第29話 孤食のすゝめ
疫病というものが私達の生活を一変させるというのは、現代文明が発展しようとも変わらぬことをこの一年は痛感させられた。
旅をすることも、食事に出ることも、夜の街を冷やかすことも自粛を要請され、自分の中に降り積もるものをどのようにして下ろしていくか悩まざるを得ない。
ただ、思うところがある。
私のような独り身にとって、いただく食事は会食に当たるのか、と。
これに対して、二つの考えがある。
一つには、一人で静かに旅をし、語ることなく飯を食えば問題ないとする考えである。
もう一つは、一人で静かに食う飯や旅など楽しみはなく、人間の心理に目を瞑った理想論であるという考えである。
この二つの考えを突き付けられた時、私は少々悩んでしまった。
確かに、孤食――ここでは単純に独りでの食事と定義しよう――が広がり、定着すれば今の飲食店を蔑視するような政策や提言は取り下げられるだろう。
しかしながら、この孤食の楽しみとは何なのか、を考えていくと僅かに引っかかるものがある。
熊本県独自の緊急事態宣言により飲食店の営業時間短縮要請が強化される本日、そうしたものを考えるのは必ずしも無駄なことではあるまい。
そもそも私が孤食を中心とした生活になったのは、母の死が契機である。
それまでは、まだ食卓を囲むという習慣が残っていたものの、それによって楔が打たれたように家族が分かれ、それぞれの生活が交わることはなくなった。
外食や中食が増え、自分の部屋で一人いただく食事が当たり前となった。
もう十年以上になるが、その中で変化したものといえば食事中に見るものがテレビから動画に変わったことぐらいであろう。
好きなように飲み、好きなように食べるというのは今なお続いている。
こうした時に最も良いのは小鍋立てなのだろうが、以前にも書いた通りそれを愉しめるほどの成熟を私はまだ得ていない。
ただ、孤食に在るものはこの自由度であることに変わりはない。
熊本地震のあった年の晩秋、不知火海に面する民宿で一晩を過ごした際、大きな座敷で一人、夕食を堪能したことがある。
静かな潮騒を背にした料理は、必ずしも豪勢で絢爛なものではない。
ただ、たっぷりと時間をかけて酒を飲み、いただく料理というのはそれだけで価値が増す。
一口いただいてはその味を十分に吟味することができ、命をいただくという行いに感謝の思いを捧げることができる。
流石に時間がかかり過ぎたのか、最後は片付けの時間が……と申し訳なさそうに言われたのであるが、それまでに要した時間というのは最も活き活きとした食卓の一つであった。
孤食をシステムとして取り入れた店としては、ラーメンの「一蘭」が有名である。
両隣に在る仕切りと前面にある簾のおかげで、視覚的な情報は最低限に絞られ、個室に在るような錯覚に陥ることができる。
また、仕切りがあることで会話を抑えることもでき、集団で伺っても音声情報も減る。
こうした工夫により、目の前にある一杯に集中することができ、先の不知火の民宿と同じような状況を疑似的に作ることができる。
ただ、仲間と伺う際には、どうしてもその注文したものや食べる速さなどを気にすることとなってしまう。
人と食事に出るというのは、中々に難しい。
これを食から接客に置き換えたのが個室キャバクラであり、仲間で伺えばどうしても時間を揃える必要が出てくる。
以前、同期と共にそうした店へと伺い、仲間を待たせてはならぬと時間になって出てみると、それから一人のためにもう三十分待たされることとなった。
一方で、他者との食事は「食べ物」以外の情報に気を配り、会話を交える必要がある。
いわゆる会食であるが、そこで人は孤独から解放され、人とのつながりを感じることができる。
これもまた良いものなのであるが、その分だけ食との繋がりを断つ必要がある。
「つながりは しがらみにも似て 烏瓜」
という句を「お~いお茶」で目にした時、思わず舌を巻いたものであるが、繋がりというものは自由と天秤にかけられる。
飲み会であれば、卓上のグラスや皿の空き具合に気を配り、今後の関係性も睨んだ会話を行う必要がある。
特に、お付き合いしている方と食事を共にする場合、深く気を配る必要があり、豪華な宿の食事も味が二の次になることすらある。
これを煩わしいと思うこともあれば、愉しさと取ることもできるのではないだろうか。
ただ、孤食にはもう一つある。
第2話で紹介した三件のお店はいずれも私にとって嬉しい孤食の在り方を許してくださり、その尊さは代え難い。
無論、美味しいものだけを単純に求めるのであれば、これ以外にも大いに美味い店を見つけることができよう。
しかし、私の愛読書は「クッキングパパ」や「酒のほそ道」であり、「美味しんぼ」ではない。
例えば、銀座通りのある寿司屋に立ち寄ったところ、同じくカウンターの方から、
「以前、うちの店にいらしたことありましたよね」
と声をかけられた。
よくよく伺うと、伺ったことのある焼鳥屋の店主で、
「いやぁ、そうだったんですね。よく覚えてらっしゃいましたね」
「ええ。以前、いつもの先輩とは違う、彼女さんといらしたでしょう」
「ありましたねぇ」
「それで覚えていたんですよ。また、ぜひご一緒に」
「ええ、ぜひ」
なお、このやり取りから間もなく別れたのだが、それはさておきそこの大将からも昔の働きぶりなどを伺い、それを肴に大いに酒をいただいた。
また、下通の「餃子の王将」では、中年の男性が二人がかりで調理を行い、その様を肴に飲んだこともある。
「百戦錬磨然とした店長の熟達した視線が端々に飛ぶ、一種戦場に似た環境でありながら、その様式美に嘆息の止まない魔境と化している」
見返すとこのような評を行っているが、人の持つ活気はやはりその場に在ってのみ感じることができる。
そうした「孤食」の楽しみから切り離されているからこそ、今の私はどこかがらんどうとしており、それを埋めることができないでいる。
街明かり 呼び込み・活気 熱き飯 三十路
しかし、夜の街が必死で堪えようとしている今、この孤食という在り方はやはり見直されるべきであろう。
そして、どうしても「孤食」に耐えられぬというのであれば、時に折詰を利用すればよい。
それもまた、僅かに心を埋めるのであるから。
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