第8話

『ガキ』


 クソガキ、悪ガキ、ガキんちょ。

 でも先生の口から聞いたその言葉はそれらとは全然違う意味に聞こえた。先生は僕の肩に手を回し、僕は一緒に校舎に向かって歩いた。

 僕らは先生と同じ目線で同じ時間を一緒に過ごした。ギターが弾ける先生とみんなでクラスの歌を作った。映画を撮ろうとみんなで台本を書き、いつもはあんまりクラスでは目立たない子を主役や重要な役にみんなで選んだ。全然勉強なんかも出来ないよっちんが台本を一生懸命覚えて主役の探偵役をした。

「犯人は佐藤だ!」

 犯人役を優等生の女の子だった佐藤さんが演じた。「消えた金魚」。

「まず佐藤は水をがぶがぶ飲んでいた。そんなに暑いわけでもないのに。いつもは持っていない大きな水筒を君は何故今日持っているんだ。その水筒の中身を今ここでこのコップに注いでみるかい?」

 このセリフを何度も何度も間違えながら棒読みにならないように一生懸命唱えるよっちん。いつもはクラスの中心になる子達は僕を含め、「えーーー!」とだけ叫んだ。

「俺の頭に黒板消しを落とすことが出来たら一週間宿題なしにするな。チャンスは今日一日だけな。よーし、スタート!」

 先生は朝の会でそう宣言して教室を後にした。みんなで相談した。

「一週間宿題なしやぞ!今日は六時間目までやし、給食時間は無理やろ?チャンスは六回か」

 そんなことを話していると一時間目が始まる前に早々と教室のドアを開ける先生。

「ん?どうした?チャンスは今日一日だけやぞ」

 二時間目。漫画みたいに教室のドアに黒板消しを挟んで先生を待つ。ドアを開けて先生が教室に入ってくるタイミングで漫画の様に黒板消しが落ちる。それを普通に教科書だけを頭上に掲げ、落ちてくる黒板消しから頭を防御する先生。いつも教室に入ってくる動作と違うのは教科書を持った左手を上げただけ。顔を上げず、僕らを見ているのが余裕に満ち溢れている。

「ん?随分と古典的やなあ。こんなんではまだまだ」

 授業なんかそっちのけでみんながどうやって先生の頭に黒板消しを当てるかを考える。

「黒板消しに紐をつけて、手動で落ちるようにしてみたらどう?」

「それすごい!絶対分からんわ!」

「ドアに挟まんから見えんもんな!絶対いけるでそれ!」

「タイミングとかあるし。試しに何回かやってみようで」

「紐は誰か持ってる?」

「家庭科の糸でええやん。ドアの上に画鋲刺してそれでやってみよ」

 僕らは何回かその方法をシミュレーションして、実際にやってみた。完璧だった。誰もが一週間宿題なしを確信したと思う。そして三時間目。教室の廊下側の硝子は曇っているからぼんやりとした人影しか見えない。先生らしき人影がいつも通りいつものスピードで歩いて来る。みんなは僕も含め声を必死で押し殺す。大役を任されたドアに一番近い教室の一番前列の右端の男の子。予行練習はバッチリした。先生がドアを開けて教室に入ってくる瞬間に手に握った黒板消しに繋げた糸を離せばいい。教室のドアの前に到着する先生。さあ、後は一、二秒後には一週間宿題なしだ。誰もがそう思った瞬間、先生らしき人影はドアを開けずに数秒その場で立ち止まり、そのままドアを開けずにUターンしてしまった。逆の方向に戻っていく先生の人影。クラス中に広がる「何故?」の雰囲気。

「忘れもんでもしたんちゃう」

 誰かがそう言った瞬間、先生は教室の後ろのドアから入ってきた。

「そんなん反則やん!ずるいわ!」

 みんなが一斉に言った。

「ずるい?何を言ってんや。お前ら雰囲気でバレバレなんよ。別に俺はヘルメット被ってる訳じゃないぞ。もうちょっと考えろー。チャンスはどんどん減ってるぞー」

 さらにみんなで考える。授業なんかもう関係ない。そして四時間目。

「おい!俺のアイデアすごいぞ!」

「なになに?どんなん?」

「次の授業は『道徳』やん。最初の十五分はテレビ見るやん?」

「うん、見るなあ。ほんで?」

「カワセンってそん時いつも机に座ってるやん。テレビの下の」

「うん」

「しゅんが男子の中で一番小さいし、身軽やん?」

「うん」

 クラスの中で一番背が低く、運動神経のいいしゅんが真剣な表情で話を聞く。みんなも真剣に聞く。

「しゅんがテレビの裏にのぼって隠れとくんや。そんでカワセンが席に座ったらしゅん、思い切り黒板消しを頭に投げろ」

「それすごい!絶対いけるでそれ!しゅん、ちょっとテレビの裏に隠れてみ」

 するすると教室の左上、先生専用の机の真上よりちょっと後ろに天井から吊り下げられた棚に取り付けられたテレビの後ろの狭そうな空間に隠れる。

「うおっ!マジで全く見えへん!これ絶対いけるで!しゅん、そっから下見える?黒板消し投げれる?」

「全然よゆー」

「おし!お前、そのままそこに隠れとけ。黒板消し今渡すから。ちょい待って」

 そして黒板消しにこれでもかというぐらいチョークの粉を擦り付ける。真っ白になった黒板消しを椅子の上に乗り、テレビの裏に隠れたしゅんに手渡し、先生を待つ。そして先生は教室に入ってきた。前のドアから。僕らは必死に普通を装う。

「お?どうしたどうした?ギブアップか?」

 そう言いながら机に座った先生の頭目掛けてしゅんは手だけをテレビの横から出してフワッと黒板消しを落とした。


 パフッ。


 先生の頭に黒板消しは直撃し、白い粉が舞った。二秒ほど先生はそのまま固まった。僕らも固まった。そして先生は思い切り笑い始めた。同時に僕らも思い切り笑った。その日から一週間僕らの宿題はなくなった。黒板消しを見事に先生の頭に落としたしゅんとそのアイデアを出したこーちゃんはヒーローになった。

 ある日の社会の授業で先生が珍しく自分のことを先生と言った。

「今日の授業で『えた・ひにん』の言葉を教科書に載っているから先生は口にしました。でも先生はこの言葉が大嫌いです。この言葉は覚えなくていいです。今後、二度と君たちはこの言葉を口にしないでください。みんなの中でこの言葉を今後使った人がいたら先生はその人を一生許しません。この言葉は人を差別するものすごく悪い、絶対に使ってはいけない言葉なんです」

 先生の家に泊まることも何回かあった。先生は麻雀を僕らに教えてくれた。しかも千点十円で賭け麻雀。先生は容赦なく勝ったらみんなから金を取ったし、決まってそのお金でこう言った。

「この金でオモテに自販機あるから好きなジュースみんなの分買ってこい。俺はコーヒーといつもの煙草な」

 こーちゃんの国士無双に先生は振り込んだ。

「お前、マジかあ!俺の給料が吹っ飛ぶやんか。今月どうやって生活したらええんや」

 三百二十円の国士無双。

 父兄参観日に親子で混じってドッジボールをする機会があった。僕らは真剣に思い切り大人相手にボールを投げた。誰かが思い切り投げたボールが誰かのお母さんに当たった。そのおばさんは言った。

「なによもー。何考えてんの?どこの子?服が汚れたじゃないの。六年生にもなってそういうことも想像出来ないの?」

 かなりヒステリックな言い方だった。先生はその瞬間、すぐにそのおばさんの手を捕まえて言った。

「今の言葉を僕は許せません。ボールを投げたあの子に謝ってください」

 この時は学校の偉い人まで巻き込んで大問題になった。それでも先生は最後まで僕らの味方だった。そのおばさんの子供もボールを投げた子の味方だった。僕は、僕らは『ガキ』のままでいたかった。

 僕は将来の夢にこう書いた。


「大人になりたくない」と。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る