第7話

 六年生の時、体育大学から先生になった担任の先生はバク転が得意で、みんなが先生にバク転を教えてとお願いして。安全なマットの上で先生の補助付きで最初は始めて。コツをつかんだ友達とかは段々と安全なマットの上での先生の補助付きから前転とかする薄い体育マットの上で補助付きになって、最後は固い普通の体育館の床の上で補助なしでやるようになって。それを見ていた他の先生(歳も僕から見ても絶対年上であろう先生たち)が「危ないし、何かあったらどうするの?責任はとれるの?」と担任の先生に言っても「責任ですか?もちろんとりますよ」と自信満々で答えていた。ドッジボールでも六年生相手に本気で投げる先生。「勝負だ!」。先生の投げるものすごいボールを捕ればヒーローだった。最初に先生のボールを受け止めたのはガマ君だった。みんなで「ガマ君すげえ!」と喜んだし、先生の投げるボールを子供である僕らだって捕れるんだと自信にもなった。

「勝負だ!」

 僕も何度も挑んだ。そしてそれを捕ることが出来た。みんなが喜んでくれた。

「そんなに本気で投げて顔に当たって鼻血が出たりしたら責任とれるんですか?」

 先生はそんな言葉を軽く笑い飛ばした。

 昔から給食の人参が食べられずにずっと昼休みも五時間目も六時間目も学校が終わっても机の前に残った人参を食べるまで帰らせてもらえない友達がいた。

 先生は言った。

「なんでお前らはそいつを助けてやらんのや。人には好き嫌いがあるのは当たり前やろが。人参がケーキやったらお前らどうする?」

 僕らはその通りだと思った。

「それ俺が食うからはよ給食食べてドッジボールやろうで」

 授業中におしっこを漏らした子がいた。「トイレに行っていいですか」とみんなの前で言えるタイプではない子だった。異変に気付いた奴が叫んだ。

「こいつしっこ漏らしとる!」

 みんながざわついていろいろと言った。先生は怒鳴った。

「笑うな!」

 教室は静まり返った。それから先生は言った。

「お前らん中で寝小便したことない奴はおるんか!?自分に置き換えて考えてみろ!想像しろ!」

 みんなが黙り込んだ。騒いでいた僕も自分が悪いことをしたとハッキリと思った。

「みんなで考えろ。答えが出るまで授業なんかせん。この時間だけじゃない。今日だろうと明日だろうと一週間だろうとクラス全員で答えが出せるまで一切授業なんかせんからな。こんなことが分からないようなら勉強なんかせんでええ」

 多分みんなの心の中では勉強しなくていい、算数の問題を考えたり、歴史を覚えたりしなくていい。好きではない教科書を開かなくていい。そんな夢のようなことが気まずい気持ちになったと思う。少なくとも僕はそう思った。そしてみんなも僕と同じように思ったと思う。結局、お漏らしをした子は泣いていたけれど、誰かが先頭になってゆっくりと提案をして、それにみんながゆっくりと続いて、泣いている子を慰める子、自分の体操服のズボンを濡れた制服の代わりに使ったらいいと差し出す子、ぞうきんとバケツを持ってきて床や椅子を拭く子、全員がその子の為に動いた。お漏らしをした子はトイレで体操服に着替え、濡れた洋服は洗ってからよく絞り、教室のベランダに干した。結局その時間の最後には普通に授業を僕らは受けていた。それからは誰かが教室でゲロを履いてもみんなでぞうきんを持ち寄りみんなでそれらを片付けた。誰に言われるでもなく。それが普通だとみんなが思うようになった。

 先生は僕よりもずっと大人の人なのに他の大人の先生とは全然違った。大人だけど友達みたいで、時に親みたいで、兄のような存在でもあり、先生が怒るとそれは悪いことだと思ったし、先生が笑うとみんなも笑った。先生は僕らの特別だった。

 僕は一度、先生を怒らせたことがあった。生まれつき肌がカサカサの女の子が同じクラスにいた。ある日、その子が僕のことが好きだということがクラス中に広まった。それでもその女の子はそれを否定しなかった。クラスのみんなが僕とその子が対峙するような状況にした。ただ恥ずかしそうに僕の前で俯いたままのその子に僕は「女子は好きじゃないし、気持ち悪い」と言った。本当はずっと昔から性に目覚めていたし、異性に興味を持っていた。女子に好かれたいとおしゃれとかじゃないけれど、寝ぐせとか水でちゃんと直してから学校に行っていた。

「俺は今からお前を殴る。教育者として生徒を殴るのは最低なことだと思ってる。それでも俺はお前を許せない。俺は最低になってでもお前を殴る。みんな俺の最低な姿をよく見とけ」

 怒鳴るとかじゃなく冷静な口調だった。僕の頬を先生の掌が大きな音を立てながら弾いた。そして先生は言った。

「お前の今受けた痛みはすぐに忘れる。お前の言葉と行動は俺のビンタなんか比べ物にならないぐらい人を傷付けた。だから俺はお前を許せない。俺は最低になった。痛みの意味を自分一人でよく考えろ」

 僕はその日、寝るまで先生の言葉の意味をずっと考えた。僕は本当の意味で初めて人に怒られた。親に怒られたのとは全然違う。まるで自分が犯罪者になったような気持ちになった。僕は翌朝、いつもより早く学校に行き、先生たちが車を止めるところで先生を待った。先生を待つ時間がすごく長く感じた。緊張もしていた。でもそれをしないと僕はいけないと強く思ったから一人でそこに立ち、先生を待った。先生が車で学校に来た。車から出てくる先生のもとに駆け寄り僕は恐怖とか自分が犯した過ちを懺悔したい気持ちとか先生に許されたい気持ちとかで精一杯泣きそうなのを我慢して先生に自分がいかにひどいことをしたかを認め、理解し、反省していることを一生懸命に、先生に伝わるようにゆっくりだけど、心に思ったことをそのまま口にした。そして僕の言葉を最後まで聞いた先生が言った。

「えーじもちゃんと謝らなあかんけど、俺もえーじに謝らんとあかんな。昨日の俺は最低なことをえーじにした。俺もいつまでも『ガキ』やからな」

 僕はその言葉をたびたび耳にしたことがあった。

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