第2話 水曜日とお嬢様と間接キス(2)

 朝宮さんを音楽室に入れ、たくさんある椅子の一つに座って貰う。


 朝宮さんは下を向いて涙をぬぐい始めた。

 顔や鼻の先が少し赤みを帯びている。

 不謹慎ながらも、そんな姿ですら可愛いと思ってしまう。



「……ごめんな……さい」

「ううん。大丈夫?」

「は……はい」



 謝らなくてもいいのに。

 俺の演奏を邪魔したと感じているのかもしれない。



 何かできること無いかなと思って悩んだあげく、俺は手を伸ばし朝宮さんの頭を撫でてしまった。

 落ち着くといいなと思ったけど、触れて良かったのかとも心配してしまう。


 さらさらな彼女の髪の感触が伝わってくる。

 幸い、朝宮さんは俺の手のひらに頭を寄せるようにしてきた。

 頭を撫でて良かったみたいでほっとする。



 髪の隙間から見える朝宮さんの表情に、ドキドキする。

 女の子を目の前にする経験があまりなく、何を言ったらいいのか分からず戸惑う。

 俺は楽器を吹こうと思い、一旦離れた。



「俺は練習続けるから、適当に帰ってね」



 吹いていた曲がマズかったのかもしれないと思い、念のため別の曲を吹くことにする。

 二人だけの教室にサックスの音色が響く。



 少し時間が経つと、朝宮さんは随分落ち着いたようだ。

 手鏡で顔をチェックした後は、今は俺の練習を食い入るように見つめてきている。



「朝宮さん、帰らないの?」

「あっ。ああぁ、あの、もう少し……聞かせていただいてもいいですか?」



 突然話しかけたのでびっくりしたのか?

 教室で見せていたクールな——冷たい雰囲気とはまるで違っていた。



「落ち着いて? まあ、うん。いいよ」

「ありがとうございます。あの、ずっと一人で吹いてるんですか?」

「うん」

「そうですか……」



 なぜ? と聞きたそうなニュアンスを感じた。



「俺さ、サックス全部辞めようかなって思う事がある。楽しいことは楽しいけど、一人で練習していてもしょうがないって思わない? ……誰に聞かせるわけでもないし」


 かといって、もう誰かと音楽を一緒にやるなんて考えられない。

 また、あんな思いをするなんてごめんだ——などと考えていると、急に朝宮さんが立ち上がった。



「私は竹居君の音色、大好きです! あの、サックスは……最初は、初心者はどんな練習をするのでしょうか?」



 朝宮さんは、熱がこもった声で言った。少しだけ頬が紅潮している。

 サックスに興味があるのかな?

 俺の音色と言っていたけど……?


 コツコツと足音を響かせて朝宮さんが近づいてきた。

 その勢いに、俺は圧倒されてしまう。



「さ、最初はね、このマウスピースとリードだけで音が出るように吹くの」



 実演してみようとすると、朝宮さんが我慢できない、とでもいうように手を伸ばしてきた。

 ん? と思ったものの、俺はそのままマウスピースを渡してしまう。

 ついさっきまで、俺が口につけていたものだ。



「恐れ入ります。こうでしょうか?」

「えっ!?」



 彼女は、桜色の唇を開き……黒いマウスピースの先端を口に含んだ。

 それ、間接キスなんだけど。



 俺自身はそれほど気にならない。

 中学の頃の吹奏楽部では稀にあった。


 でも、ほとんど初めて話すような相手にされるとびっくりする。

 それも、とびきりの美少女に。



 朝宮さんは意識していないように見えた。

 彼女は続けて、頬をぷくっと膨らませ息を吹き込む。



「あれ? 全然音が出ませんね?」



 息の勢いも虚しく、スー、スーと空気の通る音だけがする。

 朝宮さんが首をかしげる。



「サックスというのは、汽車の窓から楽器を出すだけで鳴る……つまりそれだけ音を出すのが簡単な楽器なんだよね。もう一息、頑張ってみる?」

「竹居君、あの、お手本を見せていただけませんか?」



 彼女は興味津々といった風に俺を顔を寄せ、マウスピースを突き返してきた。

 近いな……。


 一瞬だけ手が触れ、彼女の体温が伝わってくる。

 彼女の白く長い指はひんやりしている。



「えっ……いいの?」



 朝宮さんは再び顔をかしげるが、すぐに「はい、もちろんです」と言った。

 多分、彼女は質問の意図を分かっていない。

 また間接キスするんだよ? ということだ。



 普通、他人にマウスピースを渡す場合はその前にハンカチなどで軽く拭く。

 拭くだけに留まらず、わざわざ洗う人もいる。



 だから、俺もハンカチで拭こうと思ったけど、思い留まった。

 彼女が拭かなかったのに、俺が拭くというのはどうも失礼というか申し訳ないというか?

 いや、やはり拭いた方がいいのか?

 俺の中で、謎めいた妙な葛藤が続く。



「どうかされましたか?」



 相変わらず近い朝宮さんが、わくわくという気持ちが溢れるような表情で言った。

 表情がさっきからどんどん変わる姿はとても新鮮でかわいい。


「よく見てて」


 俺が出した結論は「気付かないふり」だ。

 生暖かい汗が背中を伝うのを感じながら、俺はマウスピースを素知らぬ顔をして咥えた。


 ペー。


 楽器本体を付けないと、少々情けない音が出るものだ。


「……すごい!! やっぱりコツがいるのですね。もう一度お借りできませんか?」


 朝宮さんに尊敬の眼差しを向けられている。

 彼女の瞳がキラキラとしている。



 調子に乗った俺は何気なくハンカチでマウスピースを軽く、渡した。



「あっ……!」



 受け取ろうとした朝宮さんの動きが止まる。

 クセって恐ろしい。


 朝宮さんは、ここでようやく同じマウスピースに俺と一緒に口を付けたのだと気付いたようだ。



「本当にごめんなさい! さっき拭きもしないで。ちょっと……洗ってくる……きます……うー」



 耳の先まで真っ赤に染めた朝宮さん。

 彼女はマウスピースを抱えたまま走り出し、逃げるように音楽室を出て行った。



「いやあの、もう朝宮さんが吹いた後に口に付けちゃったし……今から洗っても……?」



 やっぱり天然か? 天然なのか?

 俺は驚きつつも、普段見られないコロコロと変わる表情の朝宮さんを、とても可愛いと思った。


 あんな朝宮さんの慌てぶりを知っているのは、学校の中でも俺だけなのかもしれない。

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