第3話 

 神崎教授は、穏やかな笑顔で話し始めた。


「えー、どの分野においてもそうですが、研究というものは、古代から現代に至るまで、連綿と受け継がれてきた試行錯誤の歴史です」


 山瀬はあくびを噛み殺しながら、教授の話を聞いていた。


「えー、この講義では、科学の歴史というテーマでお話をするわけですが、実のところ、何を話そうかと悩んでおりました。そんなときですが、ちょうど私の研究室の学生が錬金術をテーマにした漫画を読んでいるのを目撃したんですね。それで私は、ほほう、と思ったわけです。なるほど錬金術か、と。今日の授業では錬金術を軸に語るのも面白いかもしれない。そう思ったわけですね。

 錬金術の成立こそが、自然科学の研究のある意味で転換点と呼べるものであるからです。研究というものが、たんに技術の進歩のためではなく、科学的な思索のために行われるようになった。その転換点です。錬金術の成立が、研究というものの質を変えた、ということです」


 教室は静かだった。聞こえるのは低く響く教授の声だけだ。静かな理由は、学生の大半が眠っているからであった。山瀬の瞼も次第に重くなっていた。


「錬金術というと、西欧的なイメージを持っている人も多いと思いますが、錬金術が最も盛んに行われたのは、アレクサンドリア、ビザンティウム、アラビアなどのオリエント地方です。

 そもそも、錬金術はシュメール、エジプトといった古代文明で行われていた秘儀がもとになっています。その流れを引き継いだアラビアのサラセン帝国が、征服地に実用的な科学技術としての錬金術を広めたことにより、オリエントを中心に非常に広い範囲で、実験を重んじる経験主義的な考え方が広まったのです。これは、自然科学の成立に大きな影響を及ぼしました」


 教授の舌はなめらかだ。なめらかだが、決して早口ではない。のんびりとした、それでいて重量感のある声。だから、ものすごく眠くなる。睡魔に対抗していた山瀬の意識も次第に薄れていく。


「その後、錬金術はアラビアから西欧に伝わります。そして、シルクロードによって、錬金術の思想は、より広い範囲に相互に伝播していきます。西欧から、東の果ては日本まで。例を挙げますと、錬金術における、『寓意と実験とを持って天への道を模索する』という目的意識は、紀元前のインドに見られる思想です。これは、インドからの思想の流入の結果です。また、逆に、西欧のグノーシス主義の思想の影響が、大乗仏教に見られることも、東西交流による、相互に影響を類推させる材料だといえるでしょう。他にも、中国におきましては、仙道・長生術・練丹術・房中術などに錬金術の影が見られます。たとえば、唐の「広異記」にある成弼金という話など、丹砂、つまり水銀から作った仙薬で金を作り出す話であり、錬金術の影響を色濃く受けていることが明らかです。火薬の開発も、錬金術の実験的・実証的な研究の方略がなければあり得なかったのではないでしょうか。ここで重要なのは、シルクロードを介して人間の叡智というものが相互に影響しあっているという事実であります。これは、現代の自然科学の持っている公共的・開放的な側面に迫るもので、ここに秘匿的側面を持ちながらも、知識は共有され、伝達されるという錬金術のアンビバレンツな側面を──」


 耳に入る言葉の意味を山瀬はすでに捉えていなかった。音声が耳に染みこむだけで、もはや教授が何を離しているのか理解できてはいなかった。


 山瀬はいつの間にか眠ってしまっていた。どれほどの時間、意識が飛んでいたのか。数秒か、一分か、それとも十分か。教授はまだ話を続けていた。


「錬金術は様々な物質を取り扱い、様々な工程で変化させていました。その結果、現代化学になくてはならない物質や触媒の発見にも繋がったわけです。各種酸の発見などが良い例です。また、アタノールなどの実験器具をそれぞれの錬金術師が自作していたため、実験器具の発展にも、おおいに意味がありました」


 再び、山瀬の意識は薄れた。自分が何者なのかもよく分からないくらいの意識レベルまで覚醒の段階は落ちていた。教授の声。低い。響いている。山瀬は眠気に抗えず机に突っ伏した。


「私が錬金術というものを初めて知ったのは、ゲーテの『ファウスト』でした。あれは中学生の頃でしたか」


 ふいに教授は言葉を切った。眠っている山瀬の方を見る。教授は大きく咳払いをした。何人かの生徒が顔を上げた。しかし山瀬は起きない。


「えー、ところでですねぇ。ファウストは、ドイツ語でゲンコツという意味があるんですね。英語のフィストですね。……なぜこんなことをいいだしたのかといいますと、寝ている人には、ゲンコツをくらわすぞ、とそういう意味で言ってみたわけですね。もちろんジョークですが」


 教授は、山瀬の方を見ていた。


「そこの彼女。本当に気持ちよさそうに寝ていますね」


 あくまでにこやかに神崎教授は言い放つ。山瀬の隣に座っていた女子生徒が、山瀬の横腹をつついた。ようやく山瀬は我に返った。足が机に当たって大きな音を立てる。顔を上げた山瀬は神崎教授と目が合った。教授は微笑んだ。山瀬もなんとなく笑い返した。


「ええと、君は四年生の山瀬さん、でしたね?」


 神崎教授がやさしげな口調で言った。


「はい」


 教授は、記憶した、とでも言うようにゆっくりと目を閉じ頷いた。


「よく眠っていたようですね」


「……すいません」山瀬の声のトーンが落ちる。


「謝ることではないですよ。私が皆さんに提供しているのは学びの場です。それをどのように使うかはあなたたち学生の自由です。ただし、単位という学びを修めた証を得るためには、評価というものがついてまわります。そのことは覚えておいてほしいのです」


「はい」消え入りそうな声で山瀬が答える。


「私の話をどれくらい聞いていましたか?」


 山瀬は答えられなかった。全く聞いていなかったとは言えない。


 神崎教授は溜息をついた。そして、しばらく黙っていたが、何か思いついたとでもいうように軽く頷くとにっこりと笑みを浮かべた。


「山瀬さん、ゲーテのファウストには錬金術の記述があります。その中に『ホムンクルス』というものが出てきます。知っていますか?」


「え? あ、はい?」山瀬は気の抜けた返事をする。突然の話題に頭がついていかない。教授が何を言いたのかさっぱりわからなかった。


「……いえ、あの、詳しくは知りません」


 神崎教授は「ふむ」と顎を撫でた。


「ホムンクルスとは、現代英語では『人体模型』という意味ですが、ファウストで語られるホムンクルスは……そうですねぇ、簡単に言えば『人造人間』のことです」


「人造人間?」


「ホムンクルスの作成については、パラケルススという錬金術師が製造手順を残しているという文献があります。まず、人間の精液をハーブなどの数種の材料と混ぜ合わせ、蒸留器の中に入れて密閉する。馬の腹の温度に保ち、四十日間保温する。すると、人の形をした物体ができる。これに再び四十日間、人間の生き血を与え続けると成体になる。これで完成なのだそうです。しかし、蒸留器から出すと死んでしまうし、生き血を与えないと死んでしまうという」


「……そのホムンクルスってずいぶんとデリケートなんですね」


 山瀬の言葉に教授は頷いた。


「そうですね。非常にデリケートです。では、ここで山瀬さんにひとつ問題をだしましょう」


 教授は少し間をとった。


「パラケルススが作成したというホムンクルスは、なぜ蒸留器から出したり、生き血を与えなかったりすると死んでしまうのか。わかりますか?」


 山瀬は焦った。いきなりそんな訳の分からないことを聞かれて答えられるわけがない。困っている山瀬に神崎教授は優し気な視線を向けて微笑んだ。


「では、答えは次の授業までに考えておいてください。私が満足する回答ができたら、今日、山瀬さんが授業中に寝ていたことは不問にします。この授業が科学の歴史であることを鑑みて、科学的な視点から答えを導き出してみてください。……おっと、そろそろ時間ですね。本日の授業はここまでとします。次回は、聖書と哲学の融和が科学に与えた影響について話をしたいと思います」


 学生たちが続々と教室を出て行くなか、山瀬だけがいまだ夢の中にでもいるような表情で座っていた。


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