冷泉 雪都とふぃっしんぐ 4
……一万円札が一円玉と同じ1g、コンビニのおにぎり一つで大体100g、サンマは大きいのでも160g、鶏の胸肉が一枚で大体250g、500mlのペットボトルが約500g、2lで約2kg、5kgのお米一袋が約5kgで、女の子の体重は誰であってもトップシークレット、雪都は漠然と思い出す。
何をどれだけ食べたらどれだけ重くなるのかの女子トーク、横で聞いていただけの雪都にはその趣旨は良くわからなかったけれどもマメ知識として数字は覚えていた。
それらを総合して見ても、こうして亀の亡骸の上に並べられた鮫の亡骸は、あの岩に刻まれていた99㎏を大きく上回っているように思える。
どれだけ時間かったのか、空は軽く赤くなり初め、太陽も大分と傾いている。
それだけの間の戦闘、収穫量は膨大だった。
その多くは海に流れ落ち、別の鮫の餌となったが、それを差し引いたとしても失われた命の数は、虐殺と呼べるほどだった。
にもかかわらず、決着の兆しがない。
これまでの競技、訊いていた話では決着がつき次第、ここに運ばれてきたのと同じ召喚方法で戻されるはず、つまりこれは決着ではないということだった。
足りない?
あるいは間違えている?
あの岩に刻まれていた文字、魚の一文字、そこを厳密にいうならば足の下に浮かぶのは亀であり、これまで倒してきた鮫は真っ当な生き物かも怪しい。
……鮫は魚だ。
思いながら今しがた仕留めた鮫、半透明で中に赤い内臓、天使の羽根のようなひれをもつ鮫を、掴み、海面より引き上げる。
そして雪都は、海面から引き上げることは、海面から引き上げることだと気が付いた。
即ちこれは『釣り』ではない。
それは他も同じで、例えば『誘い出す』『両断する』『ぶちのめす』『完治する』『虐殺する』様々やってきた、そのどれもが『釣る』という動作ではない。
厳密な、言葉の問題、揚げ足取りの自動車免許の筆記試験のような醜悪さ、だけどもそう言われてしまえば、違うと言えない説得力があった。
そう考えればと思い当たること、最初のテントには釣り竿があった。けれども掬い上げる網がなかった。即ち『掬う』ことでは99㎏に数えられないという厭味ったらしいヒント、ではないか?
あぁこれが、テスト残り時間五分で裏にも問題があったことに気が付いた気持ちか。
焦りと後悔、これまで徒労していた自分への叱咤と呪い。
それらは全て無駄、雪都は切り替え前を向いた。
まだ迫ってきた鮫、今度は緑色で長い胴体を水面近くで大きく体を折りたたみ、溜めた力を爆発させて突っ込んでくる。
それを踏みつけ宙に飛び、さらに汗と海の雫を足場に空を駆ける。
血の赤が途切れて海の黒へ、加速し向かう先は始まりの岩山、戦う間に流されていたのか来た時よりももどかしいほどに距離があった。
そして到着、久しぶりの安定した足場、陸に上がると同時にどっと疲れと肌寒さ、若干の喉の渇き、夕暮れも近いし今は休息、火を点けて真水の確保、いやその前に一匹でも釣っておくべきか、これならばあの鮫の目玉を抉ってくればよかった、様々な考えは、開け放たれたテントを前にして吹き飛んだ。
開けたら閉める。教官として教えてきたこと、それはここでも実践してきた。
だが、今は開け放たれ、気のせいとはいいがたいほどに、荒らされていた。
慌てて中を覗いて、瞬時に分かったのは釣り竿の一本、イエローが失われていることだけ、だけどもそれで十分だった。
警戒、緊張、忘れていた自分への叱責、それらを冷たい表情の奥にしまい込み、雪都は警戒の糸を張り巡らせる。
……ポチャン。
水音、したのはルールを彫り込まれた岩の裏、化物亀とは反対側の海の方、身構え警戒しながらそろりと覗きこめば、そこには釣り人が当然のように釣りをしていた。
胡坐を組み、大きな体を小さくたたんで、黄色い釣り竿から釣り糸を垂らして目の前の海に、没頭している。
……釣り人の存在を忘れていたわけではない。
けれどもオーバードライブ、邯鄲の夢は確実に発動している。
その反応こそ奇異であり、その結果鮫に襲われることへの罪悪感こそ感じていたが、危険は取り払われたはずだった。
発動すれば無力化、それが邯鄲の夢だ。
相手が望む幻術の世界に引きずり込み、ただただ都合の良い夢だけを見せつけて現実よりも引き離す。これを受けて、原理を知る雪都さえも脱出できる気がしない、文字通りの必殺だった。
それなのに釣りをしている。
そこから導き出される事柄、この釣り人が望むことが釣りをすることだというものだった。
不合理ではある。
普通、勝利を目指すならば勝利した後の幻を見る。戦う理由があるならばそれがかなった幻を、つまりは結果を得て満足するのが邯鄲の夢だ。
だけどもこの釣り人は、そう言った願望や欲望といったものが抜け落ちて、ただただ競技に没頭する、まるで機械のような精神構造としか思えなかった。
本当に人かと疑ってしまう存在、だけれども釣りの腕前はからっきしのようで、釣り糸こそ垂らしているものの吊り上げた魚の姿は一切なかった。
これならばまだ十分追いつける、釣り竿を奪え返すのは正々堂々ではない、ただテントのことは一言言っておこう、一瞬にして様々思案する雪都の目の前で釣り人の釣り竿が揺れた。
釣り人はすぐさま反応、巧みに釣り竿を左右に倒して動かし魚を揺さぶり、あっという間に吊り上げた。
海面より釣り上げられたのは鮫ではない魚一匹、2lのペットボトルに辛うじて入りそうな大きさから2㎏には届かないだろう。位置的に化物亀とは島を挟んで反対側だからか、小柄で普通で安全で美味しそうな魚だった。
だが釣り上げられたことが重要、それだけのリード、うかうかはしてられない、そう気を引き締める雪都の目の前で、釣り人はそっと右手を竿から放すと、まっすぐ釣られた魚へと伸ばした。
ぶちゅり。びちゃびちゃ。
……一瞬、雪都は何の音なのかわからなかった。
ただ、釣り人はその右手を伸ばし、そのやたらと長く関節の多い指で釣られた魚を覆い隠すように掴むと、握り、握りつぶした。
ぼたぼたと指の間から漏れ出る魚の肉と血と他の一切合切、絞り切られた最後に親指を走らせ背骨を断ち切ると、指を開いて残る搾りかすも全部海面へ落し、その流れで汚れた手も海水に漬け、シャバシャバと洗い清める。
その音と搾りたてのミンチに呼び寄せられる他の魚たち、にわかに泡立つ海面の、その真ん中の水面に、まだ命まではとられてない魚の頭をそっと沈め、また元の姿勢に戻った。
その一連の動作、よどみのなさから、雪都はこれが初めてではないと感じとった。
……効率だけなら、最適解だろう。
撒き餌と生餌、下手なルアーよりもよっぽど美味しそうな餌、それを釣り上げた先、永続的にループさせる。
魚を『釣る』のが競技の目的であり、そこには『外す』のも『逃がす』のも『獲る』のもには含まれていない。
いないのだが、これはあまりにも酷い。
ただ効率的に魚を握り潰していく行為は、重罪と呼ばれるには小さく見える。だけれども、それでも淡々と殺していけるその精神には一切の感情、罪悪感どころか喜びさえも感じている様子が見られない。
ただ淡々と、粛々と、釣りを行っている。
殺人鬼だって、殺しに喜びを得る。
それさえも感じずに殺しを行うこの釣り人は、それよりももっと、暗いのではないか?
まるで深淵を覗き込み、逆に覗き返されてしまったかのように固まる雪都の前で、釣り人は新たな魚を釣り上げた。
それとほぼ同じくほのかに光り出す周辺、見覚えのある感覚、召喚される前触れだった。
つまり、今釣ったのが99㎏目、最後の一匹、雪都の敗北、釣り人の勝利だった。
目的の達成、釣り勝負での勝利、それさえも感情を表さない釣り人、ただその動きを止めて、釣り上げた魚をそのままにしていた。
あくまで効率的、最適だから殺し、そうでないなら興味すら向けない。
命の冒涜、いやこれは軽視か、底があるかもわからない闇を前にして、ただまだ幼い彼女の誰かが、こんな存在をまだ知らずに済んだことだけを噛みしめながら、雪都は敗北を噛みしめた。
◇
ふぃっしんぐ:雪都vsボク
勝者、ボク。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます