梅と手紙は淡く薫る
ツバサと話すと子どもに戻った気分になる。それにいまはもう八時になる。早く準備をしなければ書店が来る時間だ。急いで着替えなければと寝間着の胸元に手をやった。
「あ、あのツバサ――」
『うん、外にいるから、終わったら言ってね』
やはり機動召使とはいえ、男性型は気を遣う。着替えの際、何回かやりとりをしたら覚えてくれたようだ。扉が閉められると、寝間着を脱いで手早く小紋と袴に着替えた。髪を結うのも使用人任せだったが、いまではイギリス巻きもマガレイトもお手の物だ。
女学生の間では良く流行ったが、両親がそれを善しとせず、あまり触れられなかった部類だ。大和撫子は長く艶やかな髪を結わいて過ごすもの。母とて煌びやかな時代に生きていたが、日本女性として淑やかに暮らしていた。
「今日は時間がないから、後ろで結ぶだけにしておこうかしら」
眞子都は長い髪を束ね、蜜柑色の絞りのリボンを巻き付ける。袴と同じ色の髪留めは、濡れ羽の髪に良く似合っていた。支度ができたので扉を開け、ツバサを迎える。
父が古い人間なので意外に思われるかもしれないが、眞子都の部屋然りほとんどの部分は西洋建築である。両親が良く使う部屋やプライベートスペースは和室だが、人目に付くところは真紅の絨毯が敷かれていた。
食堂も、長机とテーブルクロスが置かれていたりと、さすがの父でも西洋の風には勝てなかったらしい。
『今日は梅を挿しておいたよ。とても甘酸っぱい香りがするんだ』
眞子都の食事スペースの傍には、細長い陶器の花瓶が鎮座している。飲食の邪魔にならないように、それでも遠すぎないように置いてあった。挿されていたのは一枝の紅梅で、確かに良い匂いがしている。
梅は、先日ツバサに教えた帝国の花だ。食堂入口の反対側はガラス張りになっていて、庭が良く見える。ツバサが不思議そうに眺めていたのでいささか説いてやったのだった。今日は得意げに一輪挿しを披露してくるものだから、感心して溜息が漏れてしまう。
「ツバサが採ってきたの? すごいわね」
『あまり植物の負担にならないようにね。先日の雪のせいで痛んでしまったみたいだから、萎れる前に眞子都に見て欲しかったみたい』
「雪……。あぁ、そうだったのね」
しかしツバサがこの屋敷にやってきたのは雪が溶けてからだ。きっと総一郎の家か、出荷前に予備知識を持っていたのだろう。何もなければ主人と話ができない。確かに今年は雪が深かった。冬の時代も長く、三月の半ばになってやっと暖かくなってきたのだ。
『いまシチューを持ってくるね。昨日食べたいって言っていたから、作ってみたんだ』
「ありがとう、ツバサ。頼むわね」
確実にこれが食べたい、という気も薄れていたが、せっかく作ってくれたのだし、お腹が空いていたのでお願いをする。ツバサが満足そうに出て行くと、勢いよく炭の爆ぜる音が響いた。食堂は窓が多いので冷えやすいが、機動召使は分かっているようだ。こちらは暖炉に火がくべられ、赤々と燃えている。
人気のない食卓でひとり、いままでの朝を考える。家族の支度を整え、綺麗に掃除をされ、暖かい部屋と朝餐が何も言わずとも用意されていた。さらに冬場は指を赤くした労働者たちがたくさんいたのだ。多くの活動の上にどっしりと座っていたのだという感覚を、眞子都はふと味わった。
が、機械であれば寒さや暑さでどうにかなることもない。弱音も吐かず、一体で何でもこなしてしまう。それに庭の花を添えられたこともなかった。便利で視野が広い反面、いままで働いていた者たちが可哀想にも思えてくる。彼こそは大切にしなければと、ただ漠然と思う。
『お待たせ、眞子都』
ふっと鼻孔をくすぐる匂いがしたかと思えば、いつの間にかツバサがブラウンシチューを持ってきてくれていた。庭を見ていた眞子都はツバサに向き直り、微笑みを返してスプーンを手に取る。パンではなくご飯であることに親しみを覚えた。米の炊き方は眞子都が教えたのだ。
「本当に、何も食べなくてもいいのね」
まじまじと観察しているが、ツバサの唇には何もついていない。眞子都に隠れてこっそり何かを食べているのではないかと、実は少し思っていたりする。本当は人間で、機動召使のふりをしているのではないかと。しかしそうまでして世間を騙すメリットも思い付かないため、その考えはすぐに撤廃した。
「ご馳走さま、美味しかったわ」
味見もできないというのに、なかなかな美味であった。眞子都であれば五回くらいは味を見ている。ツバサはいつまでも呆れるくらい綺麗な動作で、皿を下げていった。食後のお茶を持って再び戻ってくると、いつもはない白い封筒も手元に携えている。
『ポストに手紙が入っていたよ』
「あら、どなたからかしら?」
『高千穂 タヱから』
おおかたメアリからではないかと思っていたが、母からだったらしい。普段あまり聞かない呼び捨てではあったが、その懐かしい名に眞子都は顔を歪めた。その泣きそうで辛そうな表情を見て、ツバサは首を傾げる。
『イヤだった?』
「いえ、いいえ、違うの。タヱは、わたしの母よ」
正確には、母“だった”。本当に婚姻関係を結んだらしく、苗字が変わっていまは高千穂を名乗っている。やっと一段落着いたのか、別れてから眞子都に宛てた、初めての手紙だった。
『そう、眞子都に会う前に聞いていたよ。タヱというのだね』
昨日のぼそりと言った言葉が聞こえていたのなら、あのとき別室で控えていた彼に例の騒動も聞こえていないはずがなかった。許嫁が許嫁でなくなった瞬間。総一郎の暴挙も聞こえていたのに、いままで黙っているしかなかったのだ。
初めから主人が眞子都であれば、もう少し早く元許嫁の悪行も暴かれていたかもしれない。
『覚えておくよ。どうぞ』
手紙と煎茶を差し出されて、どちらを取ろうか一瞬迷った。視線が泳いだ先には、やはり手紙がある。そっと手を伸ばして、それでも怖くて一度引っ込めた。
「あっ、いけないわ! もうすぐお客さまがいらっしゃるわね! お掃除しなくちゃ!」
『それならボクがもう――』
「そ、そう? だったら客間へお茶菓子を持って行かなきゃ」
『それももうボクが――』
「えっ、あ、あぁ、そう。……ありがとう」
ツバサは機動召使だ。基本的な来客手順くらいは眞子都が口出しなんかしなくてもマスターしている。それに掃除なんかは客間だけでなく、屋敷中くまなく済んでいるはずだ。使用人が何十人がかりでやっていたことをひとりで、いや一体で済ませてしまう。
退路を断たれてしまって改めて手紙に向き合うが、真白い封筒は何とも無機質に見えて、いまのツバサよりも怖い。
『無理に開けなくてもいい。けど、眞子都が怖がるようなことは書いてないよ』
「っ! ……見たの?」
『無断では見れないよ。でもそれからは、悪い気持ちは感じられない』
日本にはない言葉なのか、ときどきツバサは困惑させることを言う。それでも背中を押すことができるのだから不思議だ。それは彼の笑みのせいもあったり、柔らかい言い方のせいでもあったりする。
眞子都は唇を引き結び、意を決して封を切った。そこには母の謝罪と、娘を心配する愛の言葉が綴られていた。それと小切手。眞子都がしばらく生きていけるくらいの金額だ。総一郎の我が儘を聞く代わりに捻ってくれたのだろう。
『ほらね、眞子都が笑ってる。やっぱりいいものだった』
気付かぬうちに小さく笑っていたようだ。悲しみの匂いもするが、互いに生きていることを確かめられて良かったと思う。ツバサも幸せそうに目を細めていた。
『車が来たみたいだ。書店屋かな?』
「車? あっ、もうこんな時間!」
ゆっくり何度も読み耽っている間に、けっこうな時間が経っていたようだ。急いで席を立ち、玄関へと急ぐ。せっかく淹れてもらったのだからとお茶を飲み干したが、体が重くなったような気がしてそこまで早く走れなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます