『旅の始まり_/2』



 夜が終わった。

 ならば、次に来るのは朝の霞であった。



「    」



 未だ煤の香りを纏ったままで、俺は霞行く景色を歩く。

 春は曙、などと言ったのは誰だったか。察するにその人物はこの時間帯を指して、四季の至高の一つに数えたのだろう。


 しかしながら、この景色が至高のそれだとは到底思えない。

 永遠に続くような平原には、視界の端まで霧が降りていた。それが、ぼやけた朝日を透いて山吹色に色付いている。


 察するに、近くに山と海があるのだろう。風が冷たく、そして湿っている。山勢などと呼ばれる気象に酷似した風だ。

 

 山でも、海でも、あってくれるなら願ったりだ。景色が永遠に牧歌的なのは流石に気に堪えるし、何より、


 何も見えない。

 霧の視界が晴れたところで、何もあるまい。


 空腹と飢餓と苦痛のない俺の道中は、まさしく、終わりと間限のない地獄に他ならなかった。

 それでも、霧が晴れてくれたら、と。


 切に願う。






 ――濃霧が、平原の草床に集積する。



 日差しが強くなって、大気の水分が熱を浴びたためであろう。気化した気体が水に帰り、足元の草の感触がじっとりと重くなる。靴底を濡らす。薄い紫霧が、更に希薄になっていく。


 そうして、日差しが遂に水平線を抜き出た頃、霧はようやく朝日の放射に駆逐された。

 それで俺も、今自分がどこにいるのかを知ることが出来た。



「……、……」



 はるか向こうには、平原の切れ目が見える。その向こうにあるのは、どうやら海であるらしい。


 海岸線をつうっと視線でなぞると、その途中には不自然な影が見えた。それは半ばシルエットであって判然とはしないが、――街並みという表現が、妙にしっくりくる輪郭に見える。


 それと、俺の足元には石畳があった。とはいえマトモな出来ではない。道成りは草叢に浸食されて途切れ途切れだし、構成する石材の一つ一つにしたって、つま先で小突けば崩れてくるような有様だ。


 しかし、――どうやら、

 この路の先は、あの街並みに続いているらしい。


 ゆえに、俺はそちらを目指すことにした。






 /break..






「……、……」


 潮風の香りに、喧騒が混じり始めた。



 街並みに近付いていく度に、足元の石畳がしっかりとしたものに変わっていく。

 向こうに見えるのは、ややまばらな家屋の集合だ。あれらもどうやら、レンガか何かの石材で出来ているらしい。


 遠目には黒でしかなかったシルエットが、近づいてくほど、より淡いグレーの色へ判然としていく。


 ……向こうは、どうやら街の端らしい。そこの街端から、視線を奥に投げていくほど、家屋が更に密集していき、背を高くしていく。


 そんな街の始まりに、俺がふらりと立ち寄ると、

 ――気付かぬうちに近くにいたらしい少女が、俺に声をかけてきた。



「お兄さん! 他所の方ですかっ?」


「……。」



 朝らしい、快活な声だ。

 はっきりとした目鼻立ちであって、しかしどことなくあどけなさのようなものも残っている。


 鮮やかな金糸の髪が、朝日に暴かれそれを照り返す。



「ああ、そうだよ」



 俺は答える。



「適当に歩いてきたら、ここに着いたんだ。ここはまだ、公国なのかな?」



 それは、当然。と彼女は答えた。



「しかし、公国の名を知っているということは、異邦人の方ではありませんね? 荷物もないようですが、本当に、どこからいらしたんです?」


「……、……」



 少し、悩む。


 どうやら彼女は異邦人という存在を知っているらしい。それどころか本当に、この世界において異世界からの転移者は周知の存在であるようだ。ここまでを前提として、さてと、どう返答をしたものか。


 ――こんな、至極当たり前の思考に、ひどく時間をかけて、

 そして俺は答えた。



「訳ありだけど、俺は多分、君が言う異邦人っていう身分だ。ここに、そういう人間を保護するような機関があれば、案内をしてほしいんだけど……」


「えっと、はい……?」



 彼女は少し、返答に詰まったような顔をした。


 ……察するに、俺が昨日までいたあの拠点が、異邦人を保護する仕事を主要に管轄する施設であるはずだ。しかしながら俺の目覚めた平原は広大で、少しでも見当違いに歩けばあの拠点とは全く別の方に着く。


 ならば、俺がこうして流れ着いたこの場所にしたって、「そういう連中」が来訪してくるような機会が少ない訳ではあるまい。



 果たして、彼女は、



「なるほど、分かりましたっ」



 概ね俺の予想した通りの理解の速さで以って、俺を歓迎してくれた。






 /break..







 俺がここまでを頼りにしてきた石畳の路は、どうやらそのまま街の奥まで続いているようであった。


 路の両側には家屋が散見される。どれも民家の設えであって、しかしそれが次第に、食事処らしい雰囲気のものや、また別の施設の様相を伴ったものも混じり始める。


 また、しばらく歩いても、家屋の並びは雑然としたものであった。そしてそれらも、進むごとに理路整然と整列をしていく。


 ――鋪装が広くなって、道幅が広くなって、裏通りが出来て、敷地面積に格差が表れ始めてきて、人の往来が分厚くなる。


 俺が彼女に連れられて歩いた石畳の直線距離は、面白いくらい克明に、進むにつれて街の中心部へのグラデーションを描いていった。



「珍しいですね、お兄さん」



 街の変遷に目を奪われていた時、彼女がふと声をかけてきた。


「大抵はウォルガンさん、……えっと、お兄さんのような立場の方を保護する施設がありまして、そこを漏れてくることはないんですが」


「漏れてくる?」


「あの、ごくたまにはいるんです。ウォルガンさんところの巡回に見つけてもらえなくて、ここまで歩いてくるような人も」


「……、……」


 妙に煮え切らないような口調に思える。しかしながらそれは、観察する限り彼女の、やや人見知りな性格によるものであるようだ。


 ただし、さてと、



「……。」



 俺は先ほど「公国」と、を口走ってしまった。彼女が「正しい意味」で俺を訝しみ始めるのも時間の問題だろう。


 差し当っては、彼女の引率が終わるまで、俺は彼女に、「不審者未満という程度の悪印象」を保ってもらい続ける必要がある。無論ながら、彼女に施設の場所だけ聞いてここで別れるなどと言うのは愚の骨頂だ。別れた後に彼女が何をしでかすか、或いはこの魔法のある世界で、彼女に「何が出来るか」もわからない状況で、彼女を俺の監視範囲外に外すというのはまさしく戦慄モノに違いない。


 これば例えば、彼女が俺と分かれた瞬間に「あの人不審者です!」とか人を呼ぶ程度にしてくれたならまだマシで、視界外から魔法という凶器でズドンとかされたらシャレにならない。


 ……いや、実のところ俺が真に恐れているのは恐らく効かないであろう魔法攻撃ではなく、率直に前者の不審者扱いの方であったのだが。



「……、……」


「……。」



 なにせ、俺を保護してくれた彼らは、昨日のうちに壊滅した。


 その悲劇の立役者たる鉄の塊は昨日のうちに身柄を消していて、残ったのは拠点廃墟と、異邦者輸送のために今しがた廃墟拠点へ向かっているらしい役人何某の存在だけである。


 その何某氏が、かの惨憺たる有様を見て、果たしてどう考えるだろうか。

 ――答えは簡単だ、保護された異邦者の暴走による凄惨な脱走劇の後だと考える。



「面倒を、……かけて、申し訳ないね」


「え? いえ、そんな」



 俺の小さな一言に、彼女は振り返ってそう答える。


 俺は、昨日の出来事を包み隠さず話すつもりである。それ以外に出来ることなどない俺には、こんな白昼堂々でいたいけな少女に不審者扱いされるわけにはいかない。

 保護施設にかくまってもらうまで、……つまり俺の弁解が向こうに通るまでは、俺は、対外的などんな悪印象だって抱え込んでやることはできなかった。



「――ああ、でも」


「……、……」



 彼女がふと、何かを言った。

 半ばまで呆けていた俺は、それが俺に向けられた言葉であることに気付けなかった。


 一向に視線を上げない俺に見かねたのだろう、彼女が、

 ――視線で以って、俺の顔を持ち上げさせた。



「でも、お兄さん?」


「……。なにかな」



 短く応える。

 それでも少女は満足げであった。



「面倒をかけたっていうなら、今夜はウチの宿に泊ってくださいよ。……ここだけの話、今から行くところのベッドは固いんですって!」


「……、……」



 ――それで俺は、初めて彼女の顔を見た気がした。


 艶やかな金色の髪に、俺とは違う身体骨格。よく動く表情を乗せた、見慣れぬ形の目鼻立ち。

 しかしそれは、……俺がここで初めて見た顔に似ているような気がした。



「シアン・。私の名前です。この辺なら、この名前を出してくれたら宿の名前は聞けるはずですよっ」



「――……、……。……知ってるだろ? 俺は異邦人で、この世界の通貨なんて持ってないよ」



 ツケてあげる、異邦人は出世するんでしょ? と、

 彼女はそう、俺に答えた。






 /break..






 ――エイリィン・トーラスライトはその報告を聞き、まず初めに手元の昼食のパスタを平らげた。


 彼女の異世界転移者監督官としての任務はこれが初めてであり、言い換えては、異世界転移者の受け皿となっている「はじまりの平原」と、その直近に当たるこの街に来るのもまた、初めてのことであった。


 つまりは、この街の魚介を堪能するのも今日が初めてだ。

 公国の英雄が死んだその昼に観光を満喫するのは不謹慎かもしれないが、だからこそ彼女は、今日の昼食を疎かにしたくはなかった。


 ……ウォルガン・アキンソンとその部下たちならば、きっと、通夜には酒をふるまってこそ成仏が出来ると言ってはばからぬに違いあるまいゆえに。


 しかし、さてと、



。ということですね?」


「間違いありません」



 口元のオイルをハンカチで拭い、彼女は担当者と短いやり取りをする。

 口調は穏やかに、しかし足を止めることはなく。


 思考はその間も最高速で回転させて、聞くべきこと、話すべきこと、得るべき言質、聞かせてはならぬこと、それら全てを一つの文脈に組み上げる。


 ……今日が忙しくなりそうでよかった、と。

 彼女は、胸焼けではない胸の異物感に、ふとそんなことを考えた。



「こちらです」


「結構」



 案内されたのは、政府施設のとある一室だ。


 元来ならば正式な客人をもてなすための部屋である。流石に政府関係者の大物や王族などを通す部屋と比較すれば見劣りもあるが、しかし異邦者をもてなすとなれば過分に過ぎる一等室であろう。それも、などと言う相手であれば。



「失礼」



 ノックも、相手の断りも必要はない。異邦人に対し自分という立場の者が下出に出るとすれば、それはまさしくまだ見ぬ対外国への土下座外交に他ならない。


 国交も敷いていない相手など、そも人権の実在を疑問視するところから始めるものだ、と。彼女はそのようなスタンスを込めて、強く、戸を押した――。



「うん……?」



 ――開かない。

 なんでかな。という彼女の疑問はすぐ後に自解する。なるほどどうやら、この扉は開き戸であるらしい、と。


 ゆえに、そうして、



「……おっと?」



 なおも開かない。

 そこで、



「――あ、失礼しました」



 扉の向こうから声がして、ふっとノブが軽くなった。



……」


「……、……」



 微妙そうな表情を率直に作りそうになってしまった、と彼女は自省する。これは相手の、自分への気遣いである。それを無碍に扱うのでは自分の器量の不足ととられる。


 ……なのでここは、咳ばらいを一つ。



「ど、どうも」



 さて、ドアの隙間から見えたのは、何やら軟弱そうな面持ちの男であった。歳は24と聞いていたが、この国のその世代と比べるとずっと細身に見える。柔和気な表情は、一言で言えば毒気が足りていない。

 

 彼女は、

 ……ひとまず、何事もなかったかのように部屋に入った。


「公国騎士、エイリィン・トーラスライトです。ひとまず、席に座りなさい」



 そう指示すると、男は全く流麗たる動きでそのようにした。

 命令をされるのに慣れた挙動だ、と彼女はふと思った。



「えっと、自分はカズミ・ハルと言います。今日は、お話を伺っていただけるということでよろしいのでしょうか?」


「ええ」



 短く、そう返す。

 それから、少し間をおいて言葉を付け足した。




「……、……」



 不思議そうな表情を、男は隠しもしない。

 エイリィンは、男の間の抜けた第一印象を、ひとまずはそれで確定することにした。



「私は、あなたの担当管理者になるものです。――聞かせてください、カズミ・ハル。?」



「……。」



 男は、

 少し黙って。



「――ハルで結構です」



 と、そう答えた。



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