第5話 わたしたちは傷つけあう
「本当は風邪じゃないんだよね」
アイギスの家の呼び鈴を鳴らすと、おばさんが出た。おばさんは眉根を下げて言う。
「学校に行きたくないって。ねえ、何があったか知ってる?」
ぼくと一緒に読んだ本に理由があるだろうことはわかっていた。でもそれよりも、今のぼくは自分のことで精一杯だった。彼女に、ぼくの話を聴いて欲しくてたまらないのだった。
「あの、アイギスと少し話させてください」
おばさんは唇をゆっくりと噛んだ。少しの間考えたのち、彼女はぼくを家の中へと招き入れてくれた。ぼくは頭を下げる。おばさんがぼくの背中に触れ、指先で何度か叩いてくれた。
「アイギスいるんだろう」ぼくは扉をノックする。
「ぼくだよ。部屋に入るね」
扉を開けて中に入る。いつも通りの彼女の部屋だった。勉強机の横には本棚があり、幻想小説を中心に少年漫画なども収まっている。中央にすえられた小さなテーブルの上には、一昨日の昼休みに図書室で一緒に読んだ本が乱雑に置かれていた。彼女はベッドの上に座っていて、その胡乱な目つきの周囲は赤腫れしていた。彼女はぼくの名前を呼んだ。
「おばさんが入れてくれたんだ」そう言ってぼくはテーブルの近くに腰を下ろした。
「心配してたんだよ。二日間なにをしていたのさ?」
俯いたアイギスは何も言わなかった。彼女はとてもくたびれているように見えた。同時に何かに怯えているようにも。そんな彼女を見ながらなお、ぼくは昨日から続く、彼女と違う人間であることの恐怖と、ついさっきの体験へのおぞましさがぼくの中で混ざり、底なしの黒く深い沼が心の中に沸いてしまった。
「さっきまでさ、連れられて河原に行ってたんだ。そこにさ、えっちな本が沢山あるから行こうぜって。というのも、昨日の昼休みもぼくは図書室で調べてたんだけど、あいつらに見つかったんだよ。その流れで、もっとすごいもの見せてやるからって言われて、連れていかれたんだ。といっても無理矢理だよ。ほんとは行きたくなんかなかった」
ぼくは自分が何を口にしているかを理解し始めた。自分がいかに愚かなことを話しているか、女子に対して口にするべきではないことも。女子。アイギスは女子だった。この瞬間、さらなる恥辱がぼくを襲った、ぼくは男子であり彼女は女子なのだ。でも、口は止まらない。
「そこには大量のえっちな本が落ちていた。どこかの大人が捨てたんだ。雨と土、川の水でくたびれて泥がこべりついて、ページがくっついていた。あいつらはその中から比較的きれいなものを探して笑い合っていた。ぼくはすごくいやな気持ちになった。そこで一人が、その場でし始めたんだ。土に汚れたものを卑しい目で見ながら。ぼくはその時、自分は何て恐ろしいものを皆に教えてしまったんだって、とても恥ずかしく感じた。ぼくらをおかしくさせる、この胸を腰をざわざわとさせる気持ちは、本当によくないものだ。この気持ちのせいで、どこかで知らない誰かが沢山死んでいるのをぼくは知っている。なのにぼくは、それを広めてしまった。あいつらはきっと、これから毎日のように一人でするよ。その度に誰かが一人死ぬ。ぼくは、ぼくだけがその事実を知っている。ぼくは、ぼくは、恐ろしいことをしてしまったんだよ」
ぼくは自然と握り拳をつくっていた。その行為は、世界にいる誰かを殺すだけではない、アイギスも汚していた。彼女を守る盾、あるいは羽が土に汚れ落ちていてもあいつらは拾わない。どころか拾って大切に扱う人なんて皆無に違いない。でもあんな本ならば拾う人がいるのだ。
「わたしは」アイギスがゆっくりと口を開いた。
「きみと調べてから、とてもショックを受けているの」
彼女はようやく話し始めてくれた。ぼくは立ち上がるとベッドの上、彼女と向き合う形になって座った。でも視線を合わせてはくれなかった。
「あと少し経ったら初潮がくる。それは子どもが出来るようになった合図で、これから私はお母さんのような身体に近づいてゆくんだよね。月経が始まれば私は、ペガサスも吸血鬼も、魔法の杖にも満足できなくなるような気がするの。花は喋らない。岩石は歩かない。そんな世界になっちゃうんだ。月に一個作られる私の卵子を、数億匹の精子が着床するために奪い合うだけなんだよ。わかんない、私が素敵な女性になれるかなんてわからないから、もしかしたら奪い合わないのかもしれない。そしたら、私は月に一回お腹が痛くなって、私の卵はトイレに流れてゆくだけなんだよ。それが怖い」
彼女は再び泣き始めていた。掴まれたシーツがしわをつくっていた。ぼくはその掌に自分の手を重ねた。彼女の嗚咽が掌を通じて伝わってきていた。
「いやだよ。私は私だけでいたい。誰にも奪われたり傷つけられたりしたくない」
ぼくは自分のペニスが誰かを傷つけることを、アイギスは自分のヴァギナが誰かに傷つけられることに怯えているのだった。まだ安全な繭の中にいるぼくらは、その傷への予感におびえている。加えてぼくは、そんな傷だらけの応酬の底に潜む、世界の裏で繰り広げられる更に甚大で陰惨な傷を想わずにいられなかった。ぼくはズボンと下着を脱いだ。そこから、シャウエッセンのような小粒が起立姿勢で現れた。彼女はぼくの小粒をみた。驚き、目を見張った。彼女は困惑しながら視線を上げてゆきぼくを見た。この日、初めて目が合った。
「アイギスは誰からも傷つけられない。そしてぼくも誰のことも傷つけたくない」
今この瞬間に彼女を傷つけている意識などぼくにはなかった。ぼくは、ぼくが恐れる象徴をさらけ出すことで、こんなもの恐れる必要なんてないんだと言いたかった。当然に彼女が恐れているものはペニスではない。でも、ぼくはぼく自身が恐れるものをここで差し出す必要があると咄嗟に思ったのだった。ぼくのペニスは時々震えていた。アイギスはやがて、ぼくの小粒へと手を伸ばした。彼女の手はひんやりと冷たく、涙で濡れていた。やがて本に書いてあった通りの上下運動をし始める、ぼくの腰に雷のような快感が走った。昨晩に自分でした行為とはまるで違う。涙が潤滑油の代わりとなって、彼女の手はよく滑った。その度にぼくは嗚咽を漏らし、負けるもんか、そう強く思った。歯を立てた唇から血が垂れた。
やがて、ぼくは果てた。まだ量の少ないぼくの精子は彼女の掌の上にべったりとついていて、アイギスは一瞥すると眉を顰めて、やがて近くにあったティッシュを数枚取った。拭き取ってゴミ箱へと捨てる。室内に、糸の切れた緊張が漂っていた。
アイギスは翌日から学校に復帰した。ぼくらの仲が変わることはなく、これまで通りに親しく接せられた。だが、昨日のことを話題にすることはなかった。その放課後、彼女は先生に呼び出された。翌日から、ぼくがアイギスに家に遊びに行ったりしても、ぼくらが二人きりになることはアイギスの両親が許さなかった。やがて、ぼくたちは疎遠になった。彼女とはもう、二十年ちかく連絡を取っていない。
アイギスとぼく もりめろん @morimelon
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