第3話 水曜日とお嬢様と帰り道

 しばらく後。

 朝宮さんが入り口のドアを開けたのが見えた。



「はあっ……はぁ……はぁ」



 頬を赤くした彼女の息づかいが聞こえる。

 マウスピースを洗うため走ったのだろう。



「たっ竹居君、上のところだけ洗って拭いておきました!」



 朝宮さんは、顔を真っ赤にしてマウスピースを返してきた。

 俺は彼女が落ち着くのを待ちつつ、音が出るコツを伝える。



 朝宮さんは恥ずかしいのか、うー、と言いつつも、俺の言ったことを素直に聞いてくれた。

 意を決して、朝宮さんが息を入れる。



ぺー。



「お、出たね!」

「はい! ちょっと、音が揺れてますが出ました!」



 朝宮さんは、とても嬉しそうな笑顔を見せる。

 ああ、笑うとこんな感じなのか。

 この笑顔を知っているのも、俺くらいなものだろう。


 それに少し音程が気になるようだ。

 センスがいいのかもしれない。


 あれだけ避けてきたけど、誰かと音楽をやるのは楽しいな……。


 そう思っていると、キンコンカンコン……とチャイムが鳴った。

 ここにいられる時間の終わりだ。



「時間になったし、今日はこれくらいで」

「ありがとうございました。あの、お邪魔でしたでしょうか?」

「ううん、楽しかった」

「でしたら、よかったです」



 彼女はにっこりして言った。



「竹居……せんせい——」



 すごく小さな声で朝宮さんが言った。



「えっ?」

「あっ。いいえ……竹居君、またここに、お邪魔してもいいですか?」



 真っ赤になって話題を変える朝宮さん。

 先生ってちょっとくすぐったいな。



「うん。じゃあ俺がいなくてもいいように鍵の借り方を——」

「あの、私一人だと何していいか分からないし……竹居君が、いつも来て頂けると嬉しい……です」



 朝宮さんは、ちょっと俯いて俺を見上げて、自信無さそうに言う。



「……わかった。じゃあずっと来るよ、ここに」



 その瞬間顔を上げ、朝宮さんは、ぱっと花が咲くように笑顔になった。



「ありがとうございます」

「俺は片付けてから帰るけど朝宮さんは先に帰る?」

「あっ。はい、もう迎えが来ていると思いますので。本当に楽しい時間を過ごせました。ありがとうございました」



 そう言って、朝宮さんは入り口で振り返り頭を下げ「失礼します」と言って、音楽室を出て行った。



 迎え、か。

 やっぱりお嬢様なんだな。






 楽器を片付けて、旧校舎を出て学校を出る。

 周囲は暗くなり、星がチラチラと瞬いているのが見えた。

 しばらく歩くと、校門から出たすぐの所に見覚えのある女生徒がいるのに気付く。


「あれ?」



 朝宮さんだった。



「竹居君」

「どうしたの? 迎えはまだ?」

「あ、あの……車はあちらで待っています」



 彼女の指が指す方向を見ると、怖い人が乗っていそうな黒塗りの高級車が停まっている。



 あっ。

 これ……近づくと中から厳つい人が出てきて、「お前、お嬢様とどういう関係だ?」とか言われちゃったりするヤツ?

 そんな妄想をしていると、朝宮さんが少しうつむき、上目づかいで俺を見上げているのに気付いた。



「車まで少し話しませんか?」

「……う、うん。いいよ」

「やったー! あ、いえ……すみません」



 本当に、普段学校の教室で見る朝宮さんとは別人に見える。

 こんなにはしゃぐ姿は、とても貴重だ。



「あの、朝宮さん、一つお願いがあるのだけど」

「はい、何でしょう?」

「音楽室を借りていること、みんなには内緒なんだ。だから、他の人には言わないでもらえると嬉しい」

「はい! もちろんです。二人だけの秘密ですね。絶対に言いません!」

「うん、約束だね」

「やったぁ! じゃなくて……やりました……」



 小さく喜ぶその姿が、可愛らしかった。





 そして、目的の場所まで着いた。

 黒塗りの車から降りてきたのは、二十歳くらいのスッとした女性だ。



「お待ちしていました」



 怖い人じゃなくて良かった。

 ぱっと見、ちょっと冷たそうな性格の印象を受ける。



「いつもありがとうございます」



 朝宮さんはそのお姉さんに丁寧に頭を下げた。



「お嬢様、こちらの方は……?」

「竹居君です。クラスメートです。先程までサックスのご教示を受けていました」

「なるほど。こちらが……お久しぶりですね」

「へ?」



 お姉さんから先ほどの警戒色が消え失せ、柔らかい空気が伝わってくる。



「いいえ、なんでもありません。改めて、貴方が竹居様なのですね」

「たけい……さま?」

「前に、サックス演奏でテレビで取り上げられましたよね」

「あ、それは……」



 あれを覚えている人がここにもいたとは……。



「それに、お嬢様から時々お話を伺っております」

「も、もう……夕凪さん。それは言わないでください」



 俺の話をしていた?

 朝宮さんは耳の先まで真っ赤になって、お姉さんの後ろに隠れてしまった。


 すると、お姉さんは俺に近づき、耳元で囁く。

 彼女の唇が耳の近くに寄ったのを感じて、少しぞくっとした。



「私もファンですよ」

「ええっ?」



 それだけ言うと、スッと離れて俺に向かい合った。



「では、これで失礼致します。お嬢様をこれからもよろしくお願いしますね」



 彼女は軽く頭を下げる。



 でもよかった。

 いい人そうだ。

 海に沈められずに済みそう。



「もう。子供じゃないんだから」



 朝宮さんは、少し頬を膨らませている。

 今日は彼女の色んな表情が見られて楽しい。



「じゃあ、朝宮さん、また明日」

「また明日ね、竹居君」



 そう言って、手を振ってから車に乗る朝宮さん。

 黒塗りの車は静かに走り出し去って行く。


 いろいろなことがあったな……。

 俺だけが知っている、思ったより人なつっこいところと、天然な一面。

 それに、秘密の共有もした。


 住む世界は相変わらず遠いけど、少しだけ朝宮さんを近くに感じた一日だった。

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