第6話 目覚めと、霧と、邂逅と
「────ちゃん」
「────」
遠くから声が聞こえてくる。
懐かしくて、愛おしくて、可愛らしい声。
「お───ちゃん」
「────」
声が徐々に鮮明になってくる。同時にぼやけていた意識も回帰し、視界に光が戻ってくる。
「お姉ちゃん!」
「うわあ!?」
唐突にはっきりと耳元で響いてきた声に驚き、ソフィーは飛び退いた。
目の前には頬を膨らませた可愛らしい妹の姿。
「もう! どうしちゃったの急に!」
「え? いや、その……さっき」
「さっき?」
ソフィーの釈然としない言葉にルーシーが首を傾げる。
その可愛らしい姿は妹そのものだ。艶のあるピンクベージュの髪も、澄んだ碧眼も、瑞々しい白い肌も、しっかり両足で立っているのも、昨日と何一つ変わらない元気なルーシーだ。
……生きている。ルーシーが、生きている。
「う……」
「えっ、どうしちゃったのお姉ちゃん!?」
「ルーシーぃぃぃぃぃ!!」
「きゃっ!? お、お姉ちゃん!?」
たまらずソフィーはルーシーに抱き着く。
温かく、柔らかい感触。確かにルーシーがこの腕の中にあって、生きていることを強く実感した。
ならば直前に見た出来事は夢だったのだろう。そうに違いない。
頬ずりしながら横目でルーシーを見ると顔を真っ赤に染めていた。その可愛らしい姿にソフィーは破顔しながらも涙をこぼす。
「お姉ちゃんどうしちゃったの!?」
「いやっ、その、悪い夢を見て……」
「夢? えっ、立ったまま寝てたのお姉ちゃん?」
「ふぇ?」
ルーシーの言葉の意味が分からずソフィーは呆けた声を上げた。
立ったまま寝ていたといっても、昨日はテントを建てて野営したはずだ。その後は見張りをしていたところまで記憶はある。そこまで考えてああそうか、とソフィーは納得した。見張りをしていたからもしかしたら立ったまま寝てた可能性があるかもしれない。
「いやそんなわけあるか!?」
いくらソフィーが寝るのが得意といっても立ち上がったまま一晩過ごすなどありえないだろう。
そもそも寝落ちしたのならどれほど経ったのだろうか。ひょっとしたら寝坊してしまったのかもしれない。不安を覚えながらソフィーは空を見上げて現在時刻を確かめようとする。
太陽が頭上に差し掛かっている。ということは正午だ。
そこまで確かめて不意にソフィーは違和感を覚えた。
「お姉ちゃん、落ち着いた?」
「う、うん。というか状況把握しきれてなくて逆に冷静になったんだけど。わたしが寝ている間にテント片付けちゃった?」
「? 何言ってるの。まだ今朝出発したばかりじゃない」
「…………え?」
ルーシーの言葉に冷水を浴びせられたかのように、背筋が凍る。
サーっと血の気が引いていく感覚。ようやくソフィーは先程感じた違和感の正体に気が付く。これは違和感ではない。既視感だ。
胸騒ぎを覚えながらソフィーは前方の光景を見る。
「────なに、これ……」
そこには。
昨日通ったはずの分かれ道が広がっていた。
「お姉ちゃん、これ……」
袖をギュッと握り、ルーシーが顔を見上げてこちらに視線を投げかけてくる。
そして昨日と寸分変わらぬ声音でルーシーは発したのだ。
「どうしよう」
目眩が、した。
※※※※
……一体全体、どういうことだろうか。
昨日。ソフィーはルーシーと一緒に右の道を進み、道中でテントを建てた。そこで旅人に出会い、魚を貰って夕食を作った。食事後は、ルーシーが先に寝てソフィーが見張りをして────魔物に襲われた。
「うっ……」
思い出すだけで吐き気が込み上げてくる。
あの凄惨な光景は目に焼き付いている。あの肌を焼くような痛みはしっかりと残っている。あの後頭部を噛み砕かれる音は今でも響いてくる。
……あの己の命が『終わる』感覚をはっきりと覚えている。
否、終わったのではない。死んだのだ。
ソフィーが、ソフィー・アルバートという命が、死ぬのを確かに感じたのだ。あの苦痛は、あの喪失感は何事にも代え難い。しかし、意識が戻ったと思ったら昨日通った分かれ道の前に立っていた。理解が出来ない。
こうしてソフィーとルーシーが生きている以上、昨日の出来事は夢であるとしか言いようがないだろう。だが、記憶の整合性が一致していない。夢だとしたら、いつソフィーは寝たのか。さらに混乱を招くのはルーシーの証言だ。ルーシーによれば、ソフィーは意識が戻る直前まで普通に会話をしていたそうだ。たった一瞬気を失っただけであんなに長い夢を見るのだろうか。
考えれば考えるほど混乱が広がる。凄惨な記憶を思い出したのも相まって吐き出しそうだ。
「お姉ちゃん、まだ顔色悪いよ……。ほら、お水」
「ん、ありがとうルーシー」
手渡された水筒を飲んでひとまず気分を落ち着かせる。
考えたところで仕方がない。あの記憶は夢だ。そう頭に言い聞かせ、ソフィーは地図を手に立ち上がる。
地図の中身は、夢の中で見たものと一致していた。右の道に行けば真っ直ぐ中央国へ、左の道へ行けば詳細不明の遺跡に繋がる。地図が示す通り右に向かえば、中央国にすぐに着けるだろう。
だから、ソフィーはゆっくりと指を前に指し────。
「左に行こう、ルーシー」
夢で見た運命とは真逆の道を選んだ。
※※※※
────そしてソフィーたちは現在、遺跡へ向かう道を歩いている。
当然ルーシーからは怪訝な顔をされた。中央国直通の道なら、多くの商人がここを通っているはずだから安全な道ではないのか、と抗議もされた。ルーシーの言い分は真っ当だろう。ただ、どうしてもあの悪夢を思い出してしまい通る気になれなかった。
それに、遺跡の後ろを直進して森を抜ければ中央国へと辿り着く。距離的には右の道と変わらない。たとえ道を見失ったとしても方位磁針を持ってきているし、今は冬眠の時期だから魔物だっていない。きっと、こっちの方が正解なのだ。
────自分に言い聞かせるように理由付けをしていることに、まだソフィーは気が付けなかった。
「…………霧?」
ふと、視界に靄が立ち込めて思わず足を止めてしまう。背後のルーシーも気が付いたのか、ソフィーの腕をぎゅっと握ってきた。
不意にソフィーたちを霧が包み込んでいた。湿気も何も感じていないのに唐突に現れた霧にソフィーは不安を覚える。いつの間にか霧は濃くなり、物陰すら見えないほどに視界を塞ぐようになっていた。
「お姉ちゃん……!」
「ルーシー、手を握って!」
ルーシーの不安げな声。すぐ近くから声が聞こえたことに安堵し、ソフィーは声が聞こえた方に手を伸ばす。温かくて柔らかい手に包み込まれ、確かに彼女の存在を確かめる。
────大丈夫、一人じゃない。
夢の中で感じた孤独が重なり恐怖に飲み込まれそうになるが、かろうじて踏みとどまる。ソフィーはルーシーの姉だ。ルーシーを守らなければ。確固たる意思でルーシーの手を引き、一歩前へ踏み出す。
「お、お姉ちゃん! 戻ろうよ! これ以上は危ないから!」
焦った声で引き止めようとするルーシー。彼女の意見は最もだ。今にも迷子になってしまいそうな状況。詳細不明の目的地。どう考えても引き返した方が良いだろう。しかし、今差し掛かっている驚異がこの霧だけならまだ安全だ。あの夢が、もし正夢だと考えてしまったら、戻る選択肢なんて選べない。選べるはずもなかった。
「……大丈夫、だから。この道で合ってるはずだから」
何とか強い意志で返そうとしたものの、声は震えていた。どんなに意思を固めたところで払拭を払うことは出来なかった。
ソフィーの恐怖が伝わったのか、ルーシーはより疑心が強まった声音で問い返す。
「お姉ちゃん、どうしちゃったの? 昼からずっとおかしいよ? 何を、見たの……?」
「…………そ、それは」
問い詰めるルーシーの言葉にソフィーは言い淀む。
ソフィーとルーシーが死ぬ夢を見たなんて言っても信じてもらえるはずがないだろう。ましてや、ただの夢なら逃げるようにこんな道を選ぶ必要なんてないと言い返されるはずだ。だが、あの光景は、『死』の感触はあまりにも鮮烈でどうしようもないほどに現実味を帯びている。まるであの運命が今からでも起こるように感じてしまうのだ。
ならば一刻も早くここを駆け抜けるべきだ。この森さえ抜ければ安全なのだから。
「……そんなことより、早くここを出よう。霧を抜ければ、中央国に繋がるはずだから」
「お姉ちゃん、待っ────」
静止を促すルーシーの声を無視し、ソフィーは今度こそ前へ踏み出そうとした。
だが霧でろくに足元が見えていなかったのだろう。木の根につまずいてしまい、受け身も取れずに地面に転がる。
「いたた、ごめん、ルーシー」
直前までルーシーの手を握っていた。恐らく、ソフィーに続いて倒れてしまっただろう。背後のルーシーに謝りながら振り返る。
相変わらず霧は濃いままだ。眼前の光景すらろくに見えない状況に改めて戦慄する。
「…………ルーシー?」
いくらなんでも返事が遅いのではないか。いつもなら、声を掛ければすぐ返ってくるはずなのに。
「ルーシー、どうしたの?」
不安が募り、大きな声で呼びかける。されど、十秒待っても声は一向に返ってこない。堪らず血相を変えてソフィーは前へ踏み出し、ルーシーがいたはずの場所に向けて手を伸ばした。
────伸ばされた手は、空を切った。
ソフィーは、再び孤独になった。
「あっ、あぁ……やだっ、やだやだやだ!! ルーシー、返事して!」
思考が弾け、ソフィーは形振り構わず駆け出す。方角も無視してがむしゃらに草木を掻き分けて、妹の名前を叫びながら走る。
「ルーシー! ルーシーっ!! どこなの!? お願い、返事して!!」
叫んでも叫んでも虚しくソフィーの声が木霊するだけ。いよいよ視界が眩み、呼吸が荒くなる。
────嘘だ、嘘だ、嘘だ! だって、今は、現実で……!
取り留めのない思考が徐々に最悪の方向へ流れていく。今は紛れもなく現実だ。夢と違い、ルーシーを失ったら、失ってしまったら。
ルーシーは今度こそ死ぬだろう。
「はぁっ、はぁ……! ルーシー、いるんでしょ!? お願いだから返事し────」
「それ以上は死にますよ」
「っ!?」
不意にどこからか聞こえてきた声。聞き覚えのない声に思わずわたしは足を止める。
同時に、視界が晴れてきた。先程までの霧が嘘のように消え、綺麗な青空が眼前に広がっている。そして足元を見て、思わずソフィーは喉が鳴った。
「ひっ」
谷底。深い深い谷底。
あと一歩踏み出したら落ちるという寸前に、その深淵は広がっていた。
────いったい、何がどうなって。
混乱する思考に、眼前に迫る『死』の気配。その恐怖にわたしは後退ろうとして。
「あ」
足が。
滑った。
直後に感じたのは浮遊感。次に感じたのは肉体の虚脱感。最後に、『終わる』という喪失感。まだ、肉体が終焉を迎える前の『死』の感触が一足先に背筋を撫でて。
落下が、始まった。
「あっ、いやぁぁぁぁぁあああああああ────!!」
痛みはない。熱もない。衝撃も、まだない。
だけど、確実に始まった『死』へのカウントダウンが、ソフィーに最大限の恐怖と絶望と諦観を叩きつけてくる。
反射的に上向いて目に映った空が遠ざかろうとする。その寸前で。
「がぁっ!?」
首に強い衝撃が加わり、落下が止まった。
息も苦しいまま、ソフィーは再び顔を上げる。
「はぁ、はぁ……ひとまず、無事でしたね」
逆光で、その顔は見えなかったが、女性の声が頭上から聞こえた。
伸ばされた腕が、ソフィーの襟を掴んでいる。そこまで視界に入れてもなお、ソフィーは未だ起きた状況を理解することができなかった。できなかったが。
────たすかっ、たの……?
何とか一命を取り留めていることだけは把握して。
その安堵で、意識が事切れてしまった。
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