第10話 ゴールデンウイークとお嬢様とお泊まり(5)
「私ね……将来に期待ができなくなっていました。多分、親が決めた相手と結婚して……子供を産んで……」
「う、うん……」
許嫁とか政略結婚とか、そういう話なのかな。
そういうことって、今でもあるってたまに聞く。
でも、まさか朝宮さんがそう決められていたなんて……。
それに子供って。
そこまで考えるものなのか?
いや、女の子なら考えて当然なのか?
それって……そんな未来が決められているというのは、どんな気持ちなのだろうか。
「だから、つまんない人生を過ごすのかなって思っていました。他にも辛いことも起きて……」
「辛いこと?」
「はい……でも、そんな時に竹居君のサックスを聞いたのです。その経験は私の心を救ってくれたような気がしています」
朝宮さんは思い出しているのか、微笑みを浮かべ瞳を輝かせている。
俺の音で、こんな顔をしてくれる人がいたなんて。
「少しは、俺の演奏も誰かの役に立っていたんだ」
「はい! あの時のことは多分、一生忘れません」
「そんなに……?」
腕枕している俺の腕に、彼女の涙がこぼれ落ちる。
「あ、ごめんなさい……」
「ううん」
俺は空いているもう片手の人差し指で、彼女の涙を拭った。
朝宮さんは指が触れるとき、目をつぶって、なすがままにされていた。
俺の指の感触を身に刻むように。
「ああ……竹居君。それで……。それでね、またあの音を聞けたらって思ってこちらの高校に入学したのです」
「そうだったんだ」
「それが、まさか……同じ高校にいる竹居君だったなんて思いもしませんでした。旧校舎の近くで竹居君の音を聞いたときも、こうやって泣いてしまって……」
朝宮さんはよく泣く。
表情豊かだというのもあるけど、一方で思い入れの強さによるものだとしたら。
人の心を動かせるって、そうそうない。
でも、俺の演奏を聴いて彼女が心を動かしたということなら、サックスをやっていた意味が少しはあったのかもしれない。
「竹居君の演奏に私は救われました。それはきっと、今も続いています。でも……私が好き勝手できる時間は限られています」
最初に言っていた許嫁とか政略結婚のことを指しているのだろう。
うーん。
今時そんなもの……あってもいいのだろうか。
なんとかできないのだろうか……?
「だからせめて、今だけ……
朝宮さんは祈るようにつぶやいた。
その思いに、報いたいと思った。
俺が楽器を吹く意味を、楽しさを思い起こさせてくれた朝宮さんに。
俺にいったい何ができるのだろう?
朝宮さんは、両手を胸の前で重ねた。
彼女の温もりが、腕や胸をとおして伝わってくる。
足の先も、俺に触れている。
それがとても気持ち良くて、眠気を誘ってくる。
「それでね、私は……竹居君に謝らないと……」
本題に入ったというのに、だんだんと朝宮さんの声が遠くに聞こえてきた。
「……。私は……。竹居……君?」
彼女の声自体も心地が良くて。
「寝ちゃった……?」
まだ辛うじて意識はあるけど、口を動かす程度の力さえ残っていなかった。
「竹居君、私はあなたの事が……」
俺のことが……?
駄目だ……。
意識が途切れる。
「……です」
俺の額に、何か温かくて柔らかい、しっとりとしたもの……唇が触れたような気がした。
しかし、俺はそのまま深い闇に沈むように意識を手放したのだった。
目が覚めた。
部屋は薄暗いまま。
俺の腕は未だ朝宮さんの頭の下敷きになっている。
めっちゃ痺れている。
そして……。
朝宮さんの顔は、相変わらず目の前にあった。
すぅ、すぅと可愛い寝息をたてていた。
気がつくと、朝宮さんの片手が俺の背中に回されている。
これは……いつも以上に朝宮さんとの距離が近く、心臓が高鳴る。
俺は朝宮さんの寝顔を見て不思議な幸福感に満たされる。
自然と背中に回されていた腕を彼女の元に返す。
「む……」
俺は猛烈にトイレに行きたいことに気付いた。
さて……どうやって腕を朝宮さんの顔の下から抜いて、ここを脱出するか……。
ごそごそと動いたのがいけなかったのかもしれない。
朝宮さんの目がぱちっと開く。
そして、きょとんとした目で俺を見つめている。
だけど彼女はすぐに、幸せそうな優しい顔つきになった。
なったように見えた。
これは俺の錯覚だろうか?
「……竹居君、おはよう」
「お、おはよう」
「起きますか?」
「うん」
何故だろう。
俺は確かに朝宮さんと言葉を交わした。
朝宮さんのことを色々と知った。
でも、それは儀式みたいなもので。
今は口に出さずとも、彼女の心を感じたような気がした。
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