冷泉 雪都とふぃっしんぐ  1

 競技の内容を知って、冷泉れいぜい 雪都ゆきとが感じたのは軽い驚きと、安堵、そして高鳴る鼓動とほんの少しの罪悪感だった。


『制限時間一週間の間に魚を合計99kg分釣れ』


 目の前の岩に深々と刻み込まれた文字、状況から察するに、これが今回の競技の内容だろう。


 つまりは釣り勝負、殺伐とした殺し合いを想像していた雪都には、魚には害を与えるのだが、それ以外では比較的平和そうな競技だったことに軽い驚きを感じた。


 それと続くは安堵、訳の分からなぬまま、どんな危険があるかもわからぬ競技へと彼女たちを送り続けてきたが、存外危険な競技ばかりではないと知れたことでの安心感、自分で思っていたよりも大きかった重荷がほんの少しだけ軽くなった。


 その上での釣り勝負、当然ながら真剣勝負、百年ほど前の五輪では正式種目だったらしいれっきとした勝負事、なのだが、それでも心の内ではしゃぐ自分がいることを雪都は感じていた。


 ……退魔の名門、冷泉家の長男として産まれ、周囲から畏怖と警戒の眼差しから見られ、その家にさえ反発して出て行った過去、今の実力を得るために積み重ねた鍛錬、子供の雪都に遊ぶ余裕など皆無だった。


 そんな思い出の中で辛うじて『遊び』と呼べる経験の一つに釣りがあった。


 名目としては鍛錬の一つ、サバイバルで食料の入手の初級編にして生き物を殺すことへの抵抗を減らすための修練、とは言われていたが、引率する大人はみなどこか楽しそうで、子供の雪都をほっといて夢中になっていた気がする。


 肩身が狭く、対人のコミュニケーションに緊張が付きまとい、それでいて人に知られてもみっともなくない趣味として、冷泉家で釣りは人気があったように思えた。


 それを、これから、堂々と、する。できる。


 童心に帰れるほど年を取ってはいないつもりだが、それでも胸はワクワクし、そう感じる自分に罪悪感を感じるほどだった。


 だけれどもやるべきことはきちんとやる。


 この場合、最初に行うべきは現状把握だった。


 先ず周囲、見渡す限り360度、全方位が海、そして真夏そのものの快晴、到着してまだ間もないというのに汗が噴き出てくる。


 海の色は黒い。即ちプランクトンが多く、ならばそれを餌とする魚も多く、サイズも大きいだろう。


 足元は岩、草木も生えてない文字通りの岩の塊で、大きさとしては部屋としては広いが家は建てられない程度、その周囲をコンクリートで固めている感じは、日本の最南端の島、排他的経済水域を守るために固められた小島を思わせる。


 その岩島の上にはこのルールが刻まれた岩ともう一つ、オレンジ色のテントが張られていた。


 岩に直接金具を打ち込んで固定されたテントは大きく、中心ならば立っていられる程度、寝るだけならば三人から四人は余裕だろう。


 中には色々な物資、着替え、防寒具、ナイフ、カスコンロ、鍋、食器、医療キッド、それから肝心の釣り道具、市販品に見えて成分表とかメーカーとかバーコードなどが一切ないのが現実離れして見える。


 釣り道具としてはカーボン製の釣り竿が蛍光色のイエロー、グリーン、ピンクの三竿に、釣り糸の束がいくつか、それとゴムでできたうにょうにょやら魚に見えるプラスチック、キラキラ光る金属片など、使ったことはないが見たことはある疑似餌ルアーが何種類か用意してあった。


 釣り糸を巻き取るリールは金属製の手動のもので、どこかで見た覚えのある電動巻き取り式ではない。それに釣った魚を捕らえる網とか、入れておくバケツやクーラーボックスの類も見当たらなかった。


 それももう一つ、見当たらないものに食料があった。


 調理器具やプラスチックのコップはあるものの、調味料や油などは一切なく、口に入れられるようなものは医療キッドの抗生物質しか見当たらなかった。


 それでも食料は釣った魚で賄える。問題は水だ。


 このうだるような暑さの中、飲み水が無いのは致命的と言える。


 期間は一週間とあったが、その間を生き残るのは思ったよりも難しそうだった。


 一応、ガスコンロで海水を沸騰させ、登る水蒸気を集めて真水を手に入れる等、方法は知っているものの、短期決戦が好ましいと頭に書き留めながら雪都はテントの外へ、次に向かったのは島に接岸してある小舟だった。


 屋根もついてない小さな船は、公園の中の池に浮かべられているあのボートにしか見えなかった。


 中には腰かけるのによさそうな板が段差のように張られている以外にはオールが一対と、実物は初めて見るスクリュープロペラが船尾に取り付けてあった。


 エンジンを回してガソリン燃やし、スクリュー回して推進力を得、それ自体を曲げることで進行方向を変える。知識だけはあって何とか見様見真似で使えそうだと思いながら雪都はふと、これはいいと思えた。


 ……どういうわけだか、雪都の周囲にいる女性はみな、この手のボートに乗りたがった。


 だけどもオールを漕ぐのが大変だから一緒に乗って欲しいと頼まれることがしょっちゅうだった。


 そのお願いをかなえてあげること自体に不満は無いのだが、スケジュールが合わなかったりトラブルに見舞われたりと満足に乗ってあげられた経験は少なかった。


 だけどもこのようなスクリュープロペラを乗せれば女性の腕力でも安心、雪都のような男でなくてもいつでも楽しめる。ガソリン代などの問題があるが、これはこれで悪くないアイディアに思えた。


 後はこれを使うのに免許がいるかの確認だなとまた頭に書き留めながら、もう一度、周囲の海を見渡す。


 今のところ波は緩やかで、遭難の恐れはない。


 出航する分には問題はなさそうだけれども、戻ってくる予定の島は小さいから見失う可能性は無いわけではない。


 目印に焚火を、とも考えるがそれが対戦相手を不用意に呼び寄せてしまう可能性もある。


 思案しながら海を見回して……見つけた。


 遥か向こう、水平線にぽこりと出っ張った、茶色い何か。他に比べるものなく、距離もあって正確ではないが確実に存在する異物、それが動いていた。


 一瞬にいて浮かれていた心は冷たく静まり、おのずと雪都は戦闘態勢に入る。


 いつでも動けるよう構えながらも目を凝らし、集中して見れば、それは小舟に乗っていた。


 形状から今足元にあるのと同じ釣り船、だとしたら上に乗っているものはかなり大きい。ただしその外見は、流木にしか見えないが、その正面、進行方向に向かって伸ばしているのは、蛍光色のピンク、釣り竿だった。


 流木のような釣り人、対戦相手と見るのが普通だった。


 それが尋常ではない速度でこちらに向かってきている。


 この状況での接近は友好的とは思えない。


 間に障害物は無し、揺れる相手に距離と命中させる自信は弱いが、共振遠当てで狙えない状況ではない。


 先制で攻撃すべきか、一瞬迷う雪都、迷わせたのは違和感からだった。


 釣り人は正面に釣り竿を追向けてている。


 だとしたらどうやって移動している?


 オールはもちろん、スクリュープロペラも手で固定しなければ真っすぐ進めない。ならば何かしらの異能、とも考えられるが、だとしても両手を釣りに用いる合理性が足りない。


 それで思いつくのは、滑稽な、だけども合理性だけはある考え、つまりはあの釣り人は、魚を釣ろうとしているが、かかった魚が大きすぎて協力すぎて、引き上げられずに逆に船ごと引っ張られているのでは、との推察だった。


 馬鹿な、とは思う。


 けれどもシャチやイルカならば人を引っ張って移動できるサイスだと知っているし、マグロや鮫はそれぐらい大きいサイズもいるとも知っている。


 ならばあの程度の小舟に、乗った人諸共引っ張れるぐらいの大物がいてもおかしくはない。


 もしそうだとすれば、あの釣り人はただの釣り人であり、対戦相手かもしれないが、少なくとも今の段階ではまだ、妨害のそぶりは見せていない。


 ……挨拶よりも先に先制攻撃は、正々堂々ではない。


 構えはそのまま、だけども攻撃の意思だけ、雪都は緩めた。


 それを汲み取ったように、こちらに接近してきた釣り船が止まる。


 それと同時に釣り竿が垂直に立てられ、大きくしなる先端、小さいながらリールが巻き取られているのが見える。


 そして一瞬船が沈み、そして跳ねてから、周囲の水面が泡立った。


 …………鯨だと思った。


 少なくとも怪獣映画に疎い雪都は、海で、陸上含めたあらゆる生物の中で、鯨以外にこれほどまでに巨大な生物を知らなかった。


 だけども泡と海水を滝のように押し流しながら浮かび上がったそれは、緑色の外皮に真っ黒な目、その目の下に赤い線、牙の見えない口から、少なくとも鯨ではないとは見てとれた。


 そんな、良くわからない巨大生物が、一瞬にして、釣り人と釣り船を飲み込んで、また海へと消えた。


 残るは水面を叩いた大きな音と、その反動で押し寄せる高波、思ったよりも冷たい海水に服を濡らしながら、雪都は彼女の誰かではなく自分がここに来たことに安堵していた。

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