第5話 獏

 翌朝の朝食にはアジの開きが出た。ご飯は炊きたてらしくふんわりとしていて、味噌汁は私の好きな大根だった。一人暮らしを初めてから自炊なんてまったくせず、いつもコンビニ弁当や牛丼なんかで済ませていたので、ちょっと胸がふくらんだ。これは地元で獲れたものなのか、旬の食べ物なのか。食に疎い私にはまったくわからなかったが、美味しいと思えた。味噌汁の大根がいちょう切りだったのは少し残念だったけれども。


 食事を終えると、いったん部屋に戻った。布団を片そうかと思ったが、片腕では掴みにくいのでやめた。膨らんだ腹が誘う眠気に寄り添うこともつき放すこともせず、私はやはりぼうっと海を眺めていた。

 いつの間にか、彼が部屋の間口に立っていた。彼は部屋をぐるり一瞥してからこっちに歩いてくる、私が起き散らかしたままの布団を踏んで越えてくる、彼の視線が、やや無造作に開いた浴衣の襟の辺りに投げられた。けど、すぐに彼はその視線をなかったことにする。


「朝ごはんはもう食べた?」

 彼は目の前の椅子に腰かけた。私を見ているの彼の姿が視界の端に映っている。

「食べたよ。アジだった。この辺で獲れたものかな」

「どうだろうな。でも今の季節はイカが旬なんだよ。けっこう美味しいんだ」

 宿を後にした私たちは、そのまま海に来ていた。彼の車は民宿に少し置かせてもらって、私たちは松林の間を抜けて白砂の上を歩いている。そこで私は、腕が欲しいと打ち明けた。


 彼は浪人時代から煙草を吸い始めていたらしいけど、その喫煙習慣は去年に辞めていた。それ以来、たまに人差し指を噛む癖がついてしまったらしいのだが、その瞬間を視たことはなかった。

 私が彼をじっと見つめていると、初めてその癖を披露した。人差し指をぐっと曲げると、その第二関節のあたりを口元に持ってゆき歯を立てる。並びの良い歯が、指にぐっとつき刺さっていた。噛みながらも彼はすっと歩き続けていった。


 波音が、聴こえている。昨晩とは違う音色で、どうやら波音は朝と夜とでずいぶん違って響くらしい。夜の音は、さびしいのにどこか優しくもある。朝のは、どこか乾いている。水の音なのに乾いているなんて変なもんだと思っていると、靴の中に砂が入り込んできた。不快な闖入者を追い出そうと私は立ち止まって、脱いだ靴を逆さにする。ざあっと砂が出る。バランスを崩した私は、ふらついた一本立ちをやめて靴下のまま砂浜に足を下ろす。ざくり、と自分の肉が砂の中に包まれる。思い立った私は靴下を脱ぎ捨て、裸足でもう一度立つ。砂の中には、春の感触があった。細かい流砂は暖かく乾いていて、ささやかな刺激が心地好い。調子に乗った私はもう一方の靴と靴下も脱ぎ、ともに裸足の足で砂浜の上に立ったのだった。


 彼は一人で、ずいぶん遠くまで歩いて行ってしまっていた。彼の名前を呼ぼうとして口を開いたら全然違う言葉が、「お母さん」なんて言葉がこぼれた。もちろん彼は振り返らない。私は、自分の声にびっくりしている。

 私は靴と靴下を片手で持って、砂浜の上を歩いていく。裸足で歩く砂浜はどこまでも気持ちが良いのに、さっきまでの春の感触は消えていた。どこまでも歩いていけそうだなんて思ってたのに、今は彼が遠くにつっ立っていることに腹が立つ。

 人魚の腕の持ち主だった八尾比丘尼は、同じ時を誰も一緒に生きてくれないことに苦悩したらしい。愛した男も腹を痛めて産んだ子も彼女を残して死んでゆく。彼女はずっと孤独だった。だから一緒に生きてくれる人が必要だった。他にするべきことはわからなかった。


 ようやく追いついた。彼はどこか悲しそうに眉をひそめている。どうしたの、と訊く。なんであの腕が欲しいのかと、彼が訊く。あの腕が私の腕だから。いや、ほんとうは盗みたいなんて思っていないし、欲しいとも思っていないよ。でも、あの腕が私のものだってことはわかった。君の言ってた、第三の腕になったんだよ。とはいえ、切断とかは求めてないんだ。

 あれは贋作だよ。本当の人魚の腕じゃないんだから、真に受けちゃだめだよ。

 彼の思い通りになったのに、何が気に入らないのかわからない。彼が計画して、私に提案して、実際にここまで連れてきたんじゃないか。それだって、本当に私の幻肢痛が収まる算段なんてなく、好いた女と旅行に行きたかっただけの方便なんでしょう。それなのに、何が気に入らないの? 

 私は、彼がさっきまで噛んでいた人差し指がある方の手を握ろうと手を伸ばした。指が、空を切った。私の腕は、汚れた木箱の中にあった。

 彼は立ったまま泣き始めた。大粒の涙がこぼれ、表情を歪めて嗚咽を漏らしている。なんてかわいい泣き顔なんだろうと思った、男の癖にだらしない顔で泣き散らかしてみっともなくてなんてかわいいんだと思った。私の胸の中に、彼への愛情がふちを越えてあふれ出る。


 彼は泣くのに夢中だ。でも泣き止んだらきっとまた人差し指を噛みたがるから、そしたら私は、人差し指に彼の好きな妖怪でも描いてあげたい。

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もりめろん @morimelon

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