第2話 幻肢痛(ファントム・ペイン)

 なんてことは、ようやくできた友人たちには話していない。


 夏でも長袖を着るのは肌が弱いからで、右腕を失ったのは交通事故に遭ったからだと、てきとうな言い訳を振りまいていた。

 でもその病気とも、これでさよなら。だって肝心の右腕を切断したのだから、私の心をざわざわさせるものがないのだから。私は梅雨終わりの快晴のような心地で、そんなことを思っていた。その日までは。


 右腕が、あるのだ。いや、切断したのだから実際にはない。でもある気がする、からっぽになった肘の先にはいらない腕がまだあるような気がする。その腕が、まだ痒みを訴え続けている。

 猛烈な痒みがあるのに掻きたい箇所がない。痒くてどうしようもなく、もう頭がおかしくなりそうだった。誰かお願い、この痒みを消してください。すがるべき対象を持っていなかった私は、幼い頃に母が描いて私が腹を裂いた、あの魔法少女に祈っていた。あの時は酷いことをしてごめんなさい、でも痒くて痒くてたまらなかったんです。でもアニメの中のようには、少女は魔法を使ってくれない。仕方なしに私は、ふたたび精神科医に助けを求めた。


「幻肢痛です。あなたの頭は、まだ自分の右腕があると思っているんですよ。脳内にだけある右腕が、痒い痒いって騒いでいるんです」

 医師は自分が生まれる前の新聞を読むようにそう言った。私が自らの意思で切断したことだけでも精神科医は憤慨していたけど、この症状が出てもはや呆れられていた。

「治療法はありますか」痒みからぼんやりとする頭を働かせて、精神科医に質問する。

「あなたの頭が、右腕の切断を認識すればいいんですよ。右腕をもう一度切断すればいいんじゃないですか。効果があるかわかりませんが」

「もう一度って。私の右腕、もうないんですよ?」

「ええ、ないですね」そう言うと、切れ長の目で右腕があるべき空間を視ながら続けた。

「あなたが、切ったんでしょう」

 腹が立った私は、診察室の扉を勢いよく開けて病院から走って逃げた。効果があるかわからないけど右腕をもう一度切断しろ? 患者を何だと思っているのだろうか。


 ふがいない私は道端にうずくまって、少し泣いた。季節は春で、あの晩に降った雪などとうに解けていた。なんで雪は解けてしまった。気温が上昇したからだと因果関係はわかっているけど、でも私がこうも右腕のことで悩み続けているのに、あの晩、外の世界の音を吸い取って私を孤独にしてくれていた雪が、この場にないことが納得いかない。

 涙は、アスファルトに落ちる。雪は、なんで解けた?


 いくらかの人が通り過ぎて行った。声をかけてくれる人はいない。私は、声をかけられたかった。大丈夫ですかって、見知らぬ人から心配されたかった。知らない人がいい。そしたら私は、自分で自分の腕を切断したんですけどまだ繋がって痒いんです痒くて頭がおかしくなりそう。なんていう弱音を、吐ける気がするのだ。でも誰も声をかけてくれないから、私は涙声のまま、やはり仕方なしに大学の同級生に電話をかけたのだった。


「大丈夫? とりあえず、君ん家まで送るよ」

 駆けつけてくれた同級生は、うずくまる私に優しく声をかけた。私は頭を横に振る。

「飲もう。今から酒を飲もうよ」 

 そう言うと、私は彼の腕に顔を埋める。彼が私に好意を持っていることには気づいていた。こんな腕になっても、彼の好意は曇らなかった。だから彼ならば来てくれると思ったのだ。

 彼の服が、私の涙と鼻水で濡れる。優しくて私のことを好きな彼は、自分の服が汚れることよりも私に抱きつかれることに嬉しがっているようだった。見知らぬ誰かが私を気に留めてくれないならば、誰よりも私に関心がある人にすべてを話して、私のことを突き放して欲しかった。近くにあった適当な居酒屋に入った私たちは、銘々に酒を頼む。

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