。老人ゆえ、山を持っていても多くの収穫はもうできないと、少しばかり採るくらいなら構わないとのことだった。
『さっきも話してくれたんだ。石の神の声が』
「本当に、ツバサには聞こえているのね。わたしのためだと思っていたわ」眞子都は力を抜いたように、ふわりと笑う。「わたしを元気付けるために、そう言っているのだと思ってた」
眞子都の手の中には柿が、ツバサの手の中にはいが栗が抱かれている。それがひとりと一体の大きな違いであるのだが、それも些細なことだと感じていた。いがも上手く持てば痛みをあまり感じない。眞子都も栗を拾おうとしたのだが、ツバサに止められてしまった。
『聞こえるよ、ボクは天使だから。神様に仕えてきたから、分かるんだ』
「ずっと気になっていたんだけど……神様、ってどんな人?」
『人じゃないよ。ボクみたいな機動召使の姿もしてない。でもどこにでもいるんだ。神は、人にも物にも宿る』
空は遠く、空気は少し肌寒い。しかしツバサといると温かく感じるのだから神秘に近かった。体温のない機動召使がこれほど強い感情を燃やしている。それは一種の心臓にも似て、駆動するエネルギーを循環させていた。
『神は願いの力でそこに存在しているんだ。人々に向けて愛を放ち、喜びを分け与える。ボクはその手伝いをするために生まれたんだよ』
誰も幸せにできない神は消滅してしまうから、天使が仲介しているのだ。神の声を聞き、迷える人たちをそこに導く。そういう役目だった。
「だったら、ツバサも神様みたいね」
不意な眞子都の発言は、ツバサの目を見開かせる。思ってもみなかった震える言葉だ。驚きと嬉々で、すぐに信じることができなかった。耳が良いのに訊き返してしまう。
『ボクが、神様……?』
「ええ、だってわたしの願いを叶えてくれるもの。それに、愛を知っている」
愛とは何かを、眞子都は知っている。それがひどく羨ましく、ツバサは息が詰まる思いだった。いままでの行為で本当に愛を伝えられたのだろうか。愛を知らないのはこちらのほうだ。
すべてを擲ってでも、眞子都のために愛を伝えなければ。この体が壊れてしまうまで強く、出来合いの感情を燃やさなければ。そうしなければツバサは、この気持ちが伝わっているのか分からない。眞子都の笑顔をもっとたくさん作らなければいけない。
それが愛を表現する、唯一の方法だと信じて。
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