音の鳴る雷
ポピヨン村田
音の鳴る雷
雷の音を聞かなくなったあの日から、長い月日が流れた。
「おかあさん、今日もきれいだねぇ」
息子のノルの笑顔が雷光の中に浮かび上がり、そして人工の薄暗い照明の中へ戻っていく。
私は分厚い防音ガラスの向こうで雨の様に落ちる雷を眺めるたび、ひどく落ち着かない気分になりそわそわとしてしまう。
「そうだね、今日も昨日と変わらずに綺麗な雷だね」
4年前に生まれたノルは、雷に音があることを知らない。
ノルは、一族が神の怒りを買ってドームに追われたあとに生まれた子なのだ。
私の娘時代では、スコールはともかく雷はまだ少なかった。
だから、肌で覚えているのだ。
地上に時化が現れたかのような豪雨の中で空を走る、神の怒りを体現したかのような雷の轟く音を。
目の当たりにしただけで身が焼きこがれてしまいそうな、体の最奥が震える衝撃を。
昔の私は大雨に飲まれてしまいそうになりながら、我を忘れて雷が落ちることの威光を全身で受けとめていた。
ノルは無邪気に、安全なドームの中で見られる半身を失った雷の姿を「きれいだ」と呟く。
「おかあさん、あしたもかみなりがみたいな」
ノルは私に微笑んだ。
この母が女手一つで育てた影響なのか、ノルは雷を眺めるのが好きである。
「いいよ。でも」
私は、かつての世界の美しさを我が子に語り聞かせるのは親のエゴだと感じていた。
ノルは、一族は、永劫このドームで暮らすことが宿命づけられているのだから。それほど急激に世界の在り方は作り替えられてしまった。
「おかあさん、いつかノルに雷の音を聞かせてあげたいな」
●
私が神の落とす雷に不信を抱いたからだろうか。
だからと言って、だからと言ってこんな仕打ちはあんまりだ。
「おかあさん、そんなに泣かないで」
机に顔を突っ伏す私の手に、ノルのちいさな手がかぶさる。
子供の肌の熱さが手の甲にじんわりと広がり、涙はさらに勢いを増した。
●
「コルチゾーラ、まかりこしてございます」
かつて私たちの一族は、ジャングルの奥地で文明から程遠い生活を送っていた。
豊穣な土地で、空から際限なく降る雨水を生活用水に加工し、動物を罠にかけ肉を得、鈴なりになっている果物を好きに取って食べて暮らした。
人々は当たり前のように幸せで、その幸せをお恵みくださる神に日々感謝を忘れずに生きてきたのだ。
だと言うのに、神はお怒りになった。
「よろしい。では早速本題に入ろうか」
酋長の執務室から呼び出しがかかるのは、本当に久しぶりだ。
最後にこの古代人の知恵の集合体たる寒々しい部屋を訪れたのは、顔もわからなくなった夫が運び込まれたのを大きいお腹を抱えて追いかけたときだ。
私が床にひざまずくのと対照的に、酋長は無機質な事務椅子に腰掛け、休みなくキーボードを叩いている。
こちらには目もくれないことな微かに怒りを覚える––––酋長は最も神に近い存在なので私のような下々を直に見ないことは自然な行為のはずなのに、それでも奥歯を噛み締めてしまう。
ドームに入る前に一族を治めていた先代の酋長であったら、私はきっと何も感じなかった。
……昔は、あんな子じゃなかったのにな。
「お前の長男のノルを儀式の生贄として選出した。明日、日が暮れる頃にノルとともに出頭するように」
在りし日の酋長と過ごした日々をぼんやりと思い出そうとした瞬間、私はポカンと口を開けた。
酋長の言っている意味がわからなかった。
「え?」
「酋長はご多忙なのだ。同じことを二度と言わせるな」
酋長の側に控える側近が、突き放すような冷たい口調でそう言った。
「お前の息子が、神の怒りを鎮める儀式の生贄になった、と酋長は申されたのだ。明日に肉体の処置を施すので、眠気で大人しいうちに保護者のお前が連行を……」
「ちょ……ちょっと待ってください!!」
私は弾かれたように立ち上がった––––酋長の前で赦しなく頭を上げたのは初めてだった。
「無礼者!」
即座に側近に取り押さえられ、あっさりと床に倒される。酋長の側近にふさわしい、圧倒的な膂力だった。
「酋長! どうして突然儀式など!」
私は酋長に向かって手を伸ばそうとして、両腕を背中で締め上げられた。後頭部を大きな手でがっしりと押さえられ、私の視界には冷たい床しかない。
それでも言った。ほとんどでない声を絞り出した。
「儀式など、貴方様のお母君は一度だってやらなかったはずです!」
「先代の世代では、一度も神の裁きがなかった。今現在ではある。それだけのことだ」
酋長の声は、どこまでも人間味がなかった。まるでドームの管理AIのようだ。
「酋長、考え直してください! ノルはまだあんなに幼いのに!」
「生贄に年齢は関係ない。厳選した結果、ノルが最適だっただけのことだ」
「立て! 懲罰房に連れて行く!」
「待って……待ちなさい! ……ニューロン!!」
私は側近に無理矢理立たされ、ニューロンの顔を目の当たりにする。
ニューロンは私を見ていた。
「コルチゾーラ」
ニューロンの、まだ少年らしさが残る顔に––––私は、一瞬だけ幼い日の彼の姿を見た。
「決定は覆らない。仮にお前が抵抗してもお前が処分され、ノルは生贄となる。無駄死にだ」
私はがくりと崩れ落ち、そのまま側近に引きずられていく。
ガラスの向こうで相変わらず音のない雷が光っていた。
●
ああ神さま。
一体何にお怒りなのですか。
どうして私たちは先祖代々暮らした土地を追われなければいけなかったのですか。
どうして地上を絶え間ない落雷ある地獄へと作り替えてしまったのですか。
どうして私たちは古代人のロストテクノロジーに縋って生きなくてはいけないのですか。
どうして––––文明的な生活を強いながら、過去の因習に縛りつけるのですか。
酋長からの呼び出しの後、懲罰房で散々電気ショックを流された私は、居住区の個室に帰るなり我が子の呼びかけにも答えず運命を呪って泣き続けた。
「おかあさん」
そんな異常事態を気丈に耐えながら––––事情を知らない幼子は、母を慰め続ける。
「おかあさん、おかあさん、これどうぞ」
涙も枯れ果てた頃、ずっと側にいたノルが合成紙の紙皿を差し出した。
「おなかすいたでしょ。おとなりのこしつのおばちゃんにたのんで、今日のはいきゅー分をわけてもらったの」
「……」
私は顔をあげる。
紙皿の上には固形の総合栄養食が三本並んでいる。
これ一本で一日に必要な栄養が体の隅々に吸収されていくが、無味な上に空腹は満たされない。
一族がドームに移り住んでからというもの、配給される食料はこれと水だけだった。
私はノルのまぶしい笑顔を見下ろしなが、一本を手に取る。
「ねぇノル……」
「なぁに?」
「バナナって知ってる?」
「えいぞーしりょうでみたことあるよ。”怒りの日”よりまえに、いちぞくがたべてたたべものでしょ?」
「そう」
ノルはよく勉強している。ドームに入ってから初めて文字を勉強させられている私と違って、物覚えがとてもよい。
「よくおばあちゃんが葉っぱで巻いて焼いてくれたの。そうするととっても甘くて、ほっぺが落ちるほどおいしいのよ」
ノルの顔から笑顔が消え、やや不安そうな面持ちになった。
「ふぅん……?」
「木をくり抜いて作った水筒に果実の汁を入れてしばらく発酵させると、それがお酒になるの。雨の日はみんなで屋根の下に集まって、お酒片手によくおしゃべりしたよ」
「うん……?」
「滝みたいな大雨で、誰が何言ってるか全然わからなかったけど……おかあさん、今でもその時のことを夢に見るよ。そして時々落ちる雷の音にびっくりしながら……」
ノルの髪の毛に触れる。
「『びっくりしたね』ってあなたのおとうさんと顔を合わせて笑ったの」
ノルの髪の色は、父から受け継いでいる。
ノルの父は、”怒りの日”で神が撃った雷に貫かれ、ドームへ入る前に真っ黒に炭化した。
「ねぇノル……」
私はノルの顔に触れ続けた。
故郷で強烈な日差しの中で生きてきた一族は、真っ黒に焼けた肌が誇りだった。
ノルの肌は白い。生まれてから一度も日の光を浴びたことがないのだ。
それは、とても不憫なことだと思った。
「雷の音、聞きに行かない?」
私は総合栄養食を一口だけかじり、紙皿に戻した。
●
古代人は神の御技にも等しい技術を磨き上げ、ジャングルの中央にドームを建設したと云う。
ドームには、人間が人間として生命を維持するための全てが揃っている。
今は生命の痕跡すらない古代人がドームの中でどのような生活を営んでいたかは、誰にもわからない。きっと誰も興味がない。
––––ただ一人、ニューロンという少年を除いては。
「おかあさん、こんなことをしてはいけないよ……」
ノルは私の服の袖を引っ張る。
「しゅーちょーにおこられるよ……」
「大丈夫だよ、怒られるのはおかあさんだけ」
私は作業の手を止め、ノルの頭を撫でた。
やわらかい髪だ。明日の夜にはこの髪は冷却処理されて一本一本が凍りつき、ノルは痛みも苦しみもなく死の眠りに落ちる。
そして肉体を脱ぎ捨てて魂だけとなって、神の座に向かうのだ。
––––大好きな雷に、音があることを知らないまま。
「ノルはこれから、一族の誰からも大事にされるよ。でもその前に、見て、聞いてほしいものがあるの」
端末には無数の文字が並んでいる。私にそれは理解できないが、各媒体に動力を供給する配線の流れを多少は知っていた。
まだニューロンが酋長ではなく一介の少年だった頃に少しだけ話を聞いたことがあるのだ。ニューロンは幼い頃からドームの存在に興味津々で、テクノロジーを解剖するために都会で学びたがっていた。
私は絡み合うケーブルを工具で切り、時には叩いて潰し、時にあってはいけない接続を試みた。
次々と落ちていく照明を見て、ノルがびくりと肩を震わせて私に身を寄せた。
ドームの機能がどんどんおかしくなっていく。
これを見たら、鉄面皮のニューロンも顔を真っ青にするだろうか。
私の後をついて回るばかりだった、あの頃のように。
「さぁ、今のうち。行くよ!」
ノルの手を掴んで、私は走る。
遠くで異常を探知した管理AIが、早速警報を鳴らして予備動力を検索し始めた。
●
次は酋長の執務室だ。
一族を全てを収容してなおありあまる面積を誇るドームの中で、特に重要度の高い一室。
重要度が高いからこそニューロンはそこを自らの拠点に選んだのだろう。昔からドーム研究に熱心だったニューロンらしい。
「エリアγを探せ! あそこは死角が多い、賊が身を隠すには丁度良い場所だ!」
「居住区のチェック、40%まで完了! 現在のところ全員在宅を確認!」
「酋長はお怒りだ! とにかく一秒でも早く犯人を突き止めろ!」
薄暗い予備動力の明かりの中で、側近たちは大慌てだった。
一体全体、どうしてこんなトラブルが起きたの見当もついていないだろう。ただでさえ儀式の準備で人員を割いていたのだから、指揮系統はうまく回らず混乱の極みだ。
娯楽の少ないドーム内とはいえ、それを面白がっている暇はない。
彼らの目を盗んで執務室に辿り着かなければならない。
私は身を低くして、暗がりを選びながらノルの小さな手をしっかりと掴み、進む。
「おかあさん……」
「大丈夫。おかあさんの言うとおりにして」
私はしゃがみ、ノルと視線を合わせてからちいさな肩を叩く。
大人でも困惑するこの状況で、ノルは気丈に唇を結んで頷いた。
私は、ついうっかりと微笑んでしまう。
この健気な姿は、この子の父そっくりだ。
こんな状況だと言うのに、私はあの人のことが無性に懐かしくなってしまった。
「大丈夫だから、ね……」
その時、私の頭上を抜けて、巨大なエネルギーの塊が壁に叩きつけられた。
電子銃だ。古代人の遺した厄介な兵器。ろくに仕組みもわかっていないから滅多なことでは使用が許可されていない武器。
直撃していたら、真っ黒な炭になっていたところだ。
「そこで何をしている!」
その使用を許可されているのだから、その男は機密性の高い任務に当たっているのだ。
「貴様……コルチゾーラか?」
聞き覚えのある声に、私は頭を抱えたい気持ちで振り返った。
今日私を懲罰房で痛めつけてくれた男が、電子銃を構えてこちらをにらみつけている。
「何故お前がここに? 消灯中の一般人の外出は禁止だとわかっているだろう! また懲罰房に……」
ニューロンの側近はそこまで言って勘づいてしまったらしく、私は心の中で眉間に皺を寄せた。
「まさか……お前が……」
信じられないことだろう。
それでも現実だ。私が、この事件の犯人だ。
側近のこめかみに、ビキビキと青筋が立った。
「息子を生贄にしまいとしているのか……? ……この、不敬者めが!」
幼子を抱えていないはずの場所にいる私、そう勘違いしても仕方ない。
正直、どうでもよいとすら思う。
私は息を飲む。側近は怒りのあまり顔が真っ赤になっている。
「今すぐ生贄は保護させてもらう! そしてお前は……」
銃口が私のこめかみをまっすぐ狙った。
「始末する! 神と酋長に逆らう罪人め!」
私は黙っていた。
私は黙って、側近の瞳を見つめた。
目を逸らしてはいけない。
こうなることは織り込み済みであるのだから––––もう少し引きつけて。
「あぅ……!!」
側近は素っ頓狂な声を上げて背中からのけぞる。
布袋を頭に被せられ、唐突に奪われた視界を取り戻そうと必死だった。
私はすかさず足払いをかけ、側近を床に押し倒すと、宙を舞った電子銃が落ちる前にグリップを捕まえた。
「ノル、『パラライザー』はどれ?」
「えっと……ダイアルをみっつひねったところだよ」
側近の視界を塞いだ犯人であるノルは、ひぃひぃと私の身体に身を寄せる。
人を襲わせてしまったことに対するフォローをしてあげたいところだが……今は、邪魔者を排除する方が先だ。
トリガーを弾く。
辺りに緑色の光が広がり、ぱしゅっと拍子抜けする音を立てて側近の身体が跳ねた。
そして布袋を被ったまま、側近は動かなくなった。
「よくやったねノル、作戦通りだね」
端から見たら死体にも見える側近を前にして、私とノルは抱き合った。二人とも汗だくだ。
居住区を抜け出す前に、ノルとはよく打ち合わせておいた。
執務室に辿り着くまでに、もしも酋長の親衛隊と鉢合わせてしまったら––––おかあさんがおとりになるから、ノルが敵の目を眩ませなさい。その間に、なんとか相手を気絶させるから。
ノルはとても怖がったので、説得には時間がかかった。だから打ち合わせと言うよりは、なだめすかしの作業だった。
––––ともあれ、怖いくらいに上手く事が運んだ。あとは執務室まで一目散に駆けていくばかりだ。
「行こう、ノル」
「ねぇおかあさん」
恐怖と興奮で目が爛々と輝くノルは、いつもより強く私の服を掴んだ。
「かみなりって、こんな音なの?」
全身を麻痺させた側近を見下ろし、私はかぶりを振る。
「違うよ……もっとこう……神さまを感じるような音だよ。……それより早く」
私は足取りの重いノルの手を掴んで、引っ張るようにして歩いた。
雷の音は、もっともっとすごいのだ。
早く、ノルにそれを知ってほしい。
●
執務室には優先的に予備動力が回されるので、きちんと室内は明るい。
だから、目的のものを探すのに手こずりそうもなかった。
「いい? 『緊急脱出ハッチ』だよ。ノルはその字が読めるね?」
ノルは神妙に頷く。
しかし、ソワソワキョロキョロと落ち着きがなかった。
「どうしたの? 初めての執務室が珍しい?」
「ううん、それよりね……」
ノルはうつむく。手をもじもじとこすり合わせている。
……嫌な予感がした。
「……いけにえ、ってなぁに?」
私はあの余計なことを口走った側近を呪った。
ノルはとても聡い子供だ。周囲をよく観察しているし、何事もすぐに飲み込む。そういえば、この子の父親もよく一族の皆から相談を受けて、適切な言葉を返していた。
隠しても、誤魔化しても、明日は来てしまう。
興奮で遠ざかっていた虚脱感と無力感が、猛烈な勢いで押し寄せてきた。
ノルが私を見ている。
私は観念した。
「……一族の為に死ぬことだよ」
ノルはちいさく『しぬ』と繰り返した。
「それって、もうおかあさんにあえないの?」
「そうだよ」
「どうして?」
「神さまのところへ行くからだよ」
「かみさまのところへいったら、もうおうちへかえれないの?」
「そうだよ」
ノルはうつむいた。
私は自分の幼い頃を思い出す。
枝とツタを繋げて作ったお気に入りのお人形をなくして、それはそれは悲しくて三日三晩も泣いたことがあったっけ。
うつむくノルの頭を見下ろす。
お人形をなくしたとき、私もノルと同じくらいの年だったか。
「……おかあさん」
ノルは顔を上げた。
「ハッチ、さがそう」
ノルは笑っていた。
その笑顔は明らかに歪んでいた。
ノルは部屋を散策し始めた。
私は拳を握りしめる。
なんであの子は泣かないのだろう。
幼すぎて死を理解できないのだろうか。
いや、ノルは賢いので自分の命が間もないことも、儀式という旧時代の遺物の為に無意味に自分の命が消費されようとしていることすら理解しているに違いない。
枯れたはずの涙を袖で拭いた。
私は罪人だ。
明日には酋長と一族に叛いた罪で、生贄になることすらなく処刑される。
「……少しだけ早く、神さまの所へ行っているからね」
私は幼子の後を追って緊急脱出ハッチを探し始めた。
ドームの本来の出入り口は、一族が神の怒りから逃れて避難してきたその日にニューロンが永久封印措置を施した。
しかし、古代人は別ルートの出入り口を用意していたのだ。それが緊急脱出ハッチ。この存在も、ニューロン本人から聞いたのだ。
今はそれが唯一の、私の本懐を果たせる存在だ。
早く、早く見つけて、神の怒りが飛び交う外の世界に行かなければ––––。
「ほ……ろ……ぐら……む」
「ノル? どうしたの?」
ノルは、ブルーの光を放つ端末に目を落としている。
「ノル?」
しかし、どうにも様子がおかしかった。
「けい……かく……しゅうきょう……しは……いたいせい……」
取り憑かれたように端末に画面に映る文字に目を走らせるノルの姿に、私は一抹の不安を覚えた。
「ノル? そんなことしてる場合じゃないでしょ? 早くしないと追っ手が来るよ」
「はこ……にわ……じっけ……ん……けいかくり……つあんしゃ……」
聞いてはいけない。
根拠はないが、そんな気がした。
それを聞いても幸せになれない気がする。
けれどもノルは……それでも続けた。
「………」
文章の最後に記された名前を聞いた時、私は目を見開いた。
「……なお……がいぶに……ろうえい……きみつが…………スグニゲテ……」
ノルは端末のタッチパネルに触れる。
それとほぼ同時にハッチが口を開き、ニューロンが親衛隊を連れて執務室になだれ込んできた。
●
私は息を切らして走る。
背にはノルをおぶっている。
背後から、ニューロンと親衛隊たちがどんどん距離を詰めてくる。
「……待て! 待つんだ!!」
薄暗い通路の奥に、光があった。
私は光に向かって手を伸ばした。
伸ばした手の先には、叩きつけるようなスコールがあった。
濃厚なジャングルの空気が鼻腔をくすぐり、私の足は地面にびっしりと生えたやわらかい苔を踏む。
––––外だ!!
私とノルがずぶ濡れになりながら外の世界に躍り出たのと同時に、目の前の古木がエネルギー弾で一瞬で黒焦げになった。
「年貢の納め時だな、コルチゾーラ」
ニューロンの電子銃が、照準を定められるほどに近づいてきていた。
私は木の幹に背中と、背中におぶさったノルを預け、叫んだ。
「……ニューロン!! 一族の怨敵め!!」
大雨に掻き消されないように、精一杯声を張り上げた。
「……私は!! 逃げるなんて意味がないと思ってた! 確信していた! だからノルを連れてドームの外へ逃げようなんて思わなかった!!」
ニューロンの銃口はノルを向いている。私ではない。
「いいから早くノルをこちらへ渡すんだ」
「雷の音さえ聞かせてあげられれば––––それでよかったのに……!!」
「脚を撃つぞ」
「見て! この空!!」
私は天を仰ぐ。
「雷なんて、ひとつも降ってない!!」
ニューロンは眉一つ動かさない。
あの頃、私の背中を追いかけてベソをかいていた少年の面影は全くない。
執務室で、私とノルは真実を知ってしまった。
真実を目の当たりにした途端、いてもたってもいられずノルを連れて緊急脱出ハッチに滑り込んだ。
背後からニューロンが追ってきている。
真っ暗な廊下を走り抜けた先で、どうしても確かめなくてはいけなかった。
「全部嘘! 全部ドームのテクノロジーを利用して作ったホログラム! “怒りの日”だなんて嘘っぱち!!」
ノルが生まれてしばらく経った日、私は雷のよく見える場所まで行って、まだふにゃふにゃの赤ん坊だったノルにその景色を見せた。
『綺麗だねぇ』とそう言った。
ノルが一人でよちよちと歩けるようになった頃、ふと気づけばノルないなくなっていた。
けれど、雷を見に行ったのだとわかっていたのですぐに見つかった。
私はノルを叱ったあと、一瞬雷を眺めた。
ある夜、ノルがなかなか寝ないので、雷の見える場所に連れてってみるとすぐに寝息を立て始めた。
愛らしい寝顔を見せるノルを抱きながら、私は急逝した夫のことを思い出して少し泣いた。
たくさんの思い出がある雷。一族を故郷から追い立て、ドームに閉じ込めた雷。アミニズムと共に暮らしてきた一族を、現代の技術レベルを遥かに超える空間の中に強制的に放り込んだ雷。
その正体は––––、ただの幻だった。
「どうして!? ねぇどうしてなの!! どうして……」
私は崩れ落ちた。
「どうして私の夫は、この子の父親は死んだの!? 神の怒りに貫かれて死んだのではなかなったの!?」
私の夫は、あの古木のように、原型を留めることなく無様な炭へと変えられた。
ドームへ避難する直前のことだ。あの光景が、今でも目に焼き付いて離れない。
ニューロンはトリガーを弾いた。
私は咄嗟にノルの頭を庇う。
しかし、煙を上げて、それもすぐに雨に飲み込まれたのは、ノルの親衛隊の一人だった。
「あの人は、一族のドーム移住プロジェクトの立案者––––」
親衛隊は崩れ落ちて倒れる。
ニューロンは笑った。
ニューロンが笑ったところを見たのは何年ぶりだったろう。
「でも、この計画をもっとうまく運用できるのは僕です」
「……だから、その銃で撃ったの?」
「雷を操り一族を支配するならば、僕の方がうんと上手にできる」
他の親衛隊は無表情で黒い遺体の片付けを始めている。
それを顧みることもないニューロン。
あまりにも不気味な光景だった。
「ドームは古い祖先から伝えられた僕たちへの贈り物。原始人のような暮らしを強いられる僕らは、これでようやく先進国からイニシアチブを得られる」
ニューロンが近づいてくる。
一歩一歩、確か歩みでこちらに近づいてくる。銃口をノルに向けたまま。
「こ……来ないで」
「母はあの人を次の酋長に指名しようとしていました」
昔のニューロンは、今のように私を敬うような口調で話していた。
昔のニューロンは、よく笑った。
昔のニューロンは、先代の酋長からのびのびと育てられた好奇心旺盛な少年だった。
一体、いつから電子銃で幼い私の息子を狙うような人間になったのだろう。
「この銃は、ごく小規模の雷のようなエネルギーが放出ができる」
黙々と始末されていく親衛隊は、真っ黒な人の形をした物体に変じていた。
あの日の夫のように。
「コルチゾーラ、私に優しくしてください。昔のように」
大雨の中をくぐり抜けて、ニューロンはもう目と鼻の先だ。
目を逸らしてはいけない。
ほんの少しの油断を見せた瞬間、何もかもが終わる。
「あの男の子は、きっと次世代のリーダーになる……それを許してはいけないのです。コルチゾーラ」
電子銃にエネルギーが満ちていく。ダイヤルは……見るまでもないし、見てもわからない。
その時だった。
「!」
音、がした。確かにした。
私は、緊張から解放された一瞬、空を見上げた。
「……おかあさん!!」
ノルは私の背中から飛び上がる。
虚をつかれたニューロンは面食らい、一瞬隙を見せた。
ノルは獣のようにニューロンに飛びかかり、頭に抱きつく。
親衛隊の一人が即座にトリガーを弾いた。
それはノルには当たらず宙を切り裂く。
「ノル! そのままでいなさい!」
親衛隊はそれ以上撃ってこなかった。ノルを狙っては、ニューロンに被弾する可能性があるからだろう。
私はニューロンの手首を叩いて電子銃を奪った。
「動くんじゃないよあんたたち! あんたらの頭がどうなっても知らないよ!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
ニューロンが歯軋りする音が確かに聞こえた。
ノルは必死でニューロンにしがみついている。
この状況で機転を効かせるなんて、なんて勇気のある子だ。父親そっくり。
「……ノル」
私はニューロンの背中に電子銃を突きつけた。
「約束だからね。雷の音、聞かせてあげる」
空を見る。雨雲に覆われた空。
ドームの内側から見れば、偽りの雷が走っている空。
「降りなさい」
「……コルチゾーラ」
ノルは全身をぐっしょりと濡らしながら身軽にニューロンの身体から滑り落ちる。
そして私に身を寄せた。
「僕は最初からあなたの身柄だけは保護するつもりだったのです……わかっていたでしょう?」
ノルは私を見上げている。
私は顎をしゃくって、木々の向こうの黒々とした闇を差した。
「行って、ノル」
「おかあさん……」
ノルは首を横に振る。
大雨の最中にありながら、幼子が涙を浮かべているのがわかった。
ノルの賢さが、見通しの良さが、この時ばかりは口惜しかった。
「いいから行きなさい! 走るの! 決して振り返っちゃだめ!」
「コルチゾーラ、僕の話を聞きなさい」
「おかあさん!」
私は笑いかけた。そうするべきだと思った。
「……おかあさん、あなたにしてあげたいことがあるの。お願い」
幼子の大きな瞳が、さらに大きく広がる。
あの瞳に、また自分の顔が映るほど側に寄りたかった。
駆ける音が、雨が大地に打ちつける音に飲み込まれていく。
去っていく愛しい我が子の背中を目に焼き付け、私はニューロンに応えた。
「……ニューロン、ひとつだけ聞かせて」
「それを聞かせたら、僕を解放してくれますか?」
私はニューロンのこめかみに電子銃を突きつけた。
「……どうして一族をドームに閉じ込めるために利用したのが雷なの? もっと合理的に窓に……たとえば真っ暗闇の映像でも映してドームの消費リソースを抑えるとかの方が、ニューロンらしいのに」
ニューロンは、大地と共に暮らしてきた一族が超高度文明の生活に追いやられるにあたって、細かい支配体制を作った。
今まで食糧も、寝床も、起床や消灯も、何もかも全てが管理AIによってコントロールされてきた。
それはそれは耐え難い、息が詰まるような暮らしだ。
––––ただ雷だけは……脅威から切り離され、鑑賞するだけの存在となった雷だけは、とても美しかった。
「僕らしい?」
親衛隊は私の頭を電子銃で狙い続けている。
私の身体は懲罰房での痛みを覚えていたが、不思議と怖くなかった。
「コルチゾーラ……今の僕は、僕らしいですか?」
「聞いてるのはこっち」
「うふふ……。そうですか」
ニューロンの表情は読み取れない。声からも感情がわからない。
酋長になってからのニューロンは、ノルよりもずっと理解が難しい。
命乞いの為か––––なんにせよ、時間を引き延ばしてくれるのはありがたかった。
「……僕が雷を選んだのは、強いて言うならば……」
天空から低い、腹の底が震えるような音がする。まるで神の唸り声のようだ。
私は待った。
「……あの人が、雷が好きだったからかなぁ……」
辺り一体がまばゆく光った。
これを待っていた–––––。これを待っていた!!
ノルは距離を十分に空けられただろうか。それだけが気がかりだが、私は電子銃を中空に放り投げた。
「な……」
誰かが叫ぶのが聞こえた。
ニューロンか、親衛隊か……どちらでもいい。
私はニューロンの背中を突き飛ばし、両手を大きく広げて点を見上げた。
「ノル!! よく聞きなさい!!」
私は叫んだ。
電子銃が何発も連射され、いくつかは私の身体を掠めた。
痛みに立てなくなったが、それでも空を愛でるのをやめなかった。
「これが、雷の音!」
私の心臓を電子銃が撃ち抜くより早く、神の雷が雲を突き抜けドームの一端を抉り、そこにいた人間たちを飲み込んだ。
●
ノルは聞いた。
初めて聞いたが、ちゃんとわかった。
ノルは振り返った。
真っ暗な森の中に、一瞬だけきれいな光が届いた。
ノルは、おかあさんに、振り返っちゃだめ、と言われたことを思い出した。
だからまた前を向いて走り出したが、ノルにはちゃんとわかっていた。
あれが、おかあさんと、神さまのところにいるおとうさんが好きだった音だ。
「おかあさん」
大地が震え、軋み、ノルの内臓をも揺らした。
魂に届きそうなその轟音を耳で、肌で、心臓で感じたノルは、空に向かってつぶやいた。
「きれいな音だねぇ」
●
ジャングルにはスコールが降る。
それは神の気まぐれであり、施しであるので、一族は痛いくらいに激しく降る雨をありがたがって受けとめる。
かつてジャングルからドームへと移り住んだ古き一族も、真なる酋長が興した新しい一族も、変わらず雨に感謝の祈りを捧げた。
「酋長」
側近の男がひざまずいた。
「身体を冷やします。どうか屋根の下へと」
「……音がするな」
酋長は耳を空に向かってそばだてる。
「……音、にございますか」
「ああ」
酋長の視線は、ジャングルの中心に不自然に建つ半円のドームに釘付けになっている。
「本物の––––神の怒りの音だ」
酋長はふっと微笑んだ。
同時に、酋長の頭上で雷が唸る。
「一族に伝えろ。神の名を冒涜し、神の威厳を利用する不敬な人の子を誅する時が来た」
側近は深々と頭を下げた。酋長に対する畏敬の念が、彼をどこまでも敬虔にした。
「偽りの酋長を、血祭りにあげる」
酋長は己の髪に触れた。
顔も知らない父が遺した髪。雷の音を教えてくれた母は、あの日落雷と共に魂を神に返した。
結局、酋長は母に似ることはなかったが––––母と同じ、真っ黒に変じた肌が誇らしいと思った。
酋長は拳を握り、空を仰ぐ。
「……奴は、生きている」
酋長は電子銃をドームに向かって撃った。
●
鏡の中に、顔を一直線に貫く雷の形の痣を持つ男がいた。
窓の外には、ホログラムの雷が走っている。
「……生贄が、ようやく帰ってくる」
ニューロンは電子銃のダイヤルを回した。
音の鳴る雷 ポピヨン村田 @popiyon_murata
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