第4話

 僕はいつもの場所を目指して歩いた。

 いつもの場所。それは西中の野球部の部室だ。

 部室の前に到着する。ドア越しに騒がしい声がたくさん聞こえる。部室のドアを開ける。すぐに煙草の煙とそれ独特の匂いが僕の目と嗅覚を刺激した。

「おー、えーじ。久しぶり」

「お前、よー来んなあ。付属って練習せんの?」

 練習用の白の使い古された、マジックで自分の名前を下手糞な字でそれぞれ書いたボロボロのユニフォームを着たまま、それぞれが麻雀をやっていたり、エロ本を見たり、手にしたグローブに軟式のボールを何度も投げるのを繰り返していたり。共通しているのはみんな煙草を吸っていることである。

「ん、練習はあるけど…。みんな遊びでやってるから出てもあんま意味ないし」

 西中の野球部はもう三年生が引退したから僕と同じ二年生か一年の部員しかいない。そして二年生の奴らの顔も名前も僕は昔から知っている。僕がスポ少で野球をやっていたのはお城の西にある城西小学校のチームであり、僕が住んでいた町にはお城の周りにそれぞれ他に城乾小学校、今津小学校、城北小学校、郡家小学校とあり、その全ての学校にスポ少の野球チームがそれぞれあった。スポ少で野球をやっているとお互い学校は違っても大会の度に毎回顔を合わせるわけであり、僕は自然とそいつらと顔見知りになり、大会で会うとなんとなく話をするようになり、試合をすると嫌でも「あいつの守備はめちゃくちゃ上手いなあ」とか「あいつを抑えるには右方向はいいからセカンドも左側に動いて三遊間を三人で守った方がいい」とか覚えることになり。それは逆の立場でもあったみたいで。「としくにとまともに勝負するのはバカ」だとか「けんじのところに打てば確実にアウトになる」だとか。情けない話だけど僕の所属してた城西スポーツ少年団は僕が六年生になっても他の四チームからは「としくにとけんじ」のチームと思われているところがあった。それでも三番はたっこが、四番はおのきが打って、一番がけんじ、二番が僕、五番はとしくに、六番りゅうじ、七番さかもっちの打順は不動であって、トヨは最後までフライが捕れなかったから補欠だった。トヨがフライを捕れないのは理由がハッキリとあって。それはトヨがフライを捕る時に必ずグローブを上に思い切り押し出す癖があったからであり、分かりやすく言うとバレーで言うところのトスを上げるような感じでグローブを出す癖があって、それが最後まで治らなかったからだ。

「えーじ、お前も吸うか?」

 池尻が僕に言った。缶ビールを片手に読みかけのジャンプから顔を上げ、僕を見ながら。

「えーじはそう言うのはあんまり苦手なんやから。なあ、えーじ。アホの言うことはほっといてええから」

 野球部の部室にいたはっさんが気を使ってそう言った。はっさんは野球部ではない。

「はっさん、アホはないやろ。アホは」

「だってアホやん。えーじとナリ以外アホやろ」

 ナリは城乾でスポ少に入っていて、そのまま西中に進学した。学校の成績はすごくいいし、頭もよかったし、付属中学に受験しても余裕で合格出来るレベルの成績を小学校の時から残していたと聞いている。以前、僕はナリに「なんで付属に行ったん」と聞かれたことがあった。僕は普通に「定期で毎日電車に乗れるから」と答え、「お前アホやなあ」と言われたことがあった。

「池尻ぃ、ジャンプ読み終わったら次俺に貸して。付属ってどんな勉強してんの?」

 部室の奥の方でパイプ椅子に座って膝を組んで、スパイクを歯ブラシで磨きながらナリが言った。

「みんな塾とか行ってるし、あんま変わらんと思う」

 僕は部室のドアを閉めながら答えた。

「ちょい煙いから開けたままでええで。えーじ」

 平井にそう言われたので僕はドアを閉めるのを途中で止め、ドアを全開にした。

「ちょい寒いから全開でなく、ちょい開きでええわ」

 池田が言った。僕はドアをちょい開きに調整して、部室の空いているスペースの壁にもたれかかった。

「どしたん。元気ないやん。俺とキャッチボールするか?」

 りゅうじに言われた。

「今日、グローブ持ってないわ」

「そんなん俺の貸してやるわ。俺、左やから左のしか持ってないけど出来るやろ?」

 麻雀をしながら僕には顔を向けずに手持ちの牌を見ながら岩本が言った。

「ええの?」

「ええで。ロッカーに入っとるから。ナリ、俺のロッカー、えーじに教えたって」

「おー、としくに。お前が一番近い。いわもっちゃんのグローブとって」

 ナリがスパイクを磨く手を止めずに言った。

「なんで俺やねん。めんどくせ」

 そう言いながらとしくにが岩本のロッカーから左用のグローブを取り出し、僕に向かって下投げで放り投げた。僕はそれを両手でキャッチした。

「おい、俺様のグローブやぞ。もっと丁寧に投げろや」

「あ?丁寧に投げたよ」

「お前、上級生には敬語使えよ」

「あ?つこてるやん」

 岩本はすごいヤンキーだ。それなのにめちゃくちゃ野球が上手い。

「まあまあ、いわもっち。こいつ昔からこうやから。勘弁したって」

「橋野君ありがとう」

 としくにがはっさんを君付けで呼んでいた。部室の中で僕が知らない奴は中学から野球を始めた奴か、もしくは一年でスポ少時代に印象の薄かった他のチームの奴だ。残りの奴は全て僕にとって気の置ける友達だった。小学校の頃は小さい町だったので公民館や駄菓子屋や町の本屋さんとかで違う学校の奴らに遭遇することもよくあったし、くだらない理由でケンカになるということもよくあった。それでもスポ少で野球をやっていて大会で顔を合わせ、試合やその間の会話を通して知り合った他の学校のスポ少で野球をやっている奴がいればケンカにはならなかった。町の大会でもいつも僕のチーム(と言ってもとしくにとけんじのずば抜けた力があったから)と城乾が決勝で戦って、僕のチームは城乾には勝てなくて。城乾にはキャプテンのナリと平井と池尻と池田がいてめちゃくちゃ野球が上手かった。特に池尻はとしくに以外でただ一人柵越えのホームランを打つ選手で、平井も打てるショートであり、平井のところに打つと足の速いけんじだろうと僕だろうと必ずアウトになった。僕は多分今でもその記録は破られていないと思うのだけれど、四打数四安打全部セーフティバントを決めたことがあった。けんじはセーフティバントなどしなかった。けんじの打球はほとんどライナーか速いゴロになるから。けんじと僕が塁に出たら必ず盗塁で三塁、もしくは二、三塁を作った。あとはたっこ、おのき、としくにが打って二人を帰す。他の今津や城北や郡家にもそれぞれごついプレイヤーが何人かいた。岩本も城北ではすごい球を投げるエースだったけれど六年生は彼だけだったのでチームとしてはそんなに強くはなかった。今津には瀬戸と秦がいて最後の大会は今津が優勝した。郡家にもそれなりの選手が何人かいて。極めつけは最後の大会の後、僕らは全チームの六年生で集まり「オールスターチーム」を結成し、山口県の下関の大会に泊りがけで参加した。小学校では修学旅行なんてまだ経験することはなかったし、たまに友達の家や学校に泊まることもそれは普段の日常の延長の特別であり、なんとなくの友達だった僕らは電車に乗って遠いところに行き、泊まった民宿では大浴場でお互いの性器を見せ合い、大部屋にみんなで布団を敷いて「明日は試合だから早く寝ろ」と大人の人に言われてもそれは無理な話であり。みんなで寝転んで顔を寄せ合ってくだらない話を延々と話し続け、誰かが「そろそろ寝ないと明日は大事な試合だから」と言うと、岩本が「じゃあ寝る前にバク転しよ」と言ってその場でバク転をし、それからまたくだらない話を延々と続けて。岩本はその夜、十回以上バク転をした。翌日はトリプルヘッダーで試合が組まれ。僕は、いつもけんじと組んでいた三遊間を平井と組んで。いつもは敵同士で戦っていたメンバーが同じチームでプレーすることはとても頼もしく感じた。サウスポーの岩本がマウンドに立つ。それをたっこがうける。城西ではファーストを守っていたおのきは外野に回り、ファーストには池尻が入った。それは不思議な感覚でもあり、誰かがエラーをしてもマウンドの岩本は「ドンマイドンマイ」と常に声をかけて、三試合でトヨも先発で外野を守り。僕らの「オールスターチーム」は三試合で強豪ばかりを相手に二試合勝利した。

「お前、やるなあ」

 みんながお互いにそう言い合って。僕らは二泊三日の間でなんとなくの友達から仲のいい友達になった。

「またな」

 そう言って僕らはとびっきりの笑顔で別れた。そしてその時の「オールスターチーム」のメンバーの郡家の選手は東中に、僕だけが付属中学に、残りの選手は西中に進学した。その時はまだ誰一人として不良みたいなのではなかった。

「えーじってさあ、ジャンプ土曜日に買ってるってマジ?」

 僕と漢字は違うけれど同じえいじである秦英二、えーくんが言った。

「うん、駅の売店のおばちゃんが内緒で売ってくれる」

「えーなあ。俺も付属行けばよかったわあ」

 池尻が言った。

「お前みたいなアホが入れる訳ないやろが。アホ」

 相変わらず麻雀の牌から目を離さずに岩本が言った。

「せやなあ」

「ジャンプ土曜に読みたかったら持ってこよか?」

「え?マジ?」

「そんなんえーじが気ぃ遣うやろが。えーじもアホの言うことなんか相手すんな。それより時間もないやろ。はよりゅうじとキャッチボールしてこいや」

 この後、西中野球部の練習が始まる。僕はいつもここか、ここにみんながいないと練習しているグラウンドに行く。普通、野球のスパイクの手入れなんて使った後にする。ナリが練習前にそれをしていると言うことは練習後にそれをする余裕がないのだろう。こいつらは西中で野球を続けながらその大半がヤンキーになった。練習前だろうと酒を飲み、部員全員がほぼ煙草を吸う。それでもこいつらの練習する姿を見れば野球に対しては真面目なのが分かる。みんなすごく上手い。トヨもフライを普通に捕るようになっていた。そして西中の野球部には逆らえない暗黙の了解のようなものが西中にはあったと思う。それは岩本や池尻がはっさんと対等に付き合っていたのもあった。あの二人もめちゃくちゃ野球が上手くて、めちゃくちゃケンカが強くて、めちゃくちゃなワルと呼ばれて。それでも付属中学に通っていた僕とも対等に接してくれて。大事なグローブを普通、人には貸したりしない。僕でも分かる。僕の手の中にある岩本のグローブが丁寧に手入れされてあって、ボールを捕るだけなら右利きの僕でも確実に捕球出来るようにしっかりと型がつけられてあって。

「りゅうじ、お前この後練習あるんやろ?グローブ貸して。えーじ、俺とキャッチボールやろで」

 はっさんがそう言って笑顔でりゅうじからグローブを受け取り、小学校の頃と変わらない優しい笑顔で僕に近付いてきた。

「はっさん、ボール」

「あ、そっか」

 そう言ってりゅうじがはっさんに軟式ボールを下投げで軽く放り投げた。

「ほな、りゅうじ。悪いけど借りるな。時間になったら言うてな。すぐそこでやってるから」

「全然ええよ」

「それロン!高めで親ッパネ確定。リーチ、ピンフ、タンヤオ、イーペーコー、ドラドラ。裏ドラは俺がめくる。清算は今日やからな。今日はリャンピンな」

「なんで急に倍になってんねや」

「前にお前が一人でぼろ負けした時、千点五十円にしてやったやろが」

 そんなやり取りを聞きながら僕ははっさんと外に出てキャッチボールを始めた。岩本のグローブは本当に捕りやすい。

「えーじ、お前ほんまに暗いぞ。なんかあったん?」

 すごくいいボールを投げるはっさん。はっさんも「白鳥」でソフトボールをやっていた。

「え?別になんもないよ」

 そう言って平気で嘘をつく僕。

 ものすごいクソガキの集まりと呼ばれる西中で最強と言われるはっさんと付属中学ではいじめられっ子の僕のキャッチボール。

「こういうのを俺が言うのは俺も自分でいいのか悪いのか分からんけど」

 はっさんがボールを僕に投げる。

「うん」

 僕の投げたボールをりゅうじのグローブで捕るはっさん。

「俺が一緒に行ってなんとかしよか?」

 はっさんは、いや、はっさん以外のみんなも僕のそういう事情を薄々と感じ取っていたのだ。やっぱり僕は自分でそういう雰囲気を醸し出していたんだ。僕は何とも言えない気持ちになった。でもそれは僕が選んだ道であり。あと一年ちょっと我慢すれば付属中学を卒業する訳だし、ここではっさんに頼れば僕の今の生活の悩みの大半は解消するかもしれないけれどそれは筋が違う話である訳だし。あとは一番思ったのが本当に僕の中で汚れていないはっさんやみんなが真っ白だとして、僕の通っている付属中学の卑怯な奴にはっさんやみんなが関わるとその真っ白が汚れてしまうということ。

「いや、ほんとに何でもないよ。そういうので暗くなってる訳じゃないよ」

 僕とはっさんはしばらくキャッチボールをし、時間が来て、野球部のみんなが部室から出てきた。りゅうじがグローブを取りに来て、僕は岩本にグローブを返して。

「高校でも続けるんやろ?」

 岩本が僕に聞いてきた。

「当たり前やん。甲子園行くもん」

「だよなあ。でもお前頭ええからなあ。また敵同士になるやろなあ。練習ちゃんとやれよ」

「うん。ちゃんとやるわ」

「ナリは頭ええからえーじと同じ高校に行くかもなあ。ほんだら、またな」

 そう言ってその場から走ろうとした岩本に僕は大きめの声をかけた。少し離れたところで岩本が振り返った。

「あんなあ、俺なあ、教えてもらったバク転、まだ出来へんのや。今度またコツ教えて」

 その言葉を聞いて岩本はニヤリと笑い顔をして僕に背を向け走っていった。

「えーじ。校門まで送って行くわ」

「ええよ」

「ええから。ここもバカが多いから」

 僕とはっさんは西中の校門まで一緒に歩いた。歩いている途中ではっさんが僕に言った。

「あんなあ、俺も相談したいことがあってな」

 西中最強と呼ばれるはっさんが僕に相談したいことって。一体何だろうと僕は思った。

「どしたん?何?」

「ガマ君覚えてる?」

 忘れるわけがない。

「うん。覚えてるよ」

「俺らってな。今はカツアゲとか普通にするんよ。でもな、地元では絶対にせんのな。遠い町に行って粋がってる奴からしかせんのな。上の奴とかタメとか下の奴で地元で真面目な子相手にやってる奴もおるらしいけどな。えーじ、こういう話聞いて引いたりする?」

「別に引いたりせんよ。逆にその方がかっこええと思う」

「そう思う?でもやってることは結局おんなじことやし。でな、昔俺、ガマ君殴ったやん」

「うん。見てた」

「あれ以来俺な、ガマ君と一度も会話してないんな。学校ではたまに会うけどなんか…。分かる?」

「何となくやけど分かる」

「俺はガマ君に対して悪いと思ってるし、あれをなかったことにしたいとか思ったりするんな。あいつ、あれから変わってしもたやん?俺ってあいつの人生を思い切り狂わせてしもたんかなあってな。今更謝っても意味ないやん?」

 はっさんは本当に真っ白だ。

「うん…」

 会話の途中で僕とはっさんは西中の校門に辿り着いた。

「なんかごめんな。相談って言ったけどな。多分誰かに今のことを話したかったんやと思うわ。他の奴にはこういう話ってあんま出来んし」

「うん。なんか…ごめん…」

「なんでお前が謝んのや。聞いてもらうだけで少し楽になったわ。ありがとうな」

「うん」

「また来いよ。またな」

「うん、またね」

 僕は西中を後にした。

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