第7話 違和感の、その先

 ────意識が覚醒してくる。全身を包み込む柔らかい感触に浮上してきた意識が微睡みかけるが、気力を振り絞って瞳を開ける。寝坊助のソフィーには、こうして起きるのも一苦労なのだ。


「んぁ……」


 かなり熟睡していたらしい。鈍い体を動かしもそもそと起き上がる。置かれた状況を理解するよりも早く、ソフィーに声が掛かってきた。


「あら、目が覚めましたか」


「!?」


 不意に響いてきた声に驚き振り向くと、一人の女性がこちらに向かって微笑んでいた。

 お下げに垂らした栗色の髪にくりくりとした黒色の瞳。クリーム色のワンピースを着た長身の彼女は、清楚な雰囲気を醸し出していた。

 透き通るような声音で彼女は語りかけてくる。


「お元気そうで何よりです。ほら、紅茶を作りましたので体を温めなさいな」


「ありがとう……ございます」


 寝起きで混乱する頭のまま、ソフィーは彼女から紅茶が入ったカップを受け取る。随分と香りがよく、嗅いでいるだけで落ち着けそうだ。

 ちびちびと飲んで体を温めつつ、ソフィーは意識を失う直前の記憶を思い出す。


「……あの、もしかして崖から落ちたわたしを助けたのはあなたですか?」


「はい。一直線に崖に向かって走っていくものですから、慌てて声をお掛けしたんですけども止まらずに落ちてしまって。何とか間に合ったものの、もし一歩遅ければ……」


「あはは、ご迷惑をお掛けして申し訳ありません」


 女性の言葉にソフィーは苦笑して返す。まさしく迷惑を掛けていて何も言い返せない。そんなソフィーの反応に女性は目を見開いて「いえいえ」と手を振る。


「ご自身を責めなくても良いのですよ。あれだけ慌てて走っていたということは、きっと良からぬことがあったのでしょう。私で良ければ手助けしましょうか?」


「えっ、いいんですか!?」


 なんと命を拾っただけでなく、人探しまで手伝ってくれるというのか。どこまで慈悲深い人物であろうか。

 ははーっ、と頭を垂れそうになるほどの感謝を述べてソフィーは名乗りを上げる。


「あのっ、わたしソフィーっていいます! ソフィー・アルバートです!」


「よろしくお願いしますね、ソフィーさん。私はエルシー。エルシー・シンプソンです。して、何があったのでしょうか」


「妹と一緒に中央国を目指してここを歩いていたんですけども、霧に入ったらはぐれてしまって」


「ああ、そういうことでしたか。実は私、貴女と同じ髪色の女の子を見つけまして。すぐ近くで保護していますのでそこまで案内しますよ」


「本当ですか! ありがとうございます!」


 エルシーは根がお人好しらしい。ソフィーを救出しただけでなくルーシーまで保護していたようだ。無事旅は再開できるだろう。

 エルシーとテントの外を出て、ルーシーがいるという巨木を目指して歩いていく。道すがら、エルシーから質問を受けた。


「そういえば、何故貴女たちだけで旅をしているのですか?」


「実はわたし、新しい勇者に選ばれまして。任命式を受けるために中央国へ向かっている途中だったんです」


 そういえばこんな説明を旅人にもしたな、とソフィーは思い出して笑ってしまう。


 ────ん? わたし、今何を考えた?


 自然に蘇ってきた記憶。ソフィーは思わず引っかかりを覚えてしまう。

 あの出来事は夢だと何回も言い聞かせたはず。しかし、本当に夢なら旅人は存在しなかったことになる。だが、あの時交わした会話が、あの時貰った魚が、どうしても偽物だったと思えない。

 

 ────そうだ、ママの手記。


 そこでソフィーはクラリスの手記を思い出す。

 もし本当に夢なら、あの時貰った『シャーモン』なる魚が手記に記述されていないはずだ。無意識に得た知識で夢は構成されるというが、ソフィーはあの魚の名前も外見も見たことなく、などという珍しい習性も間違いなく初耳であった。

 本当にあれは夢だったのだろうか。


「……い、ソフィーさん!」


「うわ!?」


 肩を揺さぶられて思考を振りほどかれ、ソフィーはようやく我に返る。

 思考から生じた違和感。それに夢中になっていたソフィーは、エルシーからの呼びかけに気付いていなかった。


「どうかされましたか?」


「あ、いえ、お気になさらず……」


「……そうですか。あと半分ほどです。気を確かに」


「……はい」


 エルシーは訝しむような視線を向けていたが、然程気にしていなかったのか表情を戻し先頭を歩く。


「それにしても、貴女が勇者ですか……なるほど……」


「エルシーさん?」


「いえ、こちらの話です。所でもう一つ。中央国を目指すというなら何故こちらの方を通っているのです? もう片側は直通の道でしょう?」


「ええと、その……にわかには信じてもらえないでしょうけど……」


 夢で片付けた話だ。だがあの運命にもう一度襲われると思ってこの道を選んだのだ。一応の警告を込めて話してもよいだろう。そんな軽い気持ちで、ソフィーは口を開いてしまった。

 ────違和感のその先を、考えておくべきだった。


「この森、黒妖犬ヘルハウンドが出現するんです。もう少し北に現れるはずなんですけど、どうしてかこの森で見かけてしまいまして。危ないからと思って遠回りしてきたんです」


「そうなんですか。それで、見たんですか?」


「…………え?」


 予想外の質問に面食らってしまう。


 ────いつ、いつって言われても。

 あれは、夢だ。夢だからそもそもあの獣は存在していないことになってしまう。だけどわたしは確かに昨日見て、でもわたしが出発したのは今日で、でもそうすると夜にあの獣を見ていないことになって、どう考えても時間が合わなくて。


 あまりにも難しい回答を要求されて思考が覚束なくなる。どう答えようか頭を回転させ、さらに混乱するソフィーの脳にエルシーの声が滑り込んできた。


「実は私、今日の夜中央国に向かおうと思っていたんです」


「え……?」


「その途中に人でも遭遇できれば幸運だなぁと思っていたのですが。言っている意味が分かりますか? いえ、?」


「な、何……何を言って……」


 突然訳の分からないことを問いかけてくるエルシーに恐怖を覚える。さきほどまで親身だった彼女は、今は隣に立つだけで背筋が凍るかのような異様な雰囲気を醸し出している。

 何を言っているのかはまったく分からない。分からないが、何が起きたのかはかろうじて理解した。

 失言をしたのだ。


「さ、着きましたよ。貴女の妹です」


「…………ルーシー!」


 気が付いたら一本の大きな木の元に辿り着いていた。軽く見上げても空まで届くのではないかと見間違うほどに幹は伸びている。確かに『巨木』と呼ぶに相応しいだろう。

 エルシーの言動は腑に落ちなかったが、木に寄りかかっているルーシーの姿が目に入り、先程の恐怖も忘れてルーシーの元へ駆け寄る。


「…………ぁ」


 そして、目にしてしまった。

 



 ルーシーは、血まみれで倒れていた。





「あ、ああ…………」


 足の力が抜け、膝から崩れ落ちてしまう。叫ぼうとした口からは嗚咽が漏れて、伸ばした手は口元に引っ込んでいた。

 

 ルーシーは、全身を赤黒く、対照的に肌は青白く染まっていた。

 ルーシーは、ぴたりと身動きすらせず、呼吸を止めていた。

 ルーシーは、喉が引き千切られ、そこから赤とピンクの細い管のようなものを垂らして、


「うあああああああああああああああああああああああっ!!!!!!!!」


 叫んだ。目を背けた。ただただ体を震わせた。

 なんで、どうして、ルーシーが。あれは、生きていない。死んでいる。助からない、あの傷は塞がらない。何より、あの目は。あの、空虚な目は。

 昨日見た夢が思い起こされる。あの時と同じ、凄惨な光景。、ルーシーが死んだ。


「ねえ、ソフィーさん」


「……え?」


 ルーシーが死んだショックと思い出される夢にソフィーは思考できず、背後から聞こえてきた声とうなじに当てられた冷たい感触が何を意味するのか、まったく理解できなかった。

 直後、爆発したかのような激痛が首から走ってきた。


「いっ、がああああああああああああっ!!!!」


 痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い────!!


 脳内を『痛い』という悲鳴に埋め尽くされる。倒れたソフィーは、全身を暴れさせながら無意識に手を痛みの発信源に向けて伸ばしていた。傷口に触れた途端、さらなる激痛が走り、同時に手に何かが付着する。

 涙に滲む視界に染まった手の色を見て、ソフィーの心は絶望に染まった。


 血だ。血が、溢れている。

 それも一撫でしただけで真っ赤に染まった。今も絶え間なく首から痛みと熱と、ドクドクと脈打つ感覚がある。命が、溢れ落ちていく。

 ────、死ぬ。


「ああ、ソフィーさん! やっぱり、やっぱり知っているんですね!」


「ぐ、ぅあ……」


 この凄惨な状況に似合わない上擦った声。見上げれば、恍惚とした顔でエルシーが、血染めのナイフを握っていた。そこまで視界に入れて、ようやくソフィーは何が起きたのかを悟る。

 切られた。彼女に、首を切られたのだ。


「答え合わせをしましょうか、ソフィーさん。実は私、魔族なんです」


「あ、あぁ…………」


 一体何度、絶望を味わえばいいのだろうか。

 魔族。人間と敵対する種族。外見は人間そっくりだが、上顎の犬歯が牙のように伸びているのが特徴で、何より破壊と殺戮を好む世界で最も危険な種族。そして、勇者の敵。

 しかし、一目見れば分かるはずの特徴が彼女にはなかった。どう見ても彼女の歯並びは人間と全く同じなのだ。


「なん、で……」


「ふふ、もちろん魔族だと見破られないためですよ。牙以外は人間と何一つ変わりませんからね。丁寧に削っておきました」


「そんな」


 ────じゃあ、無理じゃない。そんなの、親切な人柄で接してきたら信用するしかないじゃない。

 どうしようもない絶望に駆られるソフィーを、エルシーは楽しそうに見つめて更に顔を近づけてくる。妖艶な甘い囁きが耳朶を打つ。


「ねえ、ソフィーさん。貴女、私と同じですよね?」


「な、に……どういう、意味…………があああああっ!?」


 腹部から鋭い痛み。エルシーが、ソフィーの腹にナイフを突き刺したのだ。

 そのままぐりぐりとナイフをこねくり回し、内臓がぐちゃぐちゃに引き裂かれる。

 ────痛い、痛い、痛いの、それやめて、死ぬ、死んじゃう!


「怖いですか? まだ慣れてないんですか? 大丈夫ですよ、貴女は平気です。いずれ、慣れます。私と同じになります」


「はぁっ、ああああああっ!?」


「痛くて、苦しくて、失っていって、熱くて、怖くて、消えていって、寂しくて、辛くて、終わっていって、寒くて、忘れて、死んでいく」


 呪詛のようにエルシーの言葉が頭に流れ込んでいく。そうだ、彼女の言う通り、死ぬのは、痛くて苦しくて熱くて怖くて寂しくて辛くて寒くて忘れて失って消えて終わっていく。、あの喪失感がやってくる。

 ……


 不意に、思考に生じた違和感。そうだ、片付けてはいけない。考えなくてはいけない。違和感の、その先を。これは、今起きていることは、あの時起きたことは夢なんかじゃなく────。


 ぐじゅり、と。また痛みが走った。


「あああああああああああああああああああ────!!!!!」


「ああ、いい悲鳴です! ほら、もう死ぬんでしょう? すぐ死ぬんでしょう? 今死ぬんでしょう!? でも大丈夫です、貴女なら、貴女なら!」


 ぐさ、ぐさ、ぐさ、と連続して痛み、衝撃、痛み、衝撃。その絶え間なく続く苦しみと狂喜するエルシーの声にソフィーは思考が吹き飛び、悲鳴を上げ続ける。


「ほらっ、ほらっ、ほらっ!!」


 何度も、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度もエルシーはソフィーの胸に、腹に、額にナイフを刺し、ソフィーの命を奪おうとする。もう悲鳴すら上げられなくなったソフィーは、心のなかで絶叫を続ける。


 痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い死ぬっ、死ぬ死ぬ痛い痛い死ぬ苦しい怖い死ぬ痛痛苦苦苦怖死死死死死死死死んじゃ────。

 ────あ。


「だって、貴女は…………」


「────るぅ」


 ふと、暗くなっていく視界に映った最愛の妹。その亡骸に向かって名前を呼ぼうとして。

 ソフィーの唇が動く前に、頭に大きな衝撃が加わって。



 



「私と、をしているんですから」






 その呟きが聞こえてくると同時に、ソフィーは、死んだ。





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