第2話 Septender,2001  ①(はじめての射精)

 ぼくとアイギスは、保育園の頃からの友だちだ。


 家は両隣で同年の子どもがいるということで、昔から家族ぐるみの付き合いをしていた。とは言え、片親のぼくがアイギスの両親にお世話になるという機会が圧倒的に多かったのだけれども。ぼくらは一人っ子同士でもあった。おかげでぼくらは、どこに行くにも一緒だった。互いの記憶の種を埋めて水を注いだら、きっと同じ色の花が咲くに違いなかった。


 九月十二日もぼくは教室に入るなり彼女の席へと向かった。誰も出来事の意味を理解しないまま昨夜の事件を口にしていて、戦争になるぜ、などと訳知り顔で漏らすお調子者もいた。

「大変なことが起きたんだよ」

 アイギスは、騒がしい周囲に薄膜を張るように分厚い小説を読んでいた。


 彼女は学年一の読書家だ。特に外国の幻想小説ファンタジーを好んで読んでおり、ぼくから見ればそれらの本の一番の特徴は、なんといっても厚みにあった。彼女が幻想小説を持つとき、ぼくにはそれが頑丈な盾のように見えた。どんな武器でも傷一つつかない〈アイギスの盾〉。彼女のあだ名は、ぼくの好きなゲームに登場する最強の防具にちなんでつけていたのだけれど、当初、彼女はそのあだ名を嫌がった。分厚いからってそんな名前やめてよ、なんて風に。

 そんなわけで彼女が幻想小説を読んでいて最も胸を膨らませるのは、本を読む前、カバー裏に描かれた物語の要約と表紙絵から、想像を膨らませるひと時だった。

 その大地にはどんな民が生きているのか。どんなものを食べて暮らし、その生活の中でふと胸のうちを暖める風は一体どんな香りで肌触りなのか。人間のほか、どんな多様で驚きに満ちた生命が共存しているのか。そんな世界で、主人公はどんな役割を背負い戦うのか。彼女はそんなすべてを想像して、あとはページを捲ってその答え合わせをしていくのだ。

――だから盾じゃないんだよ。表紙絵なんて一枚だけしかないんだからとっても薄い。けど、その一枚きりの絵がすっごいわくわくさせてくれる。そんな羽のようなものだと思ってる。

 長く呼び続けるに連れ、彼女も〈アイギス〉というあだ名を気に入った。「小説の登場人物のようだから」と言う彼女は、やはり同い年らしい幼さも持つ。後年、高校生になった頃にイージス艦の語源と一緒だと言うことを知った時には、不満に鼻を膨らませていたけれど。


「なに、どうしたの。昨日のニュースのこと?」

 彼女は本を閉じるとそう答えた。表紙絵には巨大な雄牛らしき生物と、その巨躯に身を委ねる少女が描かれていた。ちがう、とぼくは言う。

「ちがくはないんだけど。そっちも大変だと思うけど、ぼくにはよくわからないよ」

 ぼくは首を思いっきり横に振る。

「ぼくは、なにかの病気かもしれない」

 アイギスの耳元に口を近づけて、誰にも聞かれないように小声で昨晩の出来事を話す。そんな小便って出たことある? と続けて訊いたが、彼女は首を横に振った。

「ごめん、わたしにはない」そう言った後に彼女は続けた。

「でも、よくわからないんだけど、そういうのって男の人に相談した方がいいことな気がしない?」

「こんなことアイギスにしか聞けないよ」

 片親のぼくには無条件に頼れる成人男性が周囲にいなかった。あえて挙げるならば、それこそアイギスのお父さんだ。彼に相談するにもまずアイギスありきなのだから、彼女に相談するのが筋道だっていた。そして何より、ぼくは彼女のことを誰よりも信頼していた。

「お昼休みに一緒に図書館で調べてみよう」彼女はぼくへの協力を約束してくれた。


 昼休み、男友達からのドッジボールの誘いを断って図書室へと向かった。常連の彼女は、貸出カウンター奥にいる司書の先生へと会釈して、そのまま本棚の一角に向かった。そこから数冊の本を抜き取り、中をぱらぱらと読む。その中から一冊を残し、ぼくらは貸出カウンターからは目の届かない奥まった場所に移り、その地べたに座って一枚ずつ捲っていった。

 その本の中では男女の身体の違いがイラストつきで紹介されていた。大人の男は成長するにつれ、全身の体毛が濃くなって脇の下と陰部に毛が生える。喉仏が膨らんで声変わりを迎える。女性は乳房が膨らんで腰回りがふっくらとし始めるらしかった。その変化の開始には個人差があるが、早い人だとあと一年もせずに始まるようだった。

 ぼくの求めていた回答も記載されていた。ぼくの身体は精子を作るようになった。その精子が寝ている間に出てしまうことを夢精と呼び、意識的に行うことをマスターベーションと呼ぶ。射精には快感が伴うため、マスターベーションを行うことは自然なことらしかった。

「だってさ。病気じゃないみたいだよ」男性器の断面図を眺めながら彼女は言う。

「それで、気持ちよかったの? そう書いてあるけど」

「わかんない。でも、腰のあたりが熱かった気がする」

 そこまでわかった段階で予鈴が鳴った。ぼくらは周囲を覗ったのち、こっそりと本を棚に戻して図書室を後にした。けれども五時間目の授業には全く身が入らなかった。

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