貧乏華族のため誰も貰い手がなかった令嬢は、舶来品の機械天使に愛される
猫島 肇
深淵の底から
会いに行く。
愛に生く。
忘れてはいけない、大切な人。
愛している。心の底から。星が燃えるみたいに、瞬きが消えないように。
だから待っていて。必ず、傍に。
***
『おはよう、眞子都(まこと)。朝だよ』
耳元で心地いい声が聞こえる。軽くなく重くなく、すっと体に入っていく声。呼ばれた少女は胸の高鳴りと共に目が覚めた。ひとつ息を吸い、隣に控えている青年を見つめる。
彼は柔らかい笑みを称え、主人である眞子都を見返していた。冬が溶け、春になる前の気持ちのいい朝。暖炉には細い火がくべられ、少し暖かくしてくれている。
「ツバサ、おはよう」
朝一番に返す充実した挨拶。潤んだ睫毛を細かく数回瞬かせ、少女ははっきりと相手を見たくて時間を少し使った。朧気な頭で今日という日を考えていたら、従者は恭しく続きを促してくれる。
『今日は、友達のメアリ嬢とティーパーティーだったね』
言ったと見るや、ツバサと呼ばれた青年が、主が掴まるための腕を出した。
「あぁ……。そうそう、楽しみだわ。あなたも紹介しなくちゃね」
思い出したと合点がいって、眞子都はその滑らかな指を持って、ベッドから起き上がる。さらさらと、シーツから黒髪が引き連れられた。この時期の朝に相応しい東雲色の唇を動かして、満面の笑みを綻ばせている。
***
「はぁ!? ありえないんだけど!?」
怒号と驚愕を飛ばすのは、女学校時代に同級生だったメアリだ。彼女は紅茶を噴き出しながら眉根を寄せて怒っていた。
どれだけ顔に皺を刻んでも可愛さは崩れない。彼女の父は母国の人だが、母がイギリス人なので、遺伝した白い肌とブロンドではどうあっても不細工にはならなかった。それに瞳も海のように透き通って青い。この場にいるのが不自然なほど容姿が整った淑女だった。
「そ、そんなに怒らなくても……」
怒りに気圧されながらも、眞子都は少しばかり友人に抗議した。自分にとっては憧れの外見でこうも憤怒を顕わにしているのだから、つい見兼ねてしまったのだ。笑っていれば可愛いのに、はっきり物を言い過ぎるのが玉に瑕で、負けん気も強い。
しかしそれは、はしたなく飲み物を噴き出してしまったのを咎められたのだと勘違いした。
「あら、ごめんなさい。それにしても、マコ、それは言ってやったほうがいいわよ!?」
素早くポーチからハンカチを出し、口元を押さえる。口角も素早く動いているので、優雅なのかせっかちなのか、どっちつかずだった。
綾小路 メアリは今日の話を楽しみにしていたのだ。ぷりぷり怒っているが、本当に。短期間に起きた友人のいきさつを聞くことは、いつの時代も茶菓子のよう。甘いものがなくてもお茶が進んでしまう。
「いいのよ、そのおかげでツバサにも会えたし」
「良くないわよ!」
マコ、と呼ばれた少女は、困惑した笑みを浮かべながらメアリに返した。ここは辛うじて、まだ西園寺家の屋敷の一角。その家主、西園寺 眞子都は、久しぶりに友人と話して喉がカラカラだった。こちらも煎茶をくいと飲み干し、再びメアリを宥めることにする。
「とりあえずは生きていけてるし、まぁ、大丈夫じゃないかしら?」
「確かに、ヒドイ男に嫁がなくて良かったけど!」
時は大正。女性が少しずつ活躍の場を広げてきていたが、いまだ虐げる男性も多くあった。声はまだ小さく、泣き寝入りすることも少なくない。眞子都の場合もそうであった。
このお茶会が開かれる、数週間前のこと。それは雪の残る早朝の出来事だった。使用人がやけに小うるさい。窓の外はまだ薄暗く、朝の支度には少し早いと思われる時間だ。
しばらく様子を窺っていたが全く物音が止む気配がなかった。晩冬とはいえ身震いするほど寒かったが、目をこすって起き上がる。
「お母さま? どうなされたのです?」
リビングに顔を出してみると、青白い顔をした母がソファで体を固くしていた。服はまだ寝間着だったが、起き抜けという感じではなさそうだった。暖炉にはまだ火も灯っていない。これでは寒くて肌も白くなるはずだ。主人を放っておいて何をしているのかと眞子都は怪訝そうだった。
遠くでは、朝早くから電話も鳴っている。こんな時間から不躾ではあるが、対応しないのも失礼だ。しかし召使たちはどうにも忙しいのか、受話器が上がることはなかった。
「誰も出ないのかしら? ちょっと――!」
「眞子都、心して聞きなさい。お父さまが……」
誰かを呼びつけようと思ったのだが、母に制止されてしまう。薄い唇は震え、声音は低く、これから良くない内容を発声することを悟った。思えば父の姿を見ていない。姿どころか声も音沙汰もないので、眞子都は息を呑んでひとつの結論に至る。
「まさか、お亡くなりに……!?」
「いいえ、もっと酷いことになりました」
父、西園寺 正輝(まさてる)は厳粛な人だった。母、タヱもまた、父に似て伝統を良く守り、良き妻であり良き母だった。いまどきのハイカラな時代に、いまだ根強く残っている、ともすれば古臭いと言われてしまうほどだ。元来、正輝は男児が欲しいと考えていたようだが、結局のところ眞子都の他には子は授からなかった。
親には悪いが、眞子都はそれで幸せだった。厳しくも規律を守り育てられたおかげで、どこへ出ても恥ずかしくない女性になったと思っている。男児の役割にも劣らず、長女の役目を果たすことができるほどだ。
そんな家族に何事かと、タヱにつられて眞子都まで顔を青白くさせていた。
「父は、いえ正輝は……芸妓(げいぎ)と浮気しました」
「うわ……って、えええええーっ!?」
そう、父は、厳粛な人“だった”。いきなりの言葉に眞子都は耳を疑ってしまう。いままでは考えられないほど、はしたなく大声を上げてしまった。予想外のことを聞いたせいで、一瞬の寒さを忘れることはできたが。
だがそのあとが大変だった。家族にも使用人にも気付かれないように、正輝は西園寺家の財産を使っていたのだ。
「奥さま、お嬢さま。その、大変申し上げにくいのですが……」
執事の万来(ばんらい)が声を掛ける。浮気が発覚してから正輝を家じゅう探したが、見つからなかったと言う。その途中蔵の鍵が開いていたので中を改めたところ、貴金属はもちろん名のある書物や掛け軸に至るまで、ほとんど何も残っていなかった。
報告を聞いて取るものも取りあえず外へ出てきたが、タヱと眞子都が見ても現状が変わることはなかった。薄暗いから何も見えないのだと思い燭台を隅々まで動かしたが、ただ石壁が見えるばかり。
「あぁ、どうしてこのようなことに……」
「お母さま、気をしっかり! 母を寝室へ!」
数人の使用人に声を掛け、タヱをお願いしたのだが、女性たちでは手間取っているようだった。父付きの男性使用人は、この家に見限りをつけてほとんど出て行ってしまったのだ。そうだろう、資産もなく、浮気をするような主人には付いていけない。
現在残っていたのは万来と、タヱと眞子都付きの侍女くらいだった。しかしそれでは暮らせない。この財産では使用人はおろか、女ふたりでさえ満足に生きていけるか怪しかった。
「そうだわ、総一郎さまなら……! お力になってくれるかも」
眞子都はひとりの支援者を思い出す。高千穂 総一郎は、親同士が決めた婚約者だ。婚儀はもう少し経ってからと考えていたが、きっと彼なら助けてくれる。以前から親しくしているし、彼は優しかった。親の取り決めなくしても、ふたりの関係はうまくいっていたのだ。
そんな彼の笑顔を考えると、口元が少し綻ぶ。西園寺家と高千穂家、父の不祥事をなしにすれば、西園寺家のほうが資産は上だが、総一郎は気負わず接してくれた。男性はプライドが高いと思っていたが、そうでもなく安心したのだ。
眞子都はこれ名案と急いで母へ報告に行った。朝から騒動があったせいで、眞子都もタヱもまだ寝間着だ。総一郎への書簡も認めねばならない。冬の寒さは心の芯から温まって、毛ほども感じなくなっていた。
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