廃油と炭の間で
「あらいやだ、バッテリーのことについて話すのを忘れたわ」
友人の眞子都と別れた当夜、食後の紅茶を啜りながら、メアリはひとり呟いた。奇しくも眞子都が同じことを思っていたころだ。
久々の女の子との会話は、年頃の気持ちを思い出させてくれる。油と煙ばかりでは、自分が乙女であることを忘れてしまいそうだった。
「まぁでも起動したばかりのようだったし、しばらくは大丈夫かしらね」
学生時代なら二、三時間は余裕で喋っていられた。今日は夫にムリ言って三十分ばかり時間を貰ったのだ。そのうち二十五分ほどは、仕事のことをすっかり忘れていたのだが。昔に比べてもっとせっかちになった気がする。
「あたしもまだまだね。楽しさで仕事を忘れてしまうなんて」
甘い考えがまだ残っていることに歯噛みした。もっと社会人としての自覚を持たなければ、女で若いことを理由に、部下は言うことを聞いてくれないときがある。
「ふふ。でも、いまごろたくさん困っているかも」
それでも心の余裕が生まれたのか、慌てる眞子都の姿を思い浮かべると、可愛くてつい顔が緩んでしまう。世間知らずなのは治らなかったが、許嫁もいるし花嫁修業も自分よりうまかったし、きっとこちらよりもっと幸せになる人だと勝手に思っていた。
高千穂家のお坊ちゃんには腹が立つが、うまいこと隠しているものだ。さすがのメアリも気付かなかった。それでもこうして眞子都の元に機動召使が渡ったことは、結果的に良かった。こうして今日は楽しめたからだ。
機動召使のいない西園寺家には、仕事との理由で遊びには行けない。世間はそれを許さないだろう。
「それにしても、ⅡB‐SAは気になるわね。でも、うちが違法輸入するわけにもいかないしぃ」
思考を切り替えようと、新しく出会った機動召使について考えた。メーカー魂をメラメラ燃やして、メアリは人差し指を噛む。少し廃油の臭いがした。工場で働いている者たちはこれを全身に浴びて働いてくれている。そんな彼らの生活を考えると、遊んでばかりはいられなかった。
話には聞いていたⅡB‐SAは、思っていたより線が細かった。ゴムの触り心地も良かったし、軽量化に成功していると見られる。海外の機動召使には戦闘用が多いが、きっと彼はそれを得意としていないはずだ。なので、どちらかと言えば自国的ではあった。大日本帝国は戦争に対してそこまで活動的ではない。機動召使も華族の小間使いとしての役割が多く、綾小路が生産する八割を占めていた。
「天使、って何なのかしらね? 機動召使にそんな機能は必要ないと思うんだけど……」
分からないことをいつまでも考えてもしょうがないが、海の向こうの技術者との交流を一時的に断絶されているとどうしても知りたくなってしまう。メアリは唇をもごもご動かして、もどかしさを表現していた。
母が生きていれば、もしかしたら海外の文化も聞けたかもしれない。そのどうしようもない追憶を、頭を振り払って強制的に忘れる。
「まあいいわ。禰宜、代書してちょうだい」
『畏まりました、お嬢様』
メアリは部屋の隅に待機していた機動召使を呼びつけ、文机に座らせた。でかい図体なので羽ペンは小さく見えるが、なかなかどうして器用で丁寧な字を書く。機動召使の、見本のような文字は嫉妬するが、それよりも別の理由を胸に秘め唇を尖らせる。
「その、お嬢様っていうの、もうやめてくれない?」
『先に宛名からお願いいたします』
「あー、違うってばもう!」
堅物はぜひ禰宜だけにしてもらいたい。十年ほど前のモデルなので、少し意思疎通ができにくいのだ。メアリは一度諦めて眞子都に送る文面を伝えた。
「読み終わっちゃった」
結局一睡もできず、深夜まで小説を読みふけってしまった。昔はこんな遅くまで起きていたら、部屋から漏れる明かりを元に、母か使用人にきつく叱られたものだ。もう眞子都を叱ってくれる者はいない。
「新しい本が読みたいわ」
椅子に座っていたら背中が痛くなってしまった。背伸びをしたあと本と共に、無造作にベッドに倒れ込む。読み終わったが、愛着が湧いて何故か手放せない。表紙を愛おしく撫でて感触を確かめていた。
「それに、もう一度、お母さまに……」
春先とはいえ夜は冷える。まだ暖炉では火が燻っていた。パチリ、とたまに炭の爆ぜる音がする。密閉されていないので窒息の危険性はないものの、火事の可能性は否定できない。
しかし揺れる灯火を見ているうちに、眞子都はうとうととし始めてしまった。ランプを消さなきゃ、暖炉を消さなきゃと思っているが、どうしても体が動かなかった。ずんずんと意識が重くなっていく。粘性のある水が腕に絡まっていくみたいな、そして何もない空をふわり浮いているような感覚だ。
その日は、昔の夢を見た。メアリと学校でおしゃべりし、帰宅後は両親と召使と、総一郎が出迎えてくれる。温かくて、軽やかで、幸せだった映像。そこに『誰か』が現れた。彼はただ無言で、かつ笑顔で、眞子都のすべてを奪っていく。
小首を傾げて子どものような無邪気さで、無機質な瞳で見つめてくる。そこには自分しか映らない。
これは誰なのか、それを探っていると、耳に優しい声音が滑り込んできた。それと目の端を焼く陽の光。ひとつ息をすると、現実の体の感覚を取り戻す。
『おはよう、眞子都。朝だよ』
「あぅ、朝……?」
結局起きられずに朝を迎えてしまったようだ。夢の内容はあまり覚えていないが、どうしてかすごくぽっかりと穴が開いたような感覚だった。
暖炉の火は掻き出され消されていたが、朝の陽射しで部屋は暖かく保たれている。いつの間にか掛け毛布が一枚追加されて逆に暑いくらいだった。
『遅くまで起きていたの? 夜更かしは女性がするものじゃないよ』
「え、えぇ。そうね。……明かりが漏れていたかしら?」
仰向けのまま見るツバサの顔は、どこにもツギハギがなく人間のようだった。その目は優しく細められているが、奥はどこも見つめていないように感じる。
『ううん、眞子都の声が聞こえていたから』
彼が耳をトントンと示すとラテックスの耳朶が柔らかく揺れる。聴力がいいのは昨日で実感したが、部屋が遠い主人の声を恥ずかしげもなく聞いたと言える辺り、眞子都のほうが赤面してしまう。
「き、聞こえていたの……?」
『うん、そう言った』
「そ、そうだったのね。恥ずかしいわ」
緊張で眠気も覚めてしまった。いまとなっては増えた毛布もありがたい。顔を覆うものは一枚でも多く欲しかった。
『それより、今日の予定は何かある?』
「えっ、ええ? そうね、今日は特に予定はないけど――」
『良かった、電話をかけたんだ。十時から書店屋さんが来てくれるよ』
「書店? どうして?」
眞子都の手元に置きっぱなしだった本をツバサは手に取り、満足そうに笑う。
『新しい本が欲しいんでしょ? ボクが呼んでおいたよ』
「あっ、それ、それは……!」
新刊も気になるところではあるが、ぽろっと漏れた言葉さえも聞き取っていたのか。それはそうか、聞いていた、とツバサは言った。半ば心根にあるような願望でさえも叶えようとしている。
「でも、そんな急に……」
『迷惑だった?』
「え、えっと、そうじゃない、けど」
触れ合うのが初めてなので、付き合い方の加減が分からない。それはきっと向こうも同じで、昔メアリが禰宜を叱っているのを覚えていた。きちんと命令しないと分からないのだと、ふんぞり返っていたことを思い出す。
しかし今回は、急ではあったが別に迷惑ではない。それに厚意であることには気付いていたので、申し訳なくてきつくは言えなかった。
「いいえ、大丈夫よ。ありがとう。助かるわ」
『良かった。そうと決まれば、今朝はシチューだよ。お腹空いたでしょ? 昨日は食べてないんだから』
言われて思い出したが、確かに空腹だった。扉が閉められているのでそこまで匂いはこないが、小鼻を動かしてみればほのかに香ばしい香りがする。ツバサは何でもできた。花嫁修業をしていた眞子都より完璧にこなせるので、拍子抜けするほどだ。
「ありがとうツバサ。起きるわね」
『うん、眞子都。腕をどうぞ』
起こし方も見とれるほど。寝不足だからか、あまり体に力が入らないので助かった。機動召使は嫁に行くことはしないが、若干嫉妬する。回らない頭で促されるまま立ち上がり、するすると案内された。
『今日は何色の服がいいかな?』
箪笥と一緒になったクローゼットの前まで手を引かれ、丁寧に扉が開かれる。ツバサは着物の柄名で言うことはない。あれやこれやと難しく並べられていた眞子都には、新鮮な言い方だった。
今日はこういう日だからと、決められた柄を渡されるときもある。それはそれで楽なのだが、たまに侍女の気合が入りすぎて派手な模様のときもあったのでそれは勘弁願いたかった。
『これは本のようだね』
「本?」
ぼうっとただ並ぶ和服を見ていたら、向こうから声が掛かる。ツバサが手に取ったのは、深緑の小紋だ。柄は扇だった。地紙の部分が本を広げたように見えたのだろう。眞子都はくすりと笑って、主人より知識のない召使に教えてやった。
「ツバサ、これは扇よ。それにこれは訪問着……だけど、今日は来客があるからこれでもいいかしらね」
こういうとき、召使をすべて解雇してしまったことに後悔を覚える。今後の出費に関わるからと切ってしまったが、誰も作法を教えてくれないと、これはこれで不便だ。それでも十七年間教育されていたおかげで、大抵のことは身についた。
『扇?』
「あら、見たことなかったかしら? あとで見せてあげる。それよりお腹が空いちゃった」
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