春の綻び
ツバサは別室で控えている。メアリに昨日言われたことを直前で思い出した眞子都は、彼を食堂に残してきたのだ。あまり人目に晒すと、どこでどう噂を立てられるか分かったものではない。
『あぁ、君もいたね』
しかしツバサはひとりではない。食卓を丁寧に拭いて暖炉の灰を掻きだしたあと、一言そう呟いた。
『そう、眞子都が見てくれて良かった。君も嬉しそう』
梅の花は、ひらり一枚零れ落ちる。天寿を全うしたかのように、ひとつ、またひとつとぽろぽろ白いテーブルに花弁の水滴を作っていった。ツバサはこれも慈しむように掻き集め、枝と一緒にハンカチに包む。
まだ土ばかりで緑の少ない庭に出ると、梅の木の傍に寄って先程果てた枝を添えてやった。
『眞子都には喜んでもらえたよ。今度は満開になったら、案内するね』
花はすでに九分咲き。今日の気温なら明日にでも満開になるだろう。主人に愛でられることを嫌がる侍従はいない。この梅は眞子都が生まれた日に、父によって植えられた。これは強く彼女と繋がっている。
『そう、眞子都を愛しているんだね。ボクもだよ』
そうして瞼をそっと閉じる。化学繊維で作られた長い睫毛は慈しみを、ラテックスの口角は愛しさを、胸のモーターは鼓動を打って心を湛える。神の声はツバサの中に入って、愛を受け取って魂を呼応させる。
しばらくしてから、眞子都が客を見送った声が聞こえたので、ツバサはガラスの瞳を開けた。
『また明日来るよ。ボクも眞子都の喜ぶ顔が見たいから』
植物は、人間に比べて素直だ。願いを叫ぶ声が聞こえる。人の心音は聞こえるが、何を考えているかまでは分からない。きちんと言葉に出してくれないと、願いは叶えることができない。
もう一度、お母さまに――。その先の言葉は、ツバサには分からなかった。
眞子都はひとつの本を手に取る。翻訳された洋書だ。潮風を感じるツバサの顔立ちを見ていると、新しいことに挑戦してみたくなるのだ。
書店員からあれやこれやと煽てられて購入したはいいものの、本当に読めるのか疑問だった。
「ツバサは、どこの国で生まれたの?」
『ボクはイギリスで体を作ってもらったんだ。生まれたのはもっと昔だけど』
設計図という意味で、眞子都は理解した。二次元と三次元には、けっこうなタイムラグがある。
「イギリス……。じゃあこの本の故郷とはまた別ね」
タイトルの意味は良く分からなかったが、何事も読んでみなければ分からないだろうと決心した。ペラペラとページを遊ばせて、まずは紙の質感を確かめる。
『ドイツ帝国だね』
「読んだことあるの?」
『ボクは本は読まないけど、眞子都が教えてくれるなら覚えられるよ』
訊いたが、首を横に振られる。機械が読書から何か感情を得ることはないが、主人が語る内容の起伏や感情の想いを覚えておくことはできる。好みを把握し、次に提示できるものを探すこともできた。
「そう、それなら読んであげなくちゃね。だってステキなものだったら、ツバサにも覚えていてほしいもの」
『――うん、ありがとう』
若干の間は、眞子都には気付かなかった。主人の言葉の意味を把握しきれず、機動召使は何と答えればいいのか迷ったのだ。それは思いやりだった。少しずつ眞子都が、ツバサのことを実体のあるものだと理解し始めている。その感情が、ツバサの肌を波打たせたのだ。
人に近しいものとして扱い始めている。何を言われても何も考えず、肯定や了承をするように設定されているはずなのに、その言葉のせいで一瞬の戸惑いが生じた。愛は鉄を溶かし、そこに歪な心を作る。
見てほしいと叫んでいる。幸せになってほしいと願っている。人は素直ではないので、機械がそのようなことを言い始めても信じてはくれないだろう。だからぶつけるしかない。想いをすべて、彼女の傍に居続けられるうちに、全部。
『おはよう、眞子都。朝だよ』
今日も暖かく陽が登っている。また本を読みながら寝てしまったらしく、手元には昨日買ったものが転がっていた。ツバサはそれを拾い、本棚の隙間に戻してくれる。
『ここで良かった?』
「うん、ありがとう」
内容は、眞子都には少し難しかった。それに一昨日から遅くまで起きていたので、考えていたより早く寝てしまったらしい。本に挿し込めなかった栞がそれを物語っている。
『今日の予定は、何かある?』
「いいえ、今日も特に予定はないわ」
今日も、とは言ったものの、ツバサが西園寺家にやってきてから、予定がない日がなかった。予定がなくても、彼に作られてしまうのだ。
初めは屋敷の案内から細かい道具の在りかまで、次に炊事や洗濯といった家事一般。ご近所さんや東京一通りの地図まで。メアリのことや、眞子都のことも話していた。
『良かった。それなら今日は庭に出よう』
「庭?」
『今日は梅が満開なんだ。見てほしいって、叫んでる』
言われた通りに庭に出てみると、本当に紅梅が咲き誇っていた。三月初旬の空気はまだ肌寒いときもあるが、もう春の真っ盛りに差し掛かろうとしている。
「これだけ見事なら、梅の柄はやめておいたほうが良かったかしら?」
梅と言われたので今日は松竹梅の柄の紬にしたが、本物に比べると見劣りしているような気がして肩身が狭かった。もう少し大人の配慮を身に付けようと思っていると、ツバサから優しく声がかかる。
『眞子都はキレイだよ。それに梅も喜んでる。自分たちと同じで、嬉しいって』
「えっ、え? そう、かしら?」
どの言葉に返そうかと迷っている内に、曖昧な返事をしてしまった。それでもツバサは気を悪くする素振りも見せずに笑っている。機動召使なのだから当たり前といえば当たり前なのだが、恥じらいすら覚えるやりとりだった。
『うん、だから心配しないで』
ツバサがさらに目を細めると、それだけで納得してしまいそうだった。柔らかく愛を語るセリフには慣れていない。直視できず眞子都が再び梅を仰ぎ見ていると、機動召使から衝撃の言葉を貰った。
『眞子都を愛している』ツバサが急にそういうものだから、少女は瞬間焦りを覚える。『そう梅が、伝えてほしいって』
「え……梅が?」
次に続く言葉を聞いて拍子抜けしたが、胸を撫で下ろした先はわずかに空しかった。彼は“愛”と言う。無機質の彼が、機械の言葉で。
愛を知っている、きっと人の自分よりも。
『ここの草花たちは、大切にされてきたんだね。ついでだから今日はここで一日過ごそうよ。他のみんなも、久しぶりに眞子都に会えて嬉しいんだって』
言われてみれば、庭に出たのは何年ぶりだろう。手入れは庭師がやっていたが、その者たちもいなくなってしまった。放っておけば荒れ放題になることは間違いないが、それでも構わないと眞子都は思っていたのだ。
花を愛でる気持ちを忘れていた。乙女として、そしていまは植物の主人として申し訳なく思う。
『梅の匂いが強いから、今日は白身魚にしたよ。もう少ししたら梅の実ができるね』
「食べちゃうの?」
『そうやって人は命を紡いで来たんだよ。花を愛で、実を貰い、種を運ぶ。共に生きて、共に喜んでいる』
ツバサが置いてくれた丸テーブルに座っていたら、湯気を湛えた朝食を運んできた。タラの塩焼きに温野菜が添えられて、何とも温かな食卓だった。梅の香りを邪魔せず、ふんわりと漂ってくる。
食後のお茶も熱くしたもので、外にいる主人をいつも労わっていた。
「ご馳走さま。ありがとう、今日も美味しかったわ」
『本を持ってこようか?』
「あー、そうね。この陽射しで読書も、悪くないわね」
晴耕雨読と、昔からいうが、眞子都のみならずほとんどの華族は畑を耕したことがない。庭を育てることに興味がある者はいるだろうが、農業をするまで家計を逼迫していることはなかった。東京を出ればいまだに畑が広がっているが眞子都の知るところではない。
太陽光で文字を照らしながら、ひとりと一体は静かな時間を過ごした。時折冷たい風が肌を刺すが、梅やその他の緑土の匂いを引き連れてきたので、それほど苦ではない。
「明日は、何をしようかしら」
目が疲れたので一度栞を挟んで、傍に控えていたツバサに話しかけた。向こうは体を縮み上がらせることなく直立不動である。半ば自然に、彼の存在を認め始めていた。草花や空気と同じように、動きのあるものだと読みそこなってしまう。
『今度はピンクの花が咲くみたい。蕾も膨らんでいたし、もうすぐだよ』
「ピンクの、花?」
それでも彼と交わす会話の中で、引っかかりはすぐに嚥下される。ツバサが指差す先は、桜の木が植わっていた。梅と並んで名のある春の花だ。ただあれは眞子都が女学校へ上がったときにあつらえたもので、まだ樹齢は浅い。細い枝についた少しばかりの蕾は確かに膨らんでいたが、花見をするまでの量ではなかった。
「あら、桜ね。もうすぐ時期だけど、花見には向かないかしら」
『花見?』
「花を見ながら、会食をするのよ。うちにも昔は大きな桜があったんだけどね、わたしが幼いころに病気になって切っちゃったの」
桜は病に弱い。その程度の知識はあるが、病気の種類までは眞子都には分からなかった。根まで取り除かねばならないと聞かされてびっくりしたほどだ。抜き取られるまで気付かなかった自分には、愛でる資格があるかどうか。ぼこぼことした根元を見たときは若干の嫌悪すらも覚えた。
『そうだったんだ。だから、小さいのにたくさんの喜びを持っているんだね』
「そう、なのかしら……?」
喜び、と彼は常に言う。眞子都が見てくれるから、傍にいるから嬉しいのだと、ツバサは教えてくれる。歓喜や楽しさを感じ取れるというのだろうか。人ならまだしも、花の心を機動召使が分かるわけがない。眞子都にはちっとも聞こえない音を、もしかしたらどこかで拾っているのかもしれない。あるいはそのように言えと設定されているだけなのか。
「その……ツバサは、草花の思っていることが分かるの?」
可能性としては後者だろう。だってツバサは過去の話を知らない。本当に植物に意思があるというのなら、病で苦しかっただろうに、そのような感情を持っているとは思えなかった。
それでも訊かずにはいられないのが人の心理か。好奇心と懐疑心の狭間で、欲しい言葉を望んでいる。どこかで救われることを願って、自分に都合良く答えてくれることを無意識に待っていた。
『人に対しても植物に対しても、思っているだけのことは伝わらないよ』
しかし彼は、その問いに肯定はしなかった。より正確に、自身のことを伝えてくれる。
『話してくれるんだ、自分の願いを』そうしてひとつ息を吸ってから――正確にはその分の間隔を開けてから――、ツバサは再度語る。『眞子都も、何でも教えてね。ボクが全部、叶えてあげるから』
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