第一章 窮迫の森

第1話 少女には夢がある、しかし努力はしない

 朝告鳥あさつげとりの鳴き声が耳に入ってくる。毎朝聞こえてくるその声は、たった今時刻が午前七時になったことを伝えているが、ソフィーは「んぅ……」と鬱陶しそうに寝返りを打って布団の中に潜り込む。

 そのまま微睡む意識に任せて二度寝を決めようとしたときだった。


「お姉ちゃん、朝だよ」


 鈴の音のような可愛らしい声が耳朶を打つ。落ちかけていた意識を揺り戻された。

 しかし瞼は開かない。はっきり言おう、眠いのだ。たとえ振り向けば可愛い顔が待っていようと、体が動かないので寝る。それがソフィーの矜持であった。

 が、ソフィーの意思など知った事かとでも言うように頬を突かれる。ふにふにと弾力のあるほっぺの感触を楽しんでいるのか、顔が歪むぐらいにしつこく触れられながらソフィーに声が掛かった。


「もう、ご飯できてるよ。温かいうちに食べよう?」


「んー……パパは?」


「もう仕事に行ったよ。今私とお姉ちゃんしかいないよ」


「ふぇ……? 今日お勉強あるっけ……?」


「ううん、私達は休みだよ。ゆっくりしようね、お姉ちゃん」


「よかったぁ……じゃあわたしは寝る────」


「それはダメだよお姉ちゃん」


 早口で遮られる。恐らく、表情は変わらないのだろうが声が本気だ。その声音に怖気付いたソフィーは意を決して目を覚ます。

 もそもそ、と怠慢な動きで体を起こす。布団を頭に被ったままという情けない格好のままでだ。しかし、それでも体を起こしたソフィーを見た彼女は。


「おはよう、お姉ちゃん」


 と、聖母のような穏やかな表情で微笑み返していたのだ。

 幼さを残す小さな顔。瞳はまるで小動物のようにくりくりと輝いている。童顔で小柄な彼女は少しでも大人扱いされたいようで、艶のあるピンクベージュの髪は腰に届くのではないかというほど伸ばされていた。

 この有り余る可愛さ、愛おしさ。目の前にいる彼女こそ、ソフィーの二歳年下の妹、ルーシーである。


「おはよぉ、ルーシー」


 寝ぼけ眼を擦りあくびをしながらルーシーに挨拶をする。

 締まりのない挨拶であったが、妹は対話できたことに満足したのか満面の笑みで頷き、「今日はサンドイッチとコーンスープだよ」と告げると部屋を去った。

 遅れてドアの隙間から良い香りが漂ってくる。同時に「く~」と間抜けな音がお腹から鳴った。なるほど、妹の言う通り温かいうちに食べたほうが良さそうだ。

 そうと決まれば善は急げ。布団を引っ剥がし洗面台へと向かう。


 鏡に写るのは眠たげな阿呆面の自分、ソフィー・アルバートだ。妹とは違って目はトロンと垂れている。特別顔が幼いわけでも小さいわけでもなく、至って普通の顔だ。唯一母親譲りで、妹とそっくりな艶のあるピンクベージュの髪はボブカットに短く切り揃えられ、ゆさゆさと揺れている。

 ぱしゃ、と水を顔に掛けてあまりの冷たさに少し身震い。春が来るまで後三ヶ月だから井戸から汲み上げた水が冷たいのは仕方がない。おかげでシャキっと目が覚めたソフィーはリビングに向かう。


 マグカップから湯気が立ち込め、美味しそうな芳香を漂わせるコーンスープに妹特製のサンドイッチだ。といっても野菜が挟まれてるだけなんだけど。

 もしゃもしゃと食べていると、目の前のルーシーが微笑ましそうに見つめながら口を開いてくる。


「お姉ちゃん、今日はどうするの?」


「んー?」


「ほら、今日休みでしょ? 何かやりたいことある?」


「んー、本読んでゴロゴロするかな」


「ふふ、お姉ちゃんらしいね」


 堂々と怠ける宣言をするソフィーに、ルーシーは怒ることなく微笑み返す。

 ああ、なんて可愛い妹なのだろう。姉はこんなにもダメな人間なのに、妹は一つも怒らないで面倒を見てくれる。家事も勉強も上手だ。きっといい花嫁になるだろう。無論、嫁に連れて行くのはこの姉ソフィー・アルバートが許さないが。

 朝ごはんを食べ終えたソフィーは、ソファに座り一冊の本を手に取る。表紙は何も書かれていない。ページをめくると、『クラリスの手記』と丁寧な字で書かれていた。その文字を目にしただけで気分が高揚し、心臓が高鳴る。


「お姉ちゃん、本当に好きだよね。ママの手記」


「もちろん! こんな田舎と比にもならないぐらい、いっぱいママは冒険してきたんだもん!」


「知ってるよ。ママはだったもんね」


 ソフィーの興奮した言葉にルーシーは微笑んで返す。

 そう、ソフィーの母は偉人だ。この田舎から剣術を独学で学び、魔法を極めた世界一強い戦士。中央国の王様から最高の戦士と認められ、世界中を冒険した伝説の勇者。

 それこそが、ソフィーの母、クラリス・アルバートなのだ。






※※※※






 クラリス・アルバート。

 多くの知識を持ち、剣術と魔術に敵う者は誰もおらず、優れた人格者であったとされる歴代最高の『勇者』。『霊智のクラリス』という異名で慕われていた。


 時折この世界で神様から加護を受ける者がいる。加護を受けた者は特別な力が使えるようになり、この大陸でも最も大きな都市国家・中央国の王様から最高の戦士として認められたのが『勇者』だ。勇者になれば、証もなく各国を自由に渡る許可が与えられ、そうして世界中を冒険し最終的には北の大陸に居を構える魔王を討伐するのが使命とされている。


 ソフィーに物心がついてから間もない頃。クラリスは勇者としての使命を果たすため、家を出て旅立った。


「ねえ、パパ。ママはどこへ行っちゃうの?」


「世界中だよ。ママはこれから冒険をするんだ」


「いいなー!」


 そう答えながらソフィーの頭を撫でる父はどこか寂しそうに見えた。しかし、幼い子供であったソフィーは母が世界中を冒険することへの憧れに夢中になっていて、その時の言葉の意味を理解できていなかったのだ。ルーシーはまだ物心もついておらず、不思議そうな表情でクラリスを見つめていた。

 そしてクラリスが旅立ってから八年後。

 手記を残して、クラリスは行方不明になってしまったのだ。






※※※※






「お姉ちゃん、今日は修行する?」


「ん~……」


 勇者になるには相応の腕がなければいけない。この世界には多くの危険がある。ソフィーたちが住んでいるこの小さな田舎村ですら、ひとたび外に出れば魔物の巣窟となっている森に繋がっている。故に仕事に行くときは軍の警護をつけてもらわなければ行くことすらままならない状況だ。

 そんなことは重々承知している。承知した上でソフィーは答えた。


「えー、修行面倒くさいから今日はゴロゴロする~」


「ふふ、お姉ちゃんらしいね。でもサボっていいの? 勇者になりたいんでしょ?」


「もちろん! ママみたいにこの世界の至る所を見尽くしたいよ! でも、わたしは天才ですから! 多少のサボりをしても許されるのです!」


「確かに。お姉ちゃんは神様よりも偉いからね」


「あはは……」


 一切悪意を含んでいない妹の純粋な返しにソフィーは思わず罪悪感を覚える。

 ルーシーの評価は正しくない。何故ならソフィーには一切才能がないからだ。剣を振るうほどの力も体力もなく、魔法もルーシーにあっさりと追い抜かされた。クラリスの手記を毎日穴が空くほど読んでいるおかげで地理や知識には詳しいが、ルーシーの方が覚えも早く勉強するのは得意だ。むしろ妹のほうが勇者に向いているのでは、と思ってしまうほどルーシーは才能に満ち溢れていて、ソフィーはてんでダメであっった。

 それでも夢を諦めきれずにいる。才能を持たず、簡単に心が折れて努力すらしなくなったのに、この田舎村から旅立つことにずっと憧れている。どうしても諦めきれない望みがあるのだ。


 それは、クラリスに再会することだ。歴代の勇者はみんな使命を受けてから一度も帰還できておらず、クラリスもこの手記を残して行方不明になっていることから、周囲はすでに亡くなっているのだろうと考えている。しかし、ソフィーはその説を否定していた。クラリスは歴代最強の勇者。そしてなにより母が死んだと認めることができないのだ。


「それじゃあ、私、洗濯物干してくるから。お姉ちゃんは好きにしてていいよ」


「助かる、流石ルーシー様。お姉ちゃんは頭が上がりません」


「そっ、そんな……。私よりお姉ちゃんのほうがよっぽど凄いからね! 気にしなくていよ!」


「こんなダメなわたしを慕ってくれるルーシー様、マジで最高……。はぁ、大人になったら結婚したいぐらい素敵だよルーシー」


「へぇっ!? な、何言ってるのお姉ちゃん!? 私、行ってくるからね!」


「お願いしますー」


 ソフィーの言葉にルーシーは赤面し、慌てるように外へ出てしまう。その意図はソフィーには伝わらず、ただ「可愛いなぁ」とぼんやり眺めていた。

 

「さて」


 一人になってしまった。休日になると娯楽も少ない田舎村では非常に暇だ。となると、ここは一つ。


「ルーシーは怒ってたけど、休日といえばやっぱり二度寝だよね!」


 そうひとりごちて、ソフィーはゴロンとソファで横になる。五分だけ、五分だけ寝れば寝た事実など白紙に戻せるだろう。

 ……余談だが、ソフィーは早く眠れるという特技がある。目を閉じて十秒もあれば充分だ。故に環境が整った今。


「……すー、すー」


 ソフィーの意識はあっさりと落ちていった。






※※※※






「で、君がここにやってきたと」


「はい?」


 目の前に、銀色の美しい髪に、銀色の瞳をした幼女が目の前に立っていた。


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