第4話 「動いた」

「まだ時間かかるから、もう少し眠っていて大丈夫だよ」


 運転をしてくれている同級生がそう声をかけてくれた。浅い微睡みの水面から顔を出した私は、同級生の声を誘い水に、ふたたび眠りの中に沈んでゆく。薄れてゆく意識の中で、波のさざめきが聴こえた気がした。


 バー帰りの夜道に彼の故郷への旅行を誘われてから、私はこれから何がしたいのかを考え続けていた。彼は私に見せたいものがあるらしかったけど、そんなものが気休めに過ぎないのはわかっている。私が本当に快復するためには、きっと私が本当に欲しいものを手に入れる必要があるのだろう。私は、何がしたいんだろう。これまではずっと腕のことを考えて、ずっと腕に縛られて生きてきた。だからこれからのことを考える余裕なんて、これっぽっちもなかった。


 目的地の寺は、海にほど近い高台に建っていた。高台の突端からは海が一望でき、私の頬を身体を潮風が撫でた。舌を少し出すと塩辛い味がした。

 同級生は私を恋人だと親族たちに紹介した。他人の祖父の七回忌に違和感なく混ざるには、この方便がてっとり早い。でもからっぽの右腕に向けられる好奇な視線が、私を居た堪れない気分にさせた。しゃっくりを繰り返す住職が読経を終えると、逃げるように喪服の集団から距離を取って外に出た。


 東屋に座って、ぼんやりと海を眺めていた。しばらくのあいだ波の音だけに身を預けていてハッと気づけば、隣に女性が座っていた。少し年上の美しい人。たしか彼の従姉だと紹介されていたことを思い出す。

「ごめんなさい。気持ちよさそうにしていたので、声をかけるのをためってしまって。住職がお呼びですよ。何でも貴女、あれを見るために今日は来られたんでしょう」

 女性の腹はぽってりと膨らんでいた。どうやら妊娠しているらしい。

「お腹の子、何か月なんですか」

「六ヶ月。もう安定期で、たまにお腹の中で動くのがわかるの」

 女性はそう言って私に微笑みかける。余裕のある笑顔だった。その背景には真冬の澄みきった空に顔を覗かせた太陽のような尊さがあり、これまでの人生への愛着と、これからの展望に対する確信を感じられた。それが私には眩しすぎて、少しだけ目を細める。

「お腹、触ってみる?」

 彼女は従弟の恋人である私に、親身であろうと努めてくれていた。本当は付き合ってなんかいないけど。私からの好意なんてこれぽっちもないけど。そう思いながら、手を伸ばした。膨らんだ腹は硬い肉塊だった。でもこの中に、生命があるんだ。



 本殿に戻ると、先ほどまで経が読まれていた本堂に人だかりができていた。子どもたちばかりで、大人は同級生と住職だけだった。大人たちは、本堂の隣の和室で茶を啜っている。揃いましたね、と住職が笑った。いやな笑い顔だなと思う。住職の目の前には横幅五十㎝ほどの茶けた木箱が置かれていて、子どもたちは木箱を中心に車座になっていた。

 私は同級生の横に移って、子どもたちの上から箱を見下ろした。住職が、木箱の蓋をゆっくりと開けた。中には干乾びた細い腕が横たわっていた。子どもたちが歓声を上げる。

「これは当寺に古くからある人魚の腕です。人魚の肉には不老不死の効果があると言う伝承があり、その肉を食べて不老不死になってしまった八尾比丘尼の伝承も各地に残っています。なんでも当寺の建立者もその一人だったとか。この腕は、彼女のものだと伝わっています」

 動いた。私の隣で一緒に視ていたあの従姉の妊婦がそう声をあげた。子どもたちの肩が大きく跳ね、一斉に彼女を見た。女性は照れてはにかみながら、

「ごめんね。腕じゃなくてお腹の子が動いたの」

 子どもたちは何だあと残念そうに声をあげ、住職に質問を浴びせ努める。住職は嬉しそうに受け答えをしていたけど、妊婦はすぐに大人たちの輪に戻っていった。だけど私は動けなかった。心配に思ったのか、同級生が私の様子を伺っている。

「ああ、ごめん。少し、驚いちゃって」

 住職に礼を言い、私たちも喪服の中に混ざって茶を啜った。彼の親族から矢継ぎ早に質問を受けたが、誰からも右腕の欠損については触れられなかった。知らない人に囲まれる空間は苦痛で仕方なく、彼に頼んで一足先に抜けさせてもらうことにした。あの妊婦に挨拶をして帰る。彼女のぽってり膨らんだ腹が、脳裏に焼きつく。



 宿は、海近くの民宿に予約を取っていた。彼は実家に泊まるそうで、部屋には私一人。八畳ほどの和室で、広縁に置かれた竹編みの椅子に腰かけながら窓の外を眺めていた。

 窓の外には、夜の海が広がっていた。手前にはいくらかの民家と松林が並んでいて、その穏やかな暮らしを侵食するような不気味さが、暗く茫洋な海には潜んでいるようだった。月明かりが、海を照らしている。向こうまで渡っていけそうな、光でできた一本の橋が架かっている。

 風が、呼んでいるようだった。潮の香は、誘っているようだった。でも実際に砂浜まで走ったところで渡れるはずなんてないから、私はこの部屋の中から、光の橋を眺めている。

 動いたのだ。あの時、彼の従姉の妊婦が「動いた」と発したとき、確かにあの〈人魚の腕〉は動いたのだ。本当に動いたのは腹中の子なんだけど、でも私は腹中に子なんて宿していないのだから、そんな私にはあの腕が動いたように思えたのだ。そしてそれは、私の意思通りに動いたに違いない。腕は持ち主の思い通りに動くのだからあの腕が動いた以上は、持ち主である私が動かしたに違いないのだった。

 そう認めると、ずっと続いていた頭の中の痒みがうっすら引いていくのを感じられた。

 あの腕が欲しい。あの腕が、欲しかった。あの腕を寺から盗んで、私のものにしたい。

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