隠し事


 そして、現在。


「次の授業は……化学か」


 五限後の休み時間。確認するように俺が呟くと、砂音は一瞬、びくりと身を竦ませた。それから、取り繕うような笑みを浮かべて。


「そ、そうだね……もう移動しようか」


 何処か落ち着かなげに、そう言って準備を始めた。――やっぱり、変だ。

 最近、砂音の様子がおかしい。……いや、最近に限った事でもないが。

 〝例の事件〟の事でずっと気落ちしてたコイツが、幼馴染みの女と付き合う事になって。ようやく前向きに戻れたようで、何よりだと思っていたのだが――どうやら、問題はまだ何かしら残っているらしかった。


「……お前、化学の菅沼すがぬまと何かあったのか」


 問い掛けると、やはり砂音は刹那身構えたように見えた。


「何で? 別に何も無いよ」


 その笑顔も、嘘臭い。


「何も無くはないだろ。最近、何か菅沼の事避けてるだろ」


 あの雨の日からだ。砂音が昼休みに姿を晦ませて、雨に濡れてびしょ濡れで戻って来た――あの日から。化学と聞くだけで何処か緊張した素振りを見せるようになったと思う。

 触れようとした俺の手も、怯えたように弾かれた。あの時の様子は、尋常ではなかった。絶対に何かあったに違いない。


 なのに砂音は、相変わらず誤魔化してくる。「ちょっと苦手なだけだよ」なんて。らしくもない事を言って。


「お前が苦手って、相当な事だぞ。もう隠し事はしないって、約束しただろ」

「それは……」


 〝約束〟をチラつかせると、砂音は戸惑いを見せた。〝例の事件〟絡みで隠し事まみれで散々俺を心配させた事を、コイツは悔いている。だから、これからは。何かあったら、ちゃんと相談する。――そう、約束を交わした。

 砂音もその事は心得ているので、逡巡の末に、意を決したように口を開いた。


「大した事じゃないんだ。ちょっと、噂の事を言われて……」

「噂の事って……」


 ――『時任 砂音は、頼めば何でもしてくれる』

 そんな噂が、一時期校内のあちこちで囁かれていた。そしてそれは、最近コイツの幼馴染みが止めさせるまでは、紛れもない事実だったのだ。

 それを、化学教師の菅沼に知られていた?


「――脅されてるのか?」

「ううん。本当に、ちょっと言われただけ。……それ以来何も言ってこないし、もう大丈夫だと思うから」

「大丈夫って……」

「ごめん……朱華しゅかちゃんには、言わないで。心配させたくないから」


 またそうやって、隠し事をすんのか。……そう言いかけた所で。確かにあの女に話したら、下手すりゃ教師をぶん殴りそうで怖ぇな、とも思ったので。結局それ以上は深く言及出来ずに、授業時間を迎えた。


「予定よりも、時間が押したな。実験器具はそのままでいい。授業は終わりだ。このまま解散」


 菅沼の言葉で、化学の授業は無事に終わりを告げた。面倒な片付けからも開放された生徒達の間で「やったー!」なんて歓声が上がる。砂音もほっとした様子で息を吐いていた。

 注意深く見ていたが、菅沼も特に変な行動は起こしてこなかった。……安堵した所で。しかし、事は起こった。


「時任、器具の片付けを手伝ってくれ。先生一人だと時間が掛かる」


 菅沼がそんな事を言い出した。砂音がそのままの表情で凍り付く。――仕掛けて来やがったな。


「何で、時任指名?」

「さぁ、優等生だからじゃね?」

「優等生も大変だな」


 他の生徒達も軽く疑問には思ったようだが、勝手に納得して、とっとと化学室から出ていってしまう。俺は固まる砂音の肩に手を置き、声を掛けた。


「……砂音、手伝う」


 すると、菅沼がぴくりと眉を顰めた。


「時任だけで充分だ」

「人手は多い方が、早く終わりますよ。それに俺、コイツと同じ部活なんで。どうせ一緒に行くし」


 明らかに砂音に狙いを掛けている菅沼に、そう返してやると。奴は不機嫌そうに眼鏡の下の眼光を鋭くした。――この野郎。

 火花が散る勢いで睨み合った後、俺に退く気がないと悟ると、菅沼は折れた。忌々しそうに漏らした舌打ちは聞き逃さなかったぞ。


「ごめん、千真。……ありがとう」


 小声で謝意を示した砂音に、首肯だけ返す。

 ……にしても、菅沼の野郎。何が目的だ? 砂音と二人きりになって、何するつもりだったんだ?

 ともかく、俺がしっかり見張っていよう。そう決意を固めて、実験で使った器具の片付けを開始した。


「ああ、時任。それはそっちじゃない」


 隣の化学準備室まで器具を運んできた所で、菅沼が砂音を制止した。声を掛けるだけでなく――腰に手を添えて。


 ガシャン。砂音の手から離れた顕微鏡が、重たい金属音と共に、床に落下する。砂音がハッとしたように拾いに掛かった。


「すっ……すみません」

「あーぁ、何やってんだ。ほら、指とか怪我してないか。見せてみろ」


 菅沼がそう言って、砂音の手首を掴む。


「大丈夫です! 怪我なんて……」

「いいから」


 慌てる砂音のその手を、俺は菅沼から奪い取った。


「俺が後で見とくんで。先生は作業に戻っていいですよ」

「いや、生徒に怪我をさせたとなったら、俺の責任だからな。俺がきちんと確認する」

「誰も先生に責任なんか問いませんから。気にしないで下さい」


 何が『いいから』だ、このくそエロ教師。まさかと思ったが、コイツの目的は――。

 舌戦を繰り広げる俺達の間に割って入った砂音の「俺、何処も怪我してませんから! 大丈夫です!」の主張で。その場は、とりあえず収まった。

 それ以降は菅沼も滅多な事は出来なかったようで。ひとまず何事もなく片付けも終え、今度こそ開放された。


 化学準備室を後にして、廊下を歩きながら、俺達は暫し無言でいた。

 職員用のトイレに差し掛かった時、砂音の手を引いて、連れ込んだ。思った通り、他に人は居ない。ここはいつも空いている。

 砂音も俺から何か訊かれる覚悟はしていたんだろう。抵抗する様子はなく、大人しく付いてきた。俯き加減で目を逸らしたままの砂音に、俺は単刀直入に切り出した。


「……砂音。お前、噂の事言われたって……菅沼に、されたのか」


 あの噂――『時任 砂音は、頼めば何でもしてくれる』……それは、キスでも。それ以上の肉体的接触でもだ。

 その事を知った菅沼が、砂音に何を求めたのか――それは、おそらく。


 砂音は何も答えない。答えられないんだろう。こんな事。教師に狙われている……なんて。

 いや、待て。あの日――あの雨の日。


「何が、あった。……アイツに、何を


 ――本当に、話だけだったのか。


 問い詰めると、砂音はびくりと肩を竦ませた。強張る表情。――それが、答えだった。

 嘘だろ。


「……大丈夫。誘われて……結局、行かなかったから。何も無いよ」


 ――『何も無いよ』

 あの時も、そうやって誤魔化したよな。砂音。


「この先も、二人きりにならなければ、大丈夫だと思うから……」


 心配しないで。そう言外に含ませて、砂音は無理に笑って見せた。――大丈夫な訳、あるかよ。

 胸が騒ぐ。モヤモヤする。何だ、この黒い感情は。


 砂音が、菅沼に――。


 そう思うと、俺の中の何かが……たがが外れる、音がした。

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