見え透いた罠
「あ」
教室に辿り着くと、砂音は既に登校していた。目が合うと、互いに気まずい間が流れる。砂音は砂音で、昨日の話を誤魔化した負い目でも感じているらしい。曖昧な笑みを浮かべて、何処かよそよそしく挨拶を掛けてきた。
「おはよう」
「……おう」
俺はというと。それだけ返して、目を逸らした。とてもじゃないが、あんな夢を見た後で、まともに砂音の顔なんか見られなかった。それでも、やっぱり気になって。視界の端で捉えると、俺の反応に砂音は少し気落ちした様子を見せていた。俺が怒っているとでも思わせてしまったかもしれない。……んな顔すんなよ。
今朝の夢の事も
「あの……千真」
思いがけぬ真摯な口調に、振り向いた。砂音は今しがたの萎れた表情から、何か決意を固めたような硬い
「俺……」
「居た居た、時任ー!」
その時。唐突に割り込んで来た第三者の呼び掛けによって、話は遮られた。身構えていた身体が、急速に弛緩を余儀なくされる。
声を掛けてきたのは、同級生の一人だった。同じように肩透かしを食らって少々戸惑った様子の砂音だったが、すぐに笑顔でそいつと挨拶を交わし始めた。……何なんだよ。タイミング悪すぎだろ。
「それで、俺に何か用だった?」
「そうそう、さっき廊下で菅沼と会ってさ」
「!」
いきなり飛び出して来た菅沼の名前に、砂音も俺も、同時に息を呑んだ。
「時任、昨日学生証落としてったろ? そのまま化学準備室で保管してあるから、休み時間取りに来いってさ」
そいつの伝言は、そんな内容だった。役目を追えた同級生が、別の友人とのお喋りに移行するのを見届けてから、俺は改めて砂音に切り出した。
「おい、砂音……行くなよ。絶対に罠だぞ、こんなの」
あのくそエロ眼鏡教師……ちっとも諦めてねえ。
砂音は神妙な顔で、何やら考え込んでいるようだった。それから、意を決したように――。
「俺……行くよ」
とんでもない事を言い出した。
「はぁ⁉ 何言っ……」
思わず大声を上げそうになった俺の口を、砂音の人差し指が封じた。さっと周囲に視線を走らせると、俺の声に反応してクラスの奴等が何人かこっちを見ていた。……危ねぇ。慌てて小声に切り替える。
「おい、砂音お前……っ」
「大丈夫。一度、ちゃんと話し合わないとと思ってたし」
「話し合うったって……」
あんな奴、まともに話を聞くとも思えないぞ。――どうしても、行くっつーなら。
「俺も行く」
しかし、砂音は首を左右に振った。抗議しようと口を開いた所で、先回りされる。
「千真も居たら、先生は話してくれないと思う。……大丈夫。俺にも考えがあるから」
「だが……っ」
「俺を信じて」――真っ直ぐな瞳に見詰められて、俺は言葉に詰まった。
信じろっつったって、そんなの……どう考えても危険だろうが。だけど、ここで俺が〝信じられない〟と言ったら、コイツを傷付けるのは目に見えていた。だから、俺は――。
「……本当に、大丈夫なんだろうな」
苦渋の末、折れるしかなかった。砂音は少しホッとしたように表情を緩めると、大きく頷いて見せる。……くそ。何でもっとちゃんと止めねーんだよ、俺。コイツの『大丈夫』が大丈夫だった試しなんかねーだろ。
砂音の決意は固いようだった。何を言っても無駄だろう。……ならば、俺は。俺にも考えがある。
次の休み時間。砂音は早速行動を開始した。
「それじゃあ、俺……行くね」
やや緊張した面持ちで、宣言する。そんな砂音に、俺は「くれぐれも気を付けろよ」なんて月並みな言葉を掛けて、見送った。……振りをした。
実際には、砂音から少し遅れて、俺も教室を出た。向かう先は、化学準備室……の隣の、化学室だ。準備室の扉は、廊下側と、化学室内部の二か所に併設されている。実験に使う器具をそこから運び込むからだ。
おそらく、砂音は廊下側の扉から声を掛けるだろうから、その時に俺が近くに居るのを目撃されたら、菅沼を警戒させてしまう。砂音の目的は〝話し合い〟なのだから、俺はそれを阻害しないように、二人からは見えない位置に控えていなければ。
幸い、休み時間の化学室には誰も居なかった。次の授業で使う予定はないらしい。音を立てないように気を付けながら、準備室の扉の前まで移動する。扉の上部はガラス張りになっているが、化学薬品に光を当てない為か、短い暗幕が引かれていた。だが、完全には塞がれておらず。狭い隙間から、丁度中の様子が窺えた。
室内にはまだ、菅沼の姿しかない。余裕綽綽な態度でデスクに着いて何か作業をしているようだが、何をしているのかまでは見えない。別ルートを取って来たからか、砂音よりも俺の到着の方が早かったらしい。程なくして、予想通り廊下側の扉からノックの音が響いた。続いて、砂音の声。
「……時任です」
少し音が遠いが、扉に耳を押し当てれば、何とか聞こえた。砂音の到着に、菅沼がいそいそとデスクから立ち上がり、そちらに向かう。廊下側の扉が開かれ、顔を出した砂音に、菅沼が声を掛けた。
「来たな。学生証は机に置いてある。持ってけ」
そう言って、デスクの方を示したようだ。……嫌な予感。何で、今持ってかなかったんだよ。入り口で手渡せば済む話だろ。
室内に誘導する気なのが見え見えなのに、砂音は「失礼します」だなんて律儀に挨拶をしながら、素直に従ってしまった。――おい!
思わず叫びそうになった口元を押さえ、息を詰めて見守る中。机上の学生証を取りに行った砂音の背後で。
扉が閉まった。次いで、ガチャリと。鍵の掛かる音。
ハッとしたように、砂音が振り返る。菅沼は、後ろ手で廊下側の扉を内側から施錠したらしかった。
「……悪い子だな、時任。何であの時、来なかったんだ?」
「先生はずっと、待ってたんだぞ」……そんな恨み言を口にしながらも、菅沼の口調は何処か愉し気だった。獲物を追い詰める狩人のような。――嗜虐的な、愉悦。
「少し、仕置きが必要なようだな」
そう言って菅沼は、口元を吊り上げて、笑った。
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