アイギスとぼく

もりめろん

第1話 Septender, 2001 - August, 2021

 ある夜、不快感から目覚めると下着が濡れていた。


 十歳にもなってやってしまった、恥辱が赤面を伴って寝惚けたままのぼくを焦がす。しかし熱いのは頬と胸中だけではない。腰が、性器を中心とした下腹部が妙な充実感に溢れている。経験したことのない奇妙な感覚だった。

 ぼくは腰回りに手を這わせる。が、濡れていない。漏らした小便は若干量だったのかと訝しみながら、パジャマの股間辺りを掴む。そこも濡れていない。そのまま手を入れる。濡れていたのは下着の前部のみ、性器が触れる辺りだけだった。いやに粘着質な小便だった。


 驚き、ぼくは立ち上がって電気をつける。子供部屋の室内が蛍光灯に照らされ、その無機質な灯りの中でぼくはつるんとした尻をむき出しにする。下着を手に取ると、そこには少し黄身がかった液体がどろりと付着していた。液体に触れると糸を引いた。嗅げば、プールの前に入る腰洗い槽の匂いがした。


 この下着をお母さんに見られるわけにはいかない。苛烈に頬を焦がす恥がぼくを動かした。直観的にそう思ったぼくは壁にかかった時計を見る、時刻は九時四十五分頃だった。ぼくはむき出しの尻、まだ豆粒のような性器を残暑のむわりとした空気に触れさせながら、音を立てないよう扉を開き真暗闇の階段を降りてゆく。

 一階に降りたぼくは居間を盗み見た。硝子戸の向こうにはお母さんがいて、まだテレビを見ているようだった。忍び足で向かった洗面所でぼくは下着を洗う。流水と手で粘着質の腰洗い槽を落とし、水をよく絞ってそのまま洗濯機に放り込む。完全犯罪だ。満足感を覚えて引き返す。階段に足をかけたときに居間を再び振り返った。お母さんは、食い入るようにテレビを見ていた。ぼくも画面に視線を向ける。


 テレビには二本の白い塔が映っていた。巨大な長方形の二本のうちの一本からは、尋常ではない量の黒煙が空に向かって吐き出されている。やがてほぼ水平に現れた飛行機がもう一本の塔へと直撃した。同様に大量の黒煙を上げて崩壊する。瓦礫は落下していった。そこから動きはなく、ただ静止画のように黒煙が上がり続けるだけだった。

 きっと大変なことが起きた。十歳だったぼくが画面内で起きていることの意味を正しく理解するのは余りに年少だったが、恐ろしいことが起きたことは映像とお母さんの不穏な後姿から察せられた。そして、ぼく自身の身体にも甚大な変化が起きていることも。二階に戻ったぼくは真新しい下着に足を通して布団に潜る、眠りの底に降りていった。



 アメリカ同時多発テロと称されるこの事件。イスラーム過激派による犯行で、死者数は二九九六人。その後、当時の米国大統領のジョージ・W・ブッシュは「テロとのグローバル戦争」を謳い、実行犯であるアルカイダの壊滅を目標に掲げた。それが後、イラク戦争やアフガニスタン戦争へと繋がった。二〇二一年現在も混迷は続いている。

 旅客機によって倒壊した二対の塔の跡地〈爆心地グラウンド・ゼロ〉。世界中に点在する〈爆心地〉の中でも新しい惨禍であるそこを、いま、三十一歳になったぼくは訪れていた。

 真新しく整備された〈爆心地〉には、巨大なワンワールドトレードセンターがそびえ建っている。外面には紺碧の空とはっきりとした陰影の雲が映る塔のふもとを歩き、ぼくは911メモリアルミュージアムのエントランスへと入った。犠牲者の名前と写真が写される壁があった、旅客機の衝突により湾曲した鉄筋が飾られていた、この災厄に関わるあらゆる報道が集められていた。展示を一通り見た後、ぼくは再建された巨大な塔に登った。

 展望台は三八一mの高さだった。ビル群が夕焼けに赤く染まる、空の上半分はすでに夜に移り深い藍色へと変わりつつあった。美しい夕景を眺めるため、周囲にはニューヨーカーや観光客が多く集まっていた。美しい光景だった。ここで、沢山の人が死んだのだった。


 ニューヨークを訪問したのは、移住した友人を訪ねるためだった。小学校からの友人である彼女〈アイギス〉は米国人と結婚し、子供を授かった。その子に会いに来ることになったいま、せっかくならとここへの観光を勧められたのだった。彼女とは、翌日会う予定だった。

 ぼくは〈爆心地〉を後にすると、近所にあった適当なレストランに入った。菜食や穀菜食、ハラルフードまでを提供する雑多な店だった。ぼくは適当に選んだハンバーガーとビールを、愛想の悪いヒスパニック系の若い女性店員に注文をした。ビールが来るまでの間、ぼくは窓外を眺める。石造りの往来を、様々な人が行き交い続けている。

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