唾棄すべき破棄
「は? 何言ってんの?」
苦笑交じりに対峙したのは、許嫁のはずの高千穂 総一郎だ。彼はさも面倒くさそうに髪の毛を掻き上げた。言葉を向けられた眞子都とタヱは、さらに絶望して唇を戦慄かせる。
「あの、総一郎、さま……?」
「読んだよ、手紙。でもさ、都合良すぎない? お金がないからオレに頼ろうって? のこのこ助けを求めに来ちゃってさ、バッカじゃないの?」
先の一連を語った書面は、万来に届けさせた。早朝で失礼かとは分かっていたのだが、その場で内容を読んでもらえたのだ。総一郎がすぐにでも、と呼びつけたことを聞いて、これで助けてもらえると息巻いていた眞子都は、感謝もそこそこ改めて経緯を語っていた。
思えば茶の一杯も出ないので少しおかしいとも思っていたのだ。急遽のことだからと片付けていたが、そもそも総一郎には、西園寺家をもてなそうという意志がなかった。
「呼んだら本当に来るんだもん。わざわざ笑われに来ちゃってさ! おっかしいね!」
悔しさで唇を噛む。急に恥ずかしくなって眞子都は俯くことしかできなかった。あの優しかった彼の面影は一切感じられない。久々に会えると思って、少し着飾って来たのだが、この衣装もバカらしく思えてしょうがなかった。
「ハッ! 金があるから構ってやってたのにさ。それがないならもう来ないでよ」
総一郎は一通り笑ったあと、今度は磨かれた爪を見ながら、無関心に言い放つ。次いで衝撃の一言もせせら笑いと共に薄い唇から漏れた。
「そうそう、婚約も破棄するから」
「っ、そんな……! ですが、そのように簡単に破棄なんてできません!」
「父親が浮気した、なんて爵位剥奪ものでしょ。そっちにもう権限はないよ。そんな家の娘と婚姻なんて、できるわけがないじゃん。オレの経歴に傷が付く」
弾けるように顔を上げたが、冷たい瞳でそう吐き棄てられて一蹴される。総一郎はサスペンダーで吊り上げられたスラックスを交互に組み替えて、机に置かれた紙を見下した。
文が破られる音は、一瞬幻聴かとも思ったほどだ。関係が壊れる音が具現化したのではないかと。
おもむろに手に取ったかと思えば、三、四回引き裂いて微塵にする。バラバラになった元許嫁の手紙は簡単に投げ捨てられた。深い絨毯の上で散らばったそれを、拾いに来た使用人に暖炉にくべるように命令する。
一生懸命助けを求めた言葉は、霧散してもう元通りにならない。
「地味で古い子は、実のところ趣味じゃなかったんだ。清々したよ」
とはいえ相手がいなくなるのは面倒だ。父にも早くとどやされているし、どうにか手ごろな女が欲しいと思案する。眞子都は駄目だ。名前に傷が付くだけではない。本当のところは、いささか底にある。
「あぁでも、そちらの女性ならオレと結婚してもいいよ」
「えっ、わたくし……ですか?」
示されたのは、タヱだった。確かに美人だが、夫と娘を持つ母親だ。こぶつきなんて誰も欲しがらない。そもそも蒸発しただけで死別ではないので、正輝との婚姻関係も続いているはずだった。
「ち、ちょっとお待ちになってください!」
気が触れたのかと焦慮して、指された女は声を上げる。そのタヱの抗弁も空しく、総一郎は無視して自分語りを続けた。
「オレ、他に女が五人いるんだよね。だからその隠れ蓑にさ、歳も眞子都よりかは近いし、あんたも生きていけるし、最適でしょ?」
総一郎は二十六歳、タヱは三十三歳だ。十七歳の眞子都よりかは確かに近いが、年増の嫁を貰おうという気はほとんどの男性が思わないだろう。婚期を引き延ばしていた理由は、総一郎が大学院を卒業するまで学業に専念したいとなっていたが、実際の理由は別にあったのだ。許嫁の他に女性と交友関係を持ち、色に耽っていた。
「だったら、眞子都でもいいではありませんか……!」
「さっき言ったじゃん。父親が浮気した娘なんていらないよ」
いいや、そうではない。総一郎は眞子都が嫌いなのだ。女は自分に寄って集ってくるものだと思っていた。しかしそれをこの娘はしなかった。慕ってはいたと思う。それでもこちらが少し甘い言葉を囁いても、気恥ずかしさからか、それ以上進むのを避けて通るようになったのだ。
だから母をこちらの掌中に収めておけば、泣いて媚びへつらってくるはずと道筋を立てた。泣きじゃくって懇願すれば、ほんのわずか目を掛けてやってもいい。
ムカついたのだ。純粋さは有害であり、障害である。男の言うことを何の疑問も持たず聞いていればいいのだ。心を入れ替えれば、思い通りになりさえすれば、傍に置いてやらないでもない。
お前もひとりでは生きてはいけまい。啼泣すればいい。愛する者を失くした悲しみを知るがいい。
「あんたが嫁いでくれるなら、西園寺家を支援してあげてもいいよ? 娘ひとり生きていくだけの金は送ってもいい。その代わり、もう西園寺とは関係を切ってね?」
もっとだ。もっと眞子都には、誰からも手を出せないように孤独になってもらわねば。それでなくては自分に戻って来ないだろう。細々と暮らしていけるだけは援助してやらねばいけない。
女性ふたりは息を呑む。今度は室内なのに寒気を感じるほどであった。総一郎の心の内は読み取り切れないが、恐ろしい計画がすんなりと叶えられようとしている。どうしても娘を嫁がせねば、その使命は果たしたかったが向こうの様子を見ていると、どちらにしても気の毒だった。
しかしタヱが高千穂家に嫁げば、眞子都も細々生きられる。その逆は、ふたりとも路頭に迷うことになる。母ではなく女であることに感謝して、これから薄暗い部屋で過ごせば救われる。
「……分かり、ました」
タヱが西園寺家と縁を切るなら、総一郎の名にも傷は付きにくい。適当に嫁の位を埋めることで、遊んで暮らす術を確保するのだ。
「お母さま!?」
「聞き分けが良くて助かるよ。若い娘は何かと不便でね。オレの愛人が嫉妬しちゃうから。あっ、そうだ!」
手をパチンと叩いて、再び近くに控えていた使用人を呼び寄せる。総一郎から眞子都に、最後のプレゼントだ。花や貴金属を贈ったが、結局自分好みの煌びやかな女性にはならなかった。本当に、地味で味も面白味もない娘だ。
「君のところはまだ起動召使(オートマタ)がいないんだろう? 手切れ金として一体譲ってやるよ。せいぜい慰めてもらいな」
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