第6話 誉れの騎士(3)
ギチ、と腕が軋む。手にした手綱の先に繋がった巨体が苦しげもがく度に手のひらに伝わる振動で体が持っていかれそうになる。歯を食いしばって耐えるのが精一杯で、状況は好転しないどころか悪くなるばかり。このままいけばそう時間もかからず僕と手綱の先のヒルドラコは転落し、下を流れる濁流に飲まれて消える。
(なんで、なんでこんなことにーー!)
ぬかるんだ地面を必死に踏みしめながら頭の中を後悔ばかりが駆け巡る。ついさっきまではなんのことはない旅路だったのに、と。不吉な走馬灯のように山へ入ってからのことが思い出される。
*
軽い休憩を終えて、雇い主の王都騎士ヒルグラムとも多少打ち解けた僕はいよいよ山越えへ挑み始めた。といっても山の中もしっかり人の通る道は出来上がっていて、ヒルドラコを伴っても十分歩けるくらいの余裕があった。とはいえ山道ではあるので傾斜や森の木々なんかには気をつけなければならなかったが、身構えていたほどの苦労はなく進めていた。
「思ったよりも、きつくないですね……」
ポツリとつぶやいた言葉に、隣を歩くヒルグラムさんはちらりと視線を向けて、すぐ前を向いて歩き続ける。
「ラング、山に入ってどのくらいになる」
「え?ええと、二時間くらいです」
「その二時間で山のどのあたりまで進んだ?」
「え、と……」
そう言われて地図を広げる。さっき過ぎた案内板の位置から考えて……。
「えーー」
思わず声が漏れた。この二時間歩き通しでいたというのに、まだ山の三分の一にも届いていなかった。
「この山道は山頂まで登り通しだ。道が作られているとはいえ、急勾配を避けるために大きく曲がりくねった道になってる。かかる時間を平地とおんなじように考えてるなら甘すぎるぞ」
「す、すいません……」
恥ずかしくなって声がうまく出せない。ちょっとヒルグラムさんと話せたからと調子に乗っていた。ただ雇い主と少し会話ができた程度なのに、僕は仕事がうまく回り始めたみたいな錯覚をしていた。ヒルグラムさんは僕よりずっと冷静で、この旅全体のことが見えている。だから山に入るときにわざわざ話を止めたんだ。
「お前は目先のことに囚われやすいな、ラング。見えてるものだけ見てるようじゃ、この先大変だぞ」
そう付け加えて、ヒルグラムさんは少し足を早めた。
(怒らせてしまっただろうか……でも、しかたない。僕が迂闊だった……)
視線を落としたまま歩速を早める。道の傾斜は緩やかだったけれど、さっきまでよりひどく長く感じた。
*
「よし、休憩だ。十分したら動くぞ」
歩き始めて四時間。ヒルグラムさんはようやく休憩をいれた。僕は近くにあった岩にフラフラと座り込む。
(つ、つかれた……!とてもじゃないけど王都騎士の体力になんてついていけるわけがない……!)
水筒の水を一気に飲み込み盛大に息をつく。なんとか音を上げずにここまでついてきたものの、正直限界だった。とても休憩十分程度で回復しきれるものじゃない。
(こうなったら、格好はつかないけどヒルドラコの背中に乗せてもらって……)
ほんとにかっこ悪いし申し訳ないとは思うが動けなくなるよりはいい。仕方ないことなのだ。
「あ、あのーー!」
ヒルグラムさんに声をかけようとして、止まった。
木にもたれかかって休憩しているヒルグラムさんの顔には、まるで余裕なんてなかった。標高も上がって気温の落ちてきた山の中だというのに滴る汗は際限がなく、息も上がっている。座って休憩しないのは、一度座れば立ち上がるのが辛いことを知っているからだ。
考えてみれば当然だった。ヒルグラムさんは僕と違って鎧を身に着けたまま歩いている。それもマウリアにつくまでの間も彼は旅をしてきているのだ。疲労が溜まっていないはずがない。しかも当初の予定ではマウリアからプレイシタまでの旅路はヒルドラコに乗って移動するはずだったのだ。それがこうして山道を徒歩で登る羽目になっている。
(ぼくの、せいで……)
ぶるりと、体が震えた。今更になってやっと、彼にどれだけの負担を強いてしまったのか気づく。それでも彼は、僕を責めずに文句も言わず、ここまで歩いてくれた。それに気づいてしまったら、もう甘えた言葉なんて吐き出せなくなった。
「十分たったな。行こう」
「っ、はい……!」
謝ることもできずに僕は従った。
余裕がなかった。彼にも僕にも。はやくこの山を登りきらなければとそればかり考えて、互いに自分のことに手一杯で前ばかり見ていた。
だから、いつの間にか空がどんより曇っていた事に、雨粒が落ちてくるまで気づけなかった。
「うわ、クソ……!ラング!荷物に雨避けかけてくれ!」
「は、はい!!」
頬に雨が当たったと感じた直後には、雨は一気に土砂降りに変わっていた。慌ててヒルドラコの背中に油を塗り込んだ雨避けの革を被せようとする。
「あ、バカ!あぶねえ!」
「えーー」
ヒルグラムさんが叫んだのに気づいたときには遅かった。僕がヒルドラコの背中にかけた革の先につけてあった金具が揺れて、ヒルドラコの顔にぶつかった。いや、もっと悪い。よりにも寄って思い切り目にぶつかってしまった。
ギャオァァァァ!!
思わず耳を庇うほどの鳴き声を上げたヒルドラコは身を捩りながら地面を踏み荒らし暴れる。地面に叩きつけられ、荷物と一緒に放り出されたのに気づいたときにはヒルドラコは木々を踏み倒しながら森の奥に走っていってしまっていた。
「おい、大丈夫か!?」
「す、すいません!すいませんーー!!」
慌てて頭を下げた。もう頭の中が真っ白だった。こんなことになったのに自分を心配してくれる彼の優しさ、自分の情けなさ、申し訳なさ、浮かぶものが多すぎて頭が追いつかなかった。
「ぼ、ぼく、追います!連れ戻します!」
「あ、おい待て!」
彼の言葉も聞かずに走った。それしかなかった。だってこのままにしておけない。とにかくヒルドラコを連れ戻して、なんとかもとに戻さなきゃ。それしか考えられなかった。
幸いにヒルドラコの進んだ道は木が折れているせいで迷わなかった。まっすぐその後を追って、それでも人に比べたらヒルドラコの足は早いから追いつけるとも思えなかったけれど、どうにか追いついた。
「そん、なーー!!」
でも、追いついた先でみた景色は絶望的だった。ヒルドラコは雨で緩んだ地面に足を取られて、崖から滑り落ちていたのだ。首から繋がった手綱が木に引っかかったおかげで下の川まで落ちきらずに済んでいるが、それも時間の問題に見えた。
とっさに手綱を掴んで引き上げようとしたけれど、自分の何倍もある重さのヒルドラコが持ち上がるわけもなく。どころか手綱のかかっていた木がメキメキと音を立てて倒れ始めていた。木が折れてしまえば支えることすら出来なくなる。状況はまさに、絶望的だった。
*
(なんで、なんでこうなんだ、いっつも僕はーー!)
声を出す余裕もないまま胸の中で自分を呪った。じりじりと手綱は崖下に引っ張られてゆく。ミシミシと木が軋む音が聞こえる。川から聞こえる轟音に混じってヒルドラコの弱々しい鳴き声が聞こえた。
(何か考えろ、何か、何か……!)
だがそんな余裕なんてなく。バキ、と絶望的な音が響いた。
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