獏
もりめろん
第1話 腕の切断
私が右腕を切断したのは、こないだの冬のことだ。
酷く寒い日だった。昼過ぎから降り始めた雪は夕方には町を真っ白に埋めた。雪に吸い取られてあたりからは音が消えていたけど、電車の音だけは私の部屋まで届いていた。巨大な鉄の塊が揺れる音と冷気が、頭をぼんやりとさせていた。
右腕を掻く癖は幼い頃からの悪癖だった。腕のつけ根の、よく注射を打たれるあたり。気に入らないことがあると爪を立てて掻いてしまい、皮が切れて血が流れてもやめなかった。心配した母はこの悪癖を止めるために、私の腕に私の好きなキャラクターの絵を描いたりもした。小学生の魔法少女で、年に一度進級する彼女は私と同い年。ペン先が肌を撫でてくすぐったい。さっきまで台所で夕食の準備をしていた母からは味噌汁の匂いがしていた。私は味噌汁の具は大根が好きだ。細切りだとなお良い。
私は右腕を掻くのをやめなかった。やがて私の皮が切れ、魔法少女の腹が腕が脚が裂けて血が流れた。それでも魔法少女は微笑んだままだった。掻き過ぎてこの腕が取れてしまえばいいのになんて私は思うようになっていた。いつしか母は、悪癖を諦めてくれていた。
そんなわけで、私の右腕には生傷が絶えない。中学や高校では夏服になれば隠しきれなかいおびただしい生傷から、自傷行為だと白い目で見られ続けた。おかげで友人なんてろくにできず、高校を卒業すると逃げるように県外の大学に進学した。腕が猛烈に痒くても孤独に耐性が強いわけではない。大学では、友人が欲しかった。常に長袖を着ることで傷を隠し、学内で腕を掻くときはトイレに逃げて血が浮かぶまで掻きむしる。すっきりしたらポシェットから消毒液をかけて、包帯を巻いてトイレを後にする。こんな涙ぐましい努力のかいもあり、ようやくできた友人たちにはこの〈病気〉のことを知られずに済んでいた。
私は、病気だった。精神科医からは〈身体完全同一性障害〉の可能性を示唆され、それは自分が五体満足であることに違和感を持つ精神病らしい。その指摘が長年の違和感を解かしてくれた。私は病気で、痒みは症状で、私の生きづらさにはきちんと根拠があったんだ。そうと分かればあとは行動するだけ、この腕を切ればいい。切断方法を調べてみたけど、自分で切断するのは骨が折れそう。かと言え誰かに頼めるものでもない。病院で切断してもらうのが、最良のように思えた。
その日、ネットで注文していた商品が届いた。中身は大量のドライアイス。バケツがいっぱいになるまで流し込んで、その中に右腕をそっと入れた。目の前から白い煙が流れてゆき、六畳一間の床一面を覆いつくしてゆく。窓の外を見る、雪が降り始めていた。
どうしようもなく冷たく、下唇に歯を立てて堪えていた。唇にうっすらと血が浮かび、滴ってシャツを赤く汚した。冷たいという感覚もやがて消えた。窓の外からも音が消えた。雪が、音を吸っている。でも時々に電車の走行音だけは鳴る。痺れるように凍えた足先が痛い、ずっと両膝をついた姿勢だから腰も痛み始めていた。でも、右腕だけは無感覚だった。頃合いかな、と冷静な頭がスマートフォンで一一九を鳴らした。
搬送された病院で状況を説明して私は切断を申し出る。医師は呆れ、看護師は憤慨していた。彼らは反対したけど、切断してくれないなら何度でも運ばれ続けてやると訴えた。根負けしたのは彼らの方だった。
私は右腕の切断に成功した。退院の際には地元から母が付き添いにきてくれて、手術費と入院費を支払ってくれた。一緒に病院を後にする。最寄りの駅まで肩を並べて歩く間、私たちは一言も交わさなかった。お母さんはこぎれいな服を着ていたのに、なんでか知らんけど靴だけは土に汚れていた。その汚い靴だけが、最後にあったときの印象として強く残っている。それから、お母さんとは連絡を取っていない。
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