第二か条
花の宴
メアリの手紙は、それから数日後に届いた。機動力であるバッテリーについての話だ。彼女の見立てによると、しばらくは動き続けても問題はないだろうということであった。電力がなくなると動きや喋りが遅くなったりおかしくなったりするので、それを基準にするようにと書いてある。
「ツバサ、お話しできる?」
『どうしたの、眞子都?』
少しだけ心配になったので問いかけてみたが、今日も相変わらず元気そうだった。元気という言葉は果たして合っているのかは分からないが、ツバサの表情を見るとそう言わざるを得ない。
いつも笑っている顔はとても愛おしく、止まると見られなくなってしまうかもしれないと考えると恋しく思う。こちらもつられて笑ってしまうほどで、明るく家を照らしていた。
「ううん、何でもない。お弁当はできたかしら?」
『うん、眞子都が喜んでくれると嬉しいよ』
そうして機動召使は少しずつ、感情の使い場所を弁えてきている。一般的に嬉しいと感じる場面、一般的に悲しいと感じる場面、それ以上のことをいままでの経験で弾き出し、結果としてその言い方をしていた。
食堂で待っているが、今日は朝食を頂きに来たわけではない。出立前にお茶だけはと飲みに来た際に、ツバサからメアリの手紙を渡された。
「今日はお花見だものね」
『でも、桜は少し寂しいって』
「それは申し訳ないわね。でも今日は、河原近くの桜が見ごろなのよ」
ふい、と庭に目線を遣る。自宅の桜は先日花を見てやった。やはり小振りなので、ツバサにはもっと爛漫なものを見せたくなったのだ。あまり外には出せないので、早朝の時間帯を選び、全身隠れる父のコートを貸し出した。河原なら人も少なく、少しの時間ならと気を抜いたのだ。
ツバサには、もっとたくさんの世界を見せたくなった。願いを聞けるなら、救いの手を差し伸べてほしかった。彼には喜びを広げる力がある。例えそれが仕組まれたものでも、眞子都の心は救われていた。
正直なところ、自分を元気にさせるためにそう言っているだけだろうと眞子都は踏んでいる。ツバサといると、次の、明日の生き方を考えることができる。また、草花や物がそう言っているから、そうするべきなのだと予定を立てやすくしてくれているのだ。システムは良く分からないが、行動原理のパターンを組み込んでいるのかもしれない。
「いい? あまり人目につく場所には出ないでね。帽子もコートも脱いじゃダメよ」
『うん、分かったよ』
ツバサが帽子を目深に被ると、明るい髪色はだいぶ隠れてくれる。外套のほうは完全に目立つ羽根を消してくれていた。外国人も見ないわけではないが、顔を見れば規制中の機動召使だと気付かれてしまうかもしれない。
「じゃあ行きましょうか、ツバサ」
朝食を詰め込んだ弁当箱を持って、花見がてら近所散策へと出かけた。もうすっかり春真っ盛りで上着も必要ないくらいだ。
「暑くない?」
『うん、平気』
機動召使だというのに気温の心配をしてしまう。一瞬あとに気付いて、眞子都は赤面した。
「そうよね。ツバサは機動召使だから、関係ないわよね」
『関係なくないよ。訊いてくれて嬉しい。眞子都も大丈夫?』
「う、うん、大丈夫よ。ありがとう」
今日は細かな蝶模様にした。桜の花を邪魔せず、なおかつ寄り添える柄だ。自分が主役になることはないと決めたので、色はほとんどついていない。
「ここならあまり人目もないかしらね」
やがて桜並木の端に寄ってベンチに座る。本数が比較的少ないので人気がなく、それでも満開の花弁が拝める場所だ。目の前は河が流れており、近くに石橋が見える。
「わ、可愛い! 手毬寿司じゃない! いつ覚えたの?」
『残っていたレシピに載っていたんだ。それにこれだったら、少しずつ食べられていいかと思って』
蓋を開けると、彩り鮮やかな掌寿司が並んでいた。むりやり追い出したに近いので、いくつか使用人のものが残っている箇所がある。厨房もその例に漏れず、編纂したレシピなどが多くあった。きつすぎない酢の匂いは卵や絹さや、鯛に良く合う。
「そうだったのね、いただくわ」
昔の料理人が作ったものも美味しかったが、ツバサが作った料理も絶品だった。それはこれまでの皿で分かっていたが、日本食も状況や作法に合わせて渡してくれるあたり、完璧だった。いままでの環境だったら重箱に、食べ切れない量の豪勢なものが詰まっていたに違いない。
手を合わせて小さな一塊を頬張ると、爽やかさが鼻に抜けた。眞子都の口に合わせて普段より小さめだったが、それでも味は劣っていなかったようだ。
「もっと早く、ツバサに出会いたかったわ」
ぽろりと落ちた言葉に、一瞬の水の音が間に挟まった。
『ボクも、もっと早く眞子都に会いたかった』
従順に慕う返事に、己をズルいと思ってしまうときがある。否定をしない彼はいつでも主人を持ち上げてくれる。欲しい音をくれる。それに心地良さを感じ、自分だけ悦に浸っているのではと、感じることがあった。
『あっ!』
だから気付かなかった。ひとりと一体とも。心が満たされて喜びを感じていたから。
この日は南風が強く吹いて、今年最後の見ごろの日だった。ツバサが庭の桜を介して、今日のことを教えてくれたのだ。次の日は雨か、強風で落ちてしまうと。
父のものだった帽子が飛ばされてしまい、河に落ちそうになる。これはいけないと眞子都は飛び出した。それにはもう正輝の影は感じず、ツバサが身に付けている想像しかできなくなっている。
「いけない! ツバサはここで待っていて!」
『眞子都!? 待って、待っ――』
駆けていく眞子都の背中を、ツバサは追っていくべきか一瞬迷った。主人の命(めい)だ。本来なら言われた通りに、そこで留まっているのが機動召使の勤め。どうしてか快諾ができなかった。それは危険に晒す行為であるから、という理由とは他に、何か別のものが一瞬浮かんだのだ。いつもの笑みはどこへ行ったのか、いまは眉をハの字に歪め、伸ばした指を引っ込められないでいる。
『眞子都……』
愛しい主人の名を、ぼそりと呟く。帽子はどうやら橋まで飛んでいき、そこにたまたまいた人が捕ってくれたようだった。水の音が邪魔でどうにも声が聞こえない。
「あっ、すみません! それ……!」
「やあ、君のかい?」
肩甲骨まで伸びた髪が見えたので、女性かと思ったら青年だった。彼は振り返って眞子都を見遣る。遠くからでは分からなかったが意外と長身で、ツバサよりも高い。声も低く響き、しっかりとした大人の男性だった。
よくよく見れば紳士服だったので、不躾に男性に声を掛けてしまったことを申し訳なく思う。
「き、急にすみません! はい、わたくしの、です」
「にしては、男性ものだけど?」
「えっ、そ、それは……!」
黒髪の少女は困ったように瞳を揺れ動かす。勤務先に向かう途中でとんだ清純な女性に出会ったものだ。運がいいと男は口中で呟くも、果たして惚れたかどうかと言えば別である。
「まあいいけど。気を付けなよ」
ひらひらと帽子を持つ腕を回して観察していたが、あまりにもたどたどしいので、くすりと笑って眞子都の頭に乗せてやった。子どもと大人の間で彷徨っている少女は、無理に大人の冗談に付き合わすべきではない。
「あ、ありがとう、ございます……」
着物は小振りな蝶だが、銀糸も練られているのできっといいところのお嬢さんだろう。背高の男はそう感じると、持ち前のひねくれで歯を浮かすセリフを吐いてしまう。あの木陰に誰か見えるのもあって、いたずらに関係を壊したくなったのだ。
少女だけに聞こえるように――もっとも、ここからでは大声で話さない限り、常人には聞こえないが――、そっと囁いてみせた。口元を遮る、掌のおまけ付きで。
「花に戯れる蝶かと思ったよ。可憐で素敵だね。……おっと、彼氏持ちには失礼だったかな」
遠くに見えるツバサのことを彼氏だと思ったようだ。早朝の、靄が晴れた先の逢瀬は逆に健全すぎて、自分の手には余りそうだ。清すぎる水には魚が住めないように、真白い心には男にとって致死量である。
「い、いえ! 彼は、その、……兄です!」
だが眞子都は気付いていないと思っている。必死に否定する少女は、嘘を用意しているあたり意外と芯が太く、そして柔軟に感じられた。残念ながら瞳がまだ少し泳いでいるので、年長者に嘘とバレないほうがおかしいのだが。その一生懸命さが気に入って、男はもう少しからかってみたくなる。
「ふ、そうか。それなら良かった。じゃあ俺、君の恋人に立候補しようかな」
「え、えっ!?」
「なんてね。過保護な“お兄さん”が黙っちゃいないだろうから、俺はこれで失礼するよ。そうだ」
男は懐を漁って黒革の名刺入れを取り出した。流れるように出現した薄い紙には、鳥の箔が押されている。
「俺は来栖(くるす) 匡祐(きょうすけ)。彼に飽きたら連絡しておいで」
「は……、えっ! あの、っ――」
しかし眞子都にはそういう気もないので、返そうかとも思ったのだが、匡祐は踵を返してスタスタと歩いて行ってしまった。匡祐も匡祐で、本気で今後のことを考えて渡したわけでもない。少女が可愛くあったのは事実だが、本来のところは自分の生活に刺激が欲しかったのだ。遊びでも本気でもいいから、もう一度心身を燃やすような何かが欲しい。
だから気紛れに、適当に、そこにいる女性に名前を教えた。誰でもいい。誰かが、何かを与えてくれるまでその行為は続けられるだろう。
「おっと、遅刻だな」
懐中時計はすでに八時五十五分を回っていた。九時出勤のはずだったのだが、これでは大目玉だ。もうすぐ就任しそうな女社長は若く血気盛んで、労働意欲もある。先程の少女と歳は同じくらいに見えたのに、天と地ほどの差を感じた。
どちらの生き方が幸せなのか、匡祐には分からない。肩を竦めて思案するも、しかし誰にも分からないのだと悟り、答えを出すことがどうでも良くなってしまった。苦を知っていても、そこから持ち直せばいい。生きてさえいれば、多忙の中、心をいつか取り戻せると薄く思う。
去っていく匡祐の背中をしばらく見送っていたが、眞子都はハッと我に返った。急いで帽子を届けなければとツバサの元に駆け戻る。とりあえず名刺は胸元に挟んでいるが、今後どうすればいいのか良く分からない。
「ごめんね、お待たせ!」
『ううん、ありがとう。……大丈夫だった?』
ツバサは変わらず笑顔で、帽子を受け取ってくれる。今度こそはどこにも飛ばすまいと、紛失とは別の意志で再び目深に被り直した。橋の上にいたのは、見立てしたところ男性(メィル)。眞子都が困っていたような素振りも見えていたので心配になったのだ。
「あ、ええ、……大丈夫よ。それより、そろそろ帰ろうかしら? 風も強くなってきたし」
眞子都の黒髪が、桜の花びらを纏いながらバラバラと舞う。受け応えるときに、ほんの一瞬だけ困惑した表情をしたのを、ツバサは見逃さなかった。本当にどうでもいいことなのか、それとも機動召使には言えないことなのか。それが分からなくて唇を開閉する。
『ボクは眞子都を、いつも気にしているからね』
帰ってきたのが肯定ではなかったので、眞子都はわずかに目を見開いた。次いでおかしそうに微笑み、嬉しそうな表情を作る。
「分かっているわ。ツバサにはいつも感謝しているのよ。ありがとう」
彼女の頬は桜色に染まる。メアリほどではないが、人形のように柔らかく月光のごとく白い肌が、満開の桜に埋もれていく。どこかに消えてしまう感覚がして、ツバサは眞子都の手を取った。
「ツバサ……?」
どうしようもない欲は、己のカメラを狂わせてしまう。どこにも消えてほしくない、大切で大事にしなければいけない人だ。ずっと側に居ることを約束するが、主人の意向で簡単に廃棄されてしまう。安心しろと耳の奥でブザーが鳴り響いているのに加えて、その逆に運命は受け入れるものと規制もかかっていた。
『――帰ろうか、眞子都。ボクたちの家に』
この感情は何なのか、互いに分からず何度も通過させてしまう。全容が分かるまで、相手を困らせないようにすべて笑みで取り繕ってしまうのだ。とても大事なものの、はずなのに。
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