第5話 死

 クラリスの手記の内容は多岐に渡る。各地の解説や薬草と魔物の図鑑、当時までの歴代勇者の情報や武器と魔法の使用方法まで記載されている。そこまでのボリュームとなると、当然簡易的な生物図鑑まで載っているのだ。『霊智』という称号は伊達ではない。それほどまでにクラリスは探究心に満ちていた人物だったのだろう。

 とクラリスに感心しつつ、ソフィーは手記を開いてこの魚の情報が載っているのか探すことにした。しかし、魚や虫は見た目がほとんど同じな様なものばかりだ。果たしてクラリスでも違いが分かるのだろうか……。


「あ、あった」


「嘘!?」


 薬草の一覧と比べると総数は圧倒的に劣るが、それでも四ページ分に渡って記載されている魚たち。ここまで記述してくれたクラリスの努力に感嘆する。

 しかし、魚はどれも同じような見た目ばかりだ。このイラストと見比べただけじゃ正直合っているか分からない。ではどうやって見つけたのかというと絵の下に書かれた簡易な紹介文だ。その中に、旅人から聞いた『川上り』という単語が書かれていたのだ。その魚の名は、


「シャーモン」


「ぷふっ」


 気の抜けるような語録をした魚の名前にソフィーもルーシーも吹き出してしまう。

 もう少しマシな語呂とかなかったのだろうか。


「どれどれ……川で生まれ、下流を下って海で成長。産卵期になると川上りして上流に帰り卵を産む……すごい生態してるね、この魚」


「淡水魚、海水魚どっちなんだろう……?」


 世の中には驚くような進化を遂げた生物もいるものだ。この魚、ひょっとすると魔物の類ではないのだろうか。魔物の肉は非常に不味く食用には適していないという一説はあるが。


「で、最後に書いてあるのが……。魚肉は赤身で脂が乗っていて非常に美味である。生食及び加熱しての調理を推奨……えっ、生」


「えっ」


 まさかの記述にルーシーと二人して絶句する。生。しかもよりにもよって魚を生。


────ええ……どう捌いても生臭い匂いしかしないよ……申し訳ないけど一瞬ママの正気を疑っちゃったよ……。


 いくら母のおすすめでも生食は勇気がいるので、ソフィーは無難に焼くことにした。捌いたときの生臭さとは一転して香ばしい匂いが立ち込めてくる。ただ夕食が魚一匹だけというのは淋しいし、脂っこいのは消化に悪いので『ペリソ』という葉っぱを巻いてパンに挟み頂く事にした。このペリソは非常に消化によく、味も酸味が強いものの後味に甘味がじわっと溶けていく美味で、栄養価が高いために薬草としても利用されている。まさに万能な植物なのだ。

 出来上がったのでまずは一口。


「「ん~~~~」」


 瞬時に口の中でとろけた脂身に二人して悶える。肉身は薄いながらもしっかりと味は乗っており、そこに焼くことで香ばしくなった脂が味蕾の上で溶けていく。なんとも美味な魚だ。今まで白身魚しか食べたことがないソフィーたちにとっては、かなり衝撃的だ。この魚、もしかすればステーキにしても美味しいのかもしれない。


「ごちそうさまでした。お姉ちゃんありがとう、美味しかったよ」


「えへへ、おそまつさまでした。いやあ、満足した!」


 さて、夕食を済ませたらいよいよ野宿の時間である。空はすっかり真っ暗だ。綺麗なお星様が見える。残念ながら今日の月は完全に欠けているようで拝むことはできなかった。


「…………」


 その月を眺めている内とぼんやりと、アリアのことが思い出される。『月神』のアリアンロッド。一見するとただの女の子のように見える神様。よく分からないまま勇者にさせられた不思議な女神様。

 どうして、ソフィーなのだろうか。ルーシーの方が遥かに勇者として向いているはずだ。こうして一日経った今でも、与えられた加護がどういったものなのか把握すら出来ずにいる。



 あの時、アリアはそう言っていた。すぐ、とは一体いつを指すのか。ルーシーならひょっとして、加護を渡された時から気付くのだろうか。


「はあ……やめだ、やめ」


 ため息をついて頭を振る。すぐ自責するのがソフィーの悪い癖だ。ともかく選ばれたのはソフィーであり、ひとまず中央国へ向かって勇者としての使命を果たさなければならない。しっかりせねば、と頬を両手でぴしゃりと叩く。


「それじゃ、ルーシー。先にわたしが見てるよ」


「うん、無理しないでね。もし何か起きたらすぐに逃げて」


「もちろん。でもルーシーは叩き起こして連れて行くからね」


「ふふっ、ありがとうお姉ちゃん。それじゃ、おやすみなさい」


「おやすみ。また後でね」


 先にルーシーがテントの中に入り、ソフィーは焚き火の前に大木を引っ張ってその上に座る。

 ソフィーが行っているのは見張りだ。現在は冬眠の時期なので見張りをする意味は薄そうなのだが、護身のためである。最初の見張りはルーシーがやると言い張っていたのだが、交代すると朝起きられなくなると伝えると渋々承諾してくれた。次の日に起きれなくて遅刻するような人間がソフィーなのだ。

 今は肌寒い季節、焚き火で温まりながら周囲をキョロキョロと見回す。やはり獣たちは眠っているのだろう、気配は全く感じられない。本当は今すぐルーシーに抱き着いて温まりたいところだが、そうもいかない。


「ルーシーを守るためよ。しっかりしなさいお姉ちゃん!」


 口調を変えソフィーは決意を固める。確固たる意志で前方を見据えた。






※※※※






 ────それからしばらくして。

 暇だ。暇すぎる。何時間経ったのだろうか。風すら吹かず、木々が燃える音しか聞こえない静寂の中、いよいよボーッとし始めてきたソフィーは空を見上げる。

 北方に見える砦の形に連なった星。ダファド村では導きの星だの運命の光だのと、何かと信仰されていた星だ。時刻や方角の指標としてあの星がよく利用されている。

 周囲の星々との位置から把握するに、ソフィーが見張りを始めてから経過した時間は────。


「二時間……!?」


 なんとまだ二時間。ルーシーと交代するまでまだ二時間もある。いよいよ限界に達したソフィーは空を仰ぎ、思わず目を瞑って意識を閉じようとした。

 ────その一瞬の隙が、ソフィーたちの運命を終わらせた。




 フッ、と息を吹きかけたかのように。

 一瞬にして焚き火の灯りが消えた。




「────!?」


 忽然と暗くなる視界。急速に襲って来る冷感。消失した温もりに瞬時にソフィーの意識は現実に回帰し、事態を理解しようと瞼を開ける。

 唐突に起きた出来事に、ソフィーの思考は麻痺したまま振り返り────。




 眼前に。

 牙が迫っていた。




「────は?」


 瞬間、ソフィーが浮かべた感慨は疑問であった。

 眼前の光景を受け入れられず、迫り来る『死』に対して恐怖も悲愴も抱けなかった。ただ思考が空白に染まったまま、ソフィーは終わりを迎えようとする。

 その牙がソフィーの頬に届く直前で。


「お姉ちゃんッ!!」


 血飛沫が舞った。

 ルーシーの声が聞こえると同時に、獣の左目に細剣が突き刺さる。激痛に獣は悲鳴を上げ、後退していく。その様子を見たところで、ようやく現実を認識し、遅れた恐怖がソフィーを包み込んだ。


「あっ、うわぁぁあああああ!!!!?」


「お姉ちゃん、早く逃げて!!」


 恐怖に腰が抜け、足を竦ませて叫ぶソフィーをルーシーが叱咤する。返り血を浴びて真っ赤になったルーシーは細剣を握り締めて、振り返ることなく獣と対峙した。


 光を吸収しているのではないかと思わせるほど黒い体躯に、対照的に炎のように輝く赤い瞳。その姿はまるで狼のようだが、耳と鼻が付いていない。まるで食すこと以外の機能を持っていないような、おぞましさを感じさせる獣だった。その姿に見覚えがあるソフィーは瞬時に記憶にあるクラリスの手記と照合させる。


 『黒妖犬ヘルハウンド』。自身より大きな体躯の生物でも獲物と見なして襲いかかってくる、危険な魔物だ。夜行性であり、夜闇に姿を溶け込ませて奇襲する修正を持つ。だが、この魔物がここに姿を現しているのはおかしい。本来、黒妖犬ヘルハウンドは都市部に生息している魔物なのだ。この鬱蒼とした森の中での目撃情報は記録されていない。

 しかし、現に黒妖犬ヘルハウンドは目前に立っている。グルル、と呻き声を鳴らし、今にも飛びかかりそうな勢いだ。

 対し、ソフィーを庇うように前方に立つルーシーは剣を握り締め「はあぁ」と深く息を吐く。そして、意を決したようにルーシーは黒獣に向かって駆け出した。


「ルーシー!」


 思わずソフィーは悲鳴を上げ、ルーシーに向かって手を伸ばす。だが彼女に出来るのはそれだけだ。

 ダメだ、と叫ばなければ。いくらルーシーが鍛錬を重ねているとはいえ、無謀にも正面から対峙してはいけないと伝えなかればならない。だというのに、ソフィーの喉は凍ったままで、足腰はずっと震えていて立つことすらままならない。

 ルーシーは知らないのだ。あの魔物の恐ろしさを。


「ル────」


「っ!?」


 ようやくソフィーが意味のある言葉を発しようとした直後だった。

 ルーシーに向かって走り出した黒獣の姿が消えたのだ。気配すら感じられなくなり、言葉を失う。

 だが、奴は消えたのではない。夜の黒妖犬ヘルハウンドは肉体を闇夜そのものに溶け込ませることができる。そうして獲物に気付かれることなく近付くことが出来るのだ。

 つまり、姿を消した時には既に奴の圏内に入っていることを意味していて。





 直後。

 ルーシーの下腹部が食い破られた。





「ぁ────」


 ぼとり、と血と肉と臓器が溢れ落ちていく。

 自らの血液で広がった血溜まりの中へルーシーが倒れこみ、再びばたばたと血液が溢れていく。折角のご馳走を漏らさまいと黒獣がその断面に食らいつく。


「が、ぁふっ……っ、…………っ……」


 もう痛みとショックで意識を失っているのだろう。ルーシーは悲鳴を上げることすら叶わなず、上半身をがくがくと震わせる。だが肉が削げていくたびに、血が流れ落ちていくたびに、その痙攣が徐々に収まっていく。

 目の前で、妹が、食べられて、死んでい───


「ああああああああああぁぁぁぁ─────」


 堰を切ったかのように、ようやく慟哭を上げた。

 未だ足腰は震えたままで、情けなく尻餅をついたまま引きずるように後退る。だが、逃げようとするよりも早く、叫び声を聞いた黒獣がゆっくりと首を振り向かせる。

 その血のような赤い双眸と視線が交わった。


「ひっ!?」


 恐怖に体が縛られてしまう。

 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない────!!

 思考は恐怖で埋め尽くされ、ひたすらに懇願を反芻する。覚悟も何もできず、ソフィーは目を瞑った。


 ───。

 ────────。

 ────────生きて、る?


 いつまで経っても来ない衝撃に思わず目を開ける。いつの間にか、あの黒獣の姿はおろか気配すら消失していた。

 ひとまず危険が去ったようだ。そこまで認識してようやくソフィーは足を立たせる。

 

「はあっ、はあっ……ルー、シー」

 

 荒い息を吐きながらソフィーはルーシーに声を掛ける。

 返事はない。上半身だけになったルーシーはぴくりとも動かない。


「ルーシー」


 死んでいる訳がない。まだ生きてるはず。

 根拠もないまま妹の生存を信じ、恐る恐るソフィーはルーシーの元へ近付く。


「ルー……」


 きっと、何かの冗談だ。これは悪い夢なんだ。

 とうとう脳が現実を拒否し始める。だがそうでも思っていなければおかしくなりそうだった。最愛の妹が息をしていない現実なんて、受け入れるはずがない。

 最後まで縋りながらソフィーはルーシーの前に辿り着いて目にした。




 凄惨だった。




 艶があったピンクベージュの髪はべっとりと血がこびりついて真っ赤に染まっていた。開きっぱなしになった瞳は空虚で何も映していなかった。白かった肌は病的なまでに青白くなり、腕には赤紫色の痣が浮かんでいた。そして胴体から下は何もなく、その断面図から赤黒い液体とピンク色の管が伸びていた。

 

「あっ、ああっ、ああああぁぁぁぁ…………」


 ソフィーは膝が崩れ落ちその場で咽び泣く。

 何が、勇者だ。咄嗟に庇ってくれたのに恐怖で何も動けず、伝えなければいけないことも伝えきれず目の前で妹が食い殺されるのを眺めていただけだ。この惨状を招いたのは間違いなくソフィーのせいだ。ソフィーが、ルーシーを殺したのだ。

 悲しみと自責の念に泣き喚くも、ソフィーはもう一つ失念していることがあった。まさに今、ルーシーの死因に関わることを。

 ────黒妖犬ヘルハウンドは、闇夜に姿を隠せるということを。


「……いっ、ぁぁぁぁぁぁぁああああああああ!?!?!?!?」


 ────痛い! 痛い、痛い痛い痛い!!!!

 後頭部に鋭い痛みと強すぎる圧迫感。その衝撃に悲鳴を上げるよりも前に、ソフィーが地面に倒れ伏した。そのまま後頭部にずぶりと突き刺さるような感触。

 噛まれている。ソフィーは今、食べられようとしているのだ。

 ────死にたくない! 死にたくない!! 死にたくない!!!!


「うあああああ、嫌だ、嫌だ、ルーシー、助けて!! 助けてぇぇぇえええええええ!!!!」


 目の前で妹が死んだというのに浅ましく生を渇望し、動かない彼女に向かって手を伸ばそうとする。

 だが、この痛みと恐怖と絶望に耐えられる人などいるのだろうか。生きたまま食べられようとして、それでも冷静さを保つことなんてできるのだろうか。

 頭を締め付けられる痛みが強くなり、ぎりぎりと内側から軋むような音が聞こえてくる。

 ────死ぬ、死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ!!!!


「ごめんなさい、ごめんなさい!! ルーシー、ルーシー! 嫌だ、死にたくないよ、助けッぁぁぁぁぁああああああああ!?!?!?」


 相手が痺れを切らしたのだろうか、とうとうソフィーを押さえつけ一層強く頭を噛みつけてくる。あまりの痛みに思考が弾け飛び、ソフィーは獣のような咆哮を上げるだけの玩具と化した。

 ────死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ!!!!

 狂ったかのように思考が「死ぬ」という恐怖で埋め尽くされる。最大限の恐怖に心臓がバクバクと異常なまで脈打つ。


「がぁぁぁぁああああああああっ、あっ、おおおあああああああああああああッ────」




 ────死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死っ









ぐしゃっ。

その音を最後に、意識が途絶えた。







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