第1話 露曼窒苦夜露死苦(ロマンチックよろしく)

第1話 露曼窒苦夜露死苦ロマンチックよろしく



 そもそもその日はレオナ嬢にとっては最悪の一日であった。


「どうして、……ロロイさま……」


 彼女の憂いはすべてロロイに起因する。ロロイというのは彼女の婚約者でもあり、ハルバロス国執政官の一人息子であるロロイ・ヴァン・(68字略)・シュヴァランのことである。

 彼はレオナというハルバロス国財政理事の一人娘を婚約者にもつ身でありながら、ここ半年どういうわけかヤミンという女性を侍らせているのだ。

 ヤミンは家名を持たない。

 つまり、平民だ。レオナにとっては奴隷とも言える。

 通常であればレオナやロロイのような国家の中枢を担う家柄の人間の視界にはいることも許されないのだがヤミンは『通常』ではない。

 ヤミンは国家危機を救った聖女なのだ。

 だから特例として彼女は平民でありながら貴族しか通えないはずのヒューリヴァー学園に所属し、ありとあらゆる講義を受けられ、ありとあらゆる施設を利用でき、ありとあらゆる人間に声をかけることが許されている。まあ国家を救ったのだからその程度の特権は認められてしかるべきなのかもしれない。

 しかしそもそもその国家危機というものはヤミンが事前に阻止したため、実際どのようなものだったのかを知っているものは少ない。レオナやレオナの父ですら知らないほどに徹底的に箝口令がしかれている。

 そういった事情もありレオナはヤミンのことを一平民として認識し、そのような女が自分の婚約者の視界にはいること、あまつさえその側に侍ることを嫌悪していた。それはそれは筆舌に尽くしがたい、嫌悪、であった。

 そのためレオナはヤミンが近づけばすぐに踵を返し、ヤミンがロロイの側にいるのを見かけたらなにかと理由をつけてロロイと共にその場から退席した。嫌味にならないように、しかし徹底的に。

 それでもヤミンは気がつくとロロイの側にいるのだ。


 ほんの数日前レオナはついに堪えきれずにロロイに問うた。

 『なぜ、あのようなものを側におくのですか』と。


 ロロイはその問いに驚いたように目を開き、それからまるでなにかを嫌悪するように眉間に皺を寄せた。温厚なロロイがそれまで見せたことのない冷たい表情だった。そうして彼は低く呟いたのだ。『きみには、わからない』と。

 レオナは傷ついた。

 ロロイの気持ちが分からずに傷つき悩んでいた。けれどそのようなすれ違いも今日は、――今日だけはないはずだった。

 なぜなら今日は学園卒業舞踏会の申し込みの日だったからだ。

 この舞踏会は実質婚約披露パーティーであり、だからこそ婚約者がいるものにとっては予定調和のイベントである。とはいえ皆が見ているところで位の高い殿方がひとりずつ自分の相手の前に膝をつき、一輪の薔薇を差し出すその光景は、令嬢にとっては憧れのものであった。

 いつか自分の前に自分の愛する方が膝をつき、どうか私と舞踏会へなどと仰るのだ。そのときどんなに嬉しいだろうか、でもちょっと冷たくしてみようかしら、恋は駆け引きが大事なんて言うものだからなどとおしゃべりしない令嬢はいないのだ。

 レオナもまたそうであり、そうしてレオナにとってその相手は幼い頃から婚約者であり、レオナにとって初恋であり、唯一の恋であるロロイ以外考えられなかったのだ。

 しかし、しかし、今日――ロロイはそんなレオナの夢を裏切ったのだ。

 彼は、黄色の薔薇を持った彼はよりにもよって豚のように肥え卑しく歯を見せて笑う、品位も知恵も見栄もないヤミンの前にその膝をついたのだ。

 レオナは咄嗟に唇を噛んだ。そうでもしなければ涙を見せてしまいそうだったからだ。ヤミンがその薔薇を手を伸ばす。

 彼女はよりにもよってその瞬間にレオナを見た。

 ――卑しい、その笑み。

 レオナはそれ以上その光景を見ることはできなかった。

 踵を返し背筋を伸ばし足早にその場を去り、学園の前に屯していた馬車を呼びつけ、自らの従者にはなにも告げずシュヴァランの別荘に向かった。

 到底家に帰れる心持ちではなかったのだ。

 レオナはシュヴァランの別荘には幼少の頃から毎年夏の時期に避暑のために訪れていた。それはシュヴァラン家のご厚意であり、同時にコンツェルン家の厚意でもあった。

 コンツェルン家はシュヴァラン家よりも位が高い。しかしレオナをシュヴァラン家に嫁がせることでふたつの家は友好関係を築く、と決めていたのだ。

 決めていた、はず、なのだ。

 学園のある王都はまだ秋の色だったがシュヴァランはもう雪が積もりだしていた。レオナは馬の足を遅くするように御者に頼みその白い世界を見ていた。

 レオナにとっては初めてみる冬のシュヴァランの景色だった。そうしてレオナにとってはこれがきっと最後になるであろうシュヴァランの景色だった。

 レオナは、しかし、それでも泣くことはなかった。

 シュヴァランの屋敷のものたちは雪の中の来訪者がレオナであることに皆驚いた。がしかしいつもの夏のようにレオナを歓迎し、いつものようにレオナを彼女の部屋に案内してくれた。部屋が炭で汚れないようにと廊下の暖炉をつけ、あたたかな空気をレオナの部屋に送ってくれた。

 レオナは寝具の上で自らの髪をとかしていた。


「……わたくしはあなたしかおりませんのに……」


 レオナは自分の声が震えていることに気がつき、また唇を噛んだ。

 コンツェルン家の者が泣くようなことはあってはならない。

 だからこそ彼女は髪をとかす手を止め、寝具に潜り込んだ。明日になればコンツェルン家の者がきっと迎えに来るだろう。そうしてコンツェルン家とシュヴァラン家の関係の終焉を知ることになる。

 この寝具で眠るのも最後になるのだ。

 瞼の裏に浮かぶのはいつかの夏の風景だ。

 忙しいロロイが時間を作りこの別荘でふたりきりで毎年過ごしてくれたこと。決して言葉にすることはなかったけれど互いの心はひとつであったこと。

 レオナは涙は流さなかった。

 ただきりきりと痛む胸をおさえて眠りについた。


 次に目覚めたときにその胸が全く違うものになっているとも、知らずに。




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