第3話

私は、女です。

力は、さほど強くない。

でも、とはいえ全力で、彼の喉元を確かに刃物で切りつけたのです。

手応えがありました。

さすがに飛び散るであろう血飛沫を見る勇気はなく、閉じてしまっていた目。

数秒。

「もういいか?」

彼の、先程と全く変わらない声。

私がまぶたをこじ開けると、彼の綺麗な首筋には、かすり傷一つ、付いていませんでした。



今夜、一組の男女が出会った。

本来ならば、決して起こり得ない形で。

女が男に言い寄り、猛烈なアプローチをかけている。

そこだけ描写すれば、熱い恋愛模様である。

しかし、そこに「生き死に」に関する会話、不気味な廃病院という舞台を加えれば、サスペンスな側面が浮き出てくる。

女は、なおも男に疑問を投げかけようとしたが、男はこれを制した。

男には、珍しく予定があった。

食い下がろうとする女に背を向けて、男は今度こそ歩き出した。


「遅かったですね」

こじんまりという表現がぴったりな、カウンター席しかない店内に入ると、白髪の男が出迎えてくれた。

額のしわが、前に会った時より少し深くなったようだ。

「客に向かっての第一声がそれか」

俺は6つほどあるカウンター席の、左から2番目に腰を下ろした。

この酒場のマスターである白髪の男は、俺の注文を待たずに、灰皿を差し出して来た後、瓶を一本、棚の奥から引っ張り出した。

瓶にはネームプレートがぶら下がっていて、そこに俺の名前が書いてある。

「残してたのか?」

前に来た時、いちいち注いでもらうのが面倒臭くなって、手酌をする為、一本まるまる買った物だ。

すっかり忘れていたが、この男は律儀に残していただけでなく、定期的に取り出していたようだった。

棚の奥から出された瓶には、全く埃が付いていない。

「これを処分してしまうと、貴方との縁が切れてしまうような気がしまして」

生真面目な男だ。白髪も、しわも、気遣いが原因だろう。

そう思った矢先、店の入り口である扉が遠慮がちな音を立てて、開いた。

マスターがそちらを見やり、客を確認する。

俺は背中で、客の視線を感じる。

「申し訳ありません。本日は勝手ながら、貸し切りでして」

マスターが、本当に申し訳なさそうな声で告げる。

扉が閉まる気配は、ない。

俺は、やはり、と思った。

まぁ、そんな事もあるだろう。

「入れ」

短く、簡潔に、終わらそう。

予想通り、先程の女が、俺の隣に、おずおずと腰掛けた。


自分の頭が、身体が、自分の物じゃなくなったかのようでした。

私は、それが自分の義務かのように、彼を視界に捉え続け、一定の距離を保って付いて行きました。

彼が、まさかつけられているとは思っていないからか、それとも、別につけられていても構わないと思っていたからか、人生で初めての尾行は、思いの外簡単でした。

洒落たフォントで「BAR 楽笑」と書かれた看板。

さほど栄えていない町の、さほど人通りのない路地にある、目立たないお店。

彼が扉をあけて入って行くのを確認し、ふと、自分の行動の奇怪さを自覚しましたが、数分迷った後で、やはり私は扉に手をかけました。


カウンターの向こうから、マスターらしきご老人が、貸し切りだと言いました。

しかし私はそんな事よりも、先程の彼がタバコを吸っている様をぼんやり見ることに忙しかった。

店内は薄暗いですが、廃病院裏ほどではありません。

カウンター席の左から2番目、そこに座る彼を斜め後ろから観察しましたが、どう見ても成人しているようには見えません。

少なくとも、つい最近、21回目の誕生日を迎えた私よりは、確実に年下だと思うのです。

そんな彼が、タバコをさも美味しそうに吹かし、明らかに度数の高そうな茶色いお酒を口に運ぶ、その動作の、ある種のこなれ方に違和感を感じました。

「入れ」

彼は振り向きもせずに言い放ちました。

それが目的だったのに、彼の隣に座るのは怖かった。

怖い。それは、私の中で滅んでいた「望み」という感情が先程から波のように押し寄せて来ていて、これから打ち消されてしまうかも知れない、そんな恐怖なのかも知れません。

膝が震えていたのですが、私はそれを悟られないように彼の隣に座りました。

彼は、グラスの中を見ていました。

私が何を言えばいいか迷っていると

「貴方が、人を連れてくるなんて」

マスターが、大きな驚きと小さな喜びを含んだ声で、タバコを吸う彼に言いました。

「連れて来たんじゃない。付いてきたんだ」

彼は、少しだけ開いた唇の隙間から煙を漏らして

「俺に聞きたいことがあるらしい」

瞳をこちらに流されて、私が言葉を放つ番だと思いました。

「貴方が何故死ななかったのか。教えてくれますか?」

マスターが、私と彼を交互に見る。

どっちに話しかけようか迷っているように。そして。

「ちょっと、ヤグラさん。話したんですか?」

彼を選んだ。ヤグラという名前らしい。

よく考えれば当たり前であるはずなのに、名前を持つ事に安心感を覚えるほど、彼はあまりに常人離れした雰囲気を醸し出していました。

「さわりだけだ」彼は呟くように言います。

マスターは私にジュースを差し出し、大人になったらお酒をお出ししますね、と笑顔で言いました。

多大な誤解を孕んだ発言なのですが、私は悠長に実年齢を告げている場合ではなかったので、曖昧に頷きました。

「ちょっと色々あってな」

彼は、この店に来る途中、近道をしようと廃病院の裏手を通った事、運悪く老朽化による瓦解が起き、頭にコンクリートの塊が直撃した事、もっと運の悪い事に、そこに訳の分からない女が来た事をマスターに簡潔に伝えた。

「軽率でしたね」

マスターは察したのだろう。訳の分からない女が投げかける問いに、彼が安易に応えてしまった事を。さすがに、私が彼を殺そうとしたところまでは分からないでしょうが。

「こうなる事は、予測できたでしょうに」

我関せずとばかりに、ヤグラ氏はグラスの外側に浮き出した結露を指で拭い取っている。

マスターは、いたずらした幼子を叱るように続ける。

「どうするんです?このお嬢さん」

どうやら私のことを、ヤグラ氏が道端で拾ってきた野良猫か何かだと思っているみたいです。

元の場所に戻してきなさい。などと言い出しそうなマスター。そのお叱りから逃げるように、ヤグラ氏はそろりと立ち上がりました。

「どちらへ?」

「便所だ」

ヤグラ氏は私の後ろを通り、カウンターと並行するように歩くと、店内右奥に設置されてる個室に入って行く。

それを見届けてから、私は初めてジュースに口をつけました。

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