最終話。ラグナロク。

 雷神はミョルニルを振り抜いた。

 エイクの右半身を破壊した。エイクは吹き飛ぶが、着地の頃には全身が再生していた。黒い衣は邪悪にとぐろ巻き、未だエイクを包み込んでいる。またしても出鱈目な突進。レーヴァテインを振り下ろすが、雷神に当たるはずもない。

 何度も何度も、何度も何度も。

 返り討ちに合うだけだった。雷神が目を剥いたのも最初だけ。落ち着いてしまえば、エイクの無駄な突撃に慌てるはずもない。叫び狂う魔王を、雷神は数十も、数百も、叩き潰すだけだった。

 それでもエイクは立ち上がる。明らかに消耗しているはずであるのに、エイク・サルバドールの突進が休まることはなかった。


「狂ったか、こいつ……?」


 確かに狂気的だった。

 木っ端微塵に破壊されるとわかっていながら、エイク・サルバドールは雷神に突っ込むのだ。こんな真似は、奇神ロキでもその息子ナルヴィでも、できるはずがない。

 だが、見覚えがあった。この狂気を、雷神は知っていた。

 人間だ。

 まるでエイク・サルバドールは、人間のようだった。

 人間が持っていた、あの不屈の精神。何度打ちのめされても立ち上がる。力の差を理解した上で神に楯突く、あの忌まわしき人間そのものだった。現実に屈することのない、愚かな心意気。

 何千の魂を犠牲にしてなお神々に牙を剥いたあのペルット人。

 世界中の戦士を従えて、全滅と引き換えにヴァルキュリアを根絶やしにしたラジゴール。

 そして、魔人の魂を従え、百も千も打っても立ち上がる、魔王エイク・サルバドール。


「これか」


 道化師アルフ……奇神の息子ナルヴィが言っていた、魔王の正体。

 エイク・サルバドール。


「貴様が選んだ理由は、これか」


 何度も何度も、狂ったように死に、狂ったように立ち上がる。エイク・サルバドールの本当の実力。

 その力は確かに、奇神を越えていた。その狂気性だけみるならば、神々の追随を許さない。

 そしてエイクは神ではない。

 雷神は神の中で最も強い神ではあるが、エイクは魔王だ。神の領域に踏み込むことができる、下界で唯一の存在——魔王エイク・サルバドールなのだ。


「おおおおおおおおおお!」


 叫び狂い、立ち上がる。その強靭な精神力。

 折れることなき心。


「良かろう、良かろう、良かろう!」


 雷神は、心の底から……魂の底から震え上がった。


「その魂が尽きるまで、幾千幾万立ち上がれぇ!」


 エイクはレーヴァテインを握り、振り下ろす。雷神は火炎の刃が着弾する前にエイクの頭蓋を打ち砕いた。

 エイクは再び立ち上がり、また同じくレーヴァテインを振り下ろす。雷神も決まっていた。ミョルニルを握り振り上げる——だが、エイクは煙となって消えた。


「なっ……!?」


 背後。

 熱源を感じた。振り返る暇は無い。

 身を捩る。

 脇腹に熱い刃を感じた。

 避け切れない。

 斬られたのを知覚した。

 覇剣レーヴァテインが、振り抜かれた。

 雷神が、吹き飛んだ。

 岩砂漠の上を、巨体が転げる。大きな岩に体がぶつかり、止まった。

 雷神は膝をつき、理解した。斬られた。脇腹を、火炎の剣で抉られた。赤い血が、だくだくと流れていた。致命傷ではないが、浅い傷ではない。


 頭上に気配を感じた。

 兜を割ろうと振り下ろされたレーヴァテインを、ミョルニルで受け止める。エネルギーの奔流が、接点を中心に迸る。


「貴様、まさかこの一撃のために……!」


 魔王エイクは、この一撃を喰らわせるために、何百回もミョルニルに打たれたというのか。ルーチンだと思わせるために、自分の体を何度も何度も捨てたというのか。


「き、狂気か……!」

「根性と、言うんだよ!」


 レーヴァテインの圧力が増した。

 道化師アルフも言っていた。根性と。それを、魔王エイク・サルバドールも持っているという。


「うおおおああああああ!」


 雷神もたまらず怒号を上げ、ミョルニルで押し返した。


「なんだ、それは……!」

「それを忘れたから、お前は神様になったんだろうなあああああ!」


 エイクの圧力も凄まじいものだった。どこからこんな力が出てくるのか、雷神には理解できなかった。雷神は神だ。神の中で最も強い神。ヨルムンガンドの血を引いているからと言って、所詮『混ざりもの』に力で負けるとは思えない。

 それになぜだ。先ほどからの破壊に次ぐ破壊で、魔王の魂は随分と引きはがされたはずなのだ。

 それなのに——


「なぜ、見えない……!」


 エイク・サルバドールの魂がまだ見えなかった。装甲はそれほど無いはずだ。何百回、いや何千回も殺したはずなのだ。鎧はもう既に、破れているはず——

 これが、人間が持ち神々が忘れた力だと言うのか……


「く、お、お、おおおおおおおおお!」


 雷神が巻いている篭手と腰帯が、一層激しく光った。レーヴァテインが遂に押し負ける。間髪入れずに雷神はエイクの腹を蹴破った。


「がっ……」


 エイクは盛大に血を吐き出すが、次の瞬間には治ってしまう。エイクの焦点が合う前に、雷神はエイクの頭をミョルニルで叩き潰す。

 何度も何度も、叩き潰す。

 崩れたエイクに馬乗りになり、両手で握った雷槌ミョルニルで、渾身の一撃を幾度となく振り下ろした。

 岩砂漠に亀裂が入る。ばきばきと割れ始めた。大地は裂け奈落への谷間が現れる。陥没し、隆起し、ミョルニルが振り降ろされるたびに、地形が変わっていった。


「なぜだ、なぜ砕けん!」


 雷神は焦りながら、ミョルニルを振った。


「なぜ貴様の魂は、砕けんのだ!」


 砕く。砕く。砕く。

 雷槌を打下ろすたびにエイクの頭は潰れたが、雷槌を振り上げるたびにエイクの頭は再生した。


「あああああああああああああああ!」


 全身全霊の一撃。エイクがいた大地が遂に崩壊した。世界の構造が、雷槌の威力に耐えられなかった。雷神は安定している岩場に飛び移った。

 割れる大地に、魔王エイク・サルバドールが飲み込まれる。さすがにあの破壊と再生のループでは、意識を保つのは難しいようだった。

 ずるずると、エイクは奈落へと引きずり込まれる。

 だが——だが!

 エイクの右腕が、大地の縁を掴んだ。

 雷神の背中が、ぞっと泡立つ。

 次いで左手が縁を掴み、エイクの体を引きずり上げた。

 雷神トールは、冷や汗すらかいていた。あれだけ。あれだけ破壊した。何度も何度も。雷神自身の手がいかれてくるまで、雷槌を振り下ろしたのだ。

 それなのに、魔王エイク・サルバドールは立ち上がった。


 理解が、できなかった。

 何も考えることができないまま、全力で雷槌ミョルニルを投擲した。怯えるように、エイクを破壊しようとした。

 エイクはかろうじて反応し、レーヴァテインを召喚して盾にする。

 覇剣と雷槌が接触する。またしても膨大なエネルギーは膨れ上がった。爆風はエイクを吹き飛ばし、大地の裂け目を大きくする。

 エイクは空中で体勢を整えた。雷神は雷槌を受け取り、エイクへと突進を仕掛ける。

 すれ違い様の雷神の一撃——は、外れた。エイク・サルバドールは、完全に見切った。雷神の攻撃を目で捉え、躱したのだ。


「くっ……!」


 雷神はすぐに切り返し、怒濤の連続攻撃を繰り出す。右へ左へ後ろへ前へ。上下の攻撃も組み合わせた音速を超える三次元の攻撃。エイクは避けるのが精一杯だが、確かに完全に躱し切っている。

 だが、段々と追いつめられていることには変わりない。ミョルニルが、エイクの肺腑を捉えた。破裂したエイク・サルバドールは、皮の一片から再生する。


「化け物があああああ!」


 ミョルニルを切り返し、エイクの破片を地平まで弾き飛ばした。

 空中で再生を終えた魔王エイク・サルバドールは、両足で着地する。

 再生速度は衰えるどころか尻上がりの状態だが——確実に、疲労は蓄積している。

 魂の否定。これが神々の戦い。どれだけ肉体が滅びようとも、魂が砕けなければ神が死ぬことはない。主神オーディンがナルヴィ・コピーを乗っ取ったように、雷神も、確実に仕留めなければどこかで息を吹き返す。

 魂ごと破壊しなけれなならないのだ。


 雷神はまたしても連撃を繰り出す。まだ焦点が合っていないエイクには、それを躱すことはできなかった。何度も何度も、破壊される。右から叩かれ左から殴られ、再生しては死んでいく。

 雷槌が下から抉るように振り上げられた。エイクは背中から粉々になった内臓諸々を吹き散らしながら天空へ浮上した。雷神は飛び上がり、両手で握った雷槌ミョルニルで、稲妻の如くエイクを叩き付ける。

 エイクは墜落し、大地に亀裂が入った。


「くたばれ……くたばれ……!」


 雷神が息も絶え絶えエイクの沈黙を願う中、それでも魔王は立ち上がった。

 魔王エイク・サルバドールは、震える膝で、立ち上がった。雷神を、真っすぐと睨みつける。

 雷神トールはきりきりと腰を捻り絞った。雷槌ミョルニルを握る手に、渾身の力を込める。篭手と腰帯が帯電し、激しく光り出す。目を血走らせ、血が出るほど食いしばった。

 朦朧とする意識の中、エイクはレーヴァテインを召喚して、構えた。

 雷神トールが、雷槌ミョルニルを投擲した。激しい雷を纏ったミョルニルは、凄まじい破壊力を持ってエイクに接近する。

 エイクは覇剣に炎を纏わせ、振りかぶる。

 ミョルニルに合わせて、渾身の力で振り下ろした——

 しかし、レーヴァテインは、覇剣レーヴァテインは……粉々に、

 雷槌ミョルニルの打撃に、遂に耐え切ることができなくなったのだ。破壊の権化ミョルニルの圧力に、覇剣は遂に屈してしまった。

 炎が、消える。

 白銀の刃の破片が、エイクの足下に落ちた。雪のように、エイクの視界を舞った。

 雷神の手元に、ミョルニルが戻る。

 エイクは、砕けたレーヴァテインを呆然と見ていた。


「折れた……!」


 雷神は笑った。もう一度、雷槌ミョルニルを投げる。真っすぐと、真っすぐとエイクの頭蓋を破壊した。

 雷神はここぞとばかりにエイクに接近した。崩れ落ちる足場を飛び降りながら、ミョルニルを振り降ろす。

 エイクが頭から股まで、力任せに引き裂かれた。すかさず再生するも、雷神はエイクの横っ面を叩く。脳漿をぶちまけて首から上が消滅した。……再生。雷神はエイクの首の付け根に、雷槌を叩き付けた。超常的な電圧がエイクの体を焼く。消し炭になるが、一瞬にして再生……

 破壊の限りを尽くしたが、エイクの再生は止まることが無い。


「だが、だがもう限界だろう……!」


 雷神は哄笑した。ミョルニルを精一杯引きつけ、渾身の力でエイクを叩き壊した。破壊を逃れた右腕が宙を舞い、遥か彼方にまで飛んでいく。

 右腕の欠片から再生したエイクは、しかしなかなか立ち上がれなかった。

 肉体の回復力はどんどん高まる一方、その現象に人間としての精神が追いつけていない。豚が唸るような声を発しながら、虚ろな目で痙攣していた。

 滲んだ視界に、雷神が現れる。


「貴様を殺せば終わりだな」


 何が、終わるというのか。エイクには、わからない。


「迅速に、この下界を壊してやろう」


 壊す。


「全ての人間を殺せば……創造神も現れるはず……。ラグナロクも、これで終わりだ」


 全ての人間を、殺す。

 エイクは震える腕で体を支えた。立ち上がろうと言うのだ。そのぼろぼろになった心に鞭を打ち、エイク・サルバドールは、未だ神を殺そうと立ち上がるのだ。何かがエイクを、死に瀕しているエイク・サルバドールを、立ち上がらせる……

 ぐらぐらと揺れるエイク・サルバドールを破壊しようと、雷神はミョルニルを振るが——エイクは、それを受け止めた。

 右手で。

 雷槌ミョルニルの打面を、しっかりと掴んで。


「な……!」


 雷槌は雷をエイクに流し込む。エイクの体は電圧による熱で一瞬にして黒焦げになる。しかしなお、エイク・サルバドールは膝を折らない。炭化した体で、立っていた。

 もちろんすかさず再生するのだが、雷槌を握る右腕から、常に超高圧の電流が流れている。

 焦げた喉で、エイクは言うのだ。


「リリーは、死なせない」


 はっきりと発音できるはずがない。水分を失った声帯は、動くこともできないはずだ。体の穴という穴から煙を発している状態で、喋ることなどできるはずがない。

 だが雷神トールには確かに聞こえた。この愚かなエイク・サルバドールの、絶対的な意思の声が。


「お前なんかに、死なせるもんか」


 エイクは雷槌を弾いた。

 雷神は後退する。

 エイクはしっかりと立っていた。両足で、地を掴んで、立っていた。鼻血を拭い、ぎらつく目で雷神を見据えていた。

 まだ心は、折れていない。

 雷神は悪態をつき、先ほどと同じように体を絞る、全身全霊を雷槌に込めた。きりきりと軋む体に、エネルギーが溜まっていく。


 たったひとりの女が、戦うための理由になった。


 エイク・サルバドールは腰を落として、拳を引いた。

 雷神がミョルニルを投げる。破壊を司る雷槌は超大な力を持ってエイクに迫る。白銀に光るその様が、込められたエネルギーの大きさを示していた。


「ぎいいいいいいいいいいいいいいい!」


 エイクは拳を突き出す。食いしばり絶叫しながら放出された力が、拳の一点に集中した。

 雷槌と拳がぶつかる。

 ばきばきとエイクの骨が破砕していく。肘から骨が突き出した。膨れ上がった筋肉が皮を突き破る。血しぶきは雷槌の熱量で蒸発した。ミョルニルと拳の接点が白熱した。小爆発が起きる。だがエイクの足は地面を掴んで離さない。奥歯が割れる音が頭蓋に響いた。エイクの背筋は拳の破壊力を生み続ける。

 遂に——エイクの拳が、振り抜かれた。

 雷槌ミョルニルが、弾けて砕けた。

 トールは、光が散るのが見えた。

 魔王エイク・サルバドールは拳を、ただの拳を、突き出していた。


「叩き、割った……!」


 雷槌を。神具雷槌ミョルニルを、エイク・サルバドールの拳が叩き割った。

 エイクがぜいぜいと息を切らしている。ぶらりと、右腕を降ろした。白い煙が、毛穴から立ち上っていた。


「くそがあああ!」


 雷神も拳で応戦する。雷のような正拳突きが、エイクの顔面を捉えた。頭蓋骨が爆散しながら、エイクは空中へと吹き飛ぶ。すかさず雷神が距離を詰めた。


「覇剣は砕けた! 貴様の魂も限界のはずだ!」


 組んだ両手を振り下ろす。エイクが墜落し、大地が破壊される。

 雷神はそのままエイクを追う。埋まりかけているエイクの体に、雷神の膝が突き刺さった。放電された稲妻が、エイクの体を炭化させる。

 雷神トールは後方へと宙返りで距離を取った。大きい岩に立ち、分厚い雲から雷を落とす。幾本もの稲妻が、数十回に渡ってエイクの体へと降り注いだ。一切の容赦をしていない。完全にエイク・サルバドールを蒸発させようとしていた。

 雷神が息を切らし、攻撃が止んだ頃、エイク・サルバドールは、むくりと立ち上がった。


「なぜ……立ち上がれるんだ……なぜお前の魂は、砕けん……!」


 エイクは煙の中、身構える。黒い衣は消滅し、ぼろぼろの服に変わっていた。

 息を整えながら、あの言葉を思い出した。

 ここまで連れて来てくれたあの男が言った言葉。リリー・エピフィラムという女に会わせてくれた、リリー・エピフィラムを守る力を与えてくれた、道化師アルフの、あの言葉を。疲労のあまり壊れかけている自分に、言い聞かせた。


——」


 真っすぐと、ぎらつく目で、雷神を見据えた。


……!」


 魔王は走り出した。

 雷神がいる岩場まで、駆け上がる。落雷を躱しながら、聳え立つ岩に手を突き刺し跳ね上がり、落下する岩から岩へと飛び移る。

 魔王エイク・サルバドールには、雷神トールしか見えていなかった。

 約束の重み。

 時間の重み。

 そして愛する女の『頼み』。

 それだけのために何度も死んだ。

 それだけのために何度も立ち上がった。


「き、貴様……!」


 雷神は目を剥いた。

 エイクはそれを見逃さなかった。雷神の魂が一瞬を、決して見逃さなかった。


「そうか、そうかわかったぞ! こ、根性だと……奇神ピエロめ、やってくれたな……!」


 魔王は遂に飛び上がった。

 雷神が立つ岩場に到達する。力強い踏み込みで、一気に距離を詰めた。


「貴様、——か……!」


 エイクが腰を下げて右腕を引いた。


「お前の負けだ、神様ああああああああああああああああああ!」


 足から腰へ、腰から肩へ、肩から肘へ、そして肘から拳へ。鋼のようなエイクの肉体が鮮やかにしなる。筋肉は力を増幅し、関節はエネルギーを倍加した。拳に重さが加わっていく。魔王エイク・サルバドールが最後に選んだ攻撃。それは神具覇剣レーヴァテインではなく……戦場で何百回も突き出した、エイク自身の拳だった。人間が持つ、原始の武器だった。

 雷神は腕をクロスした。エイクの拳が雷神の腕に着弾する。

 ガードを、突き破った。拳もただでは済まないが、壊れていくそばから再生していった。掲げられたガードに風穴を開けて、遂に——


 魔王エイク・サルバドールの鉄拳が、雷神トールの頬に突き刺さった。


 雷神の頭蓋が破裂した。再生は、しない。雷神の治癒力では、首を再生することなど到底できない。

 帯電した赤い血液が、膝から崩れ落ちる雷神の首から吹き出す。雷神はずるりと、岩場から滑り落ちる。岩に血痕を残して、大地に開いた奈落の底へと消えてしまった。

 エイクは全身の力が抜ける。もう限界は近かった……いや、限界など、超えていた。エイク・サルバドール一人の力では、もうとっくに立ち上がることなど辞めていた。ただそこに、リリー・エピフィラムの存在があったからこそ、なのだろう。


「う、ぐ、ぐ……」


 緊張が解けたせいか、尋常ではない気怠さが全身を襲った。

 だがそれでも、エイクは立つ。立ち上がる。まだ終わっていない。岩から降りようとするが、うまく足に力が入らなかった。笑う膝はエイクの体重を支え切れずに折れ、岩から落ちる。

 分厚い雷雲は、徐々に晴れていった。雲の隙間から、スポットライトのように光が差し込む。


「……リリー」


 声になっていたかは、わからない。だが、エイクはよろよろと歩き始めた。

 随分と遠く離れてしまった地獄の門までなんとか行こうとすると、三面犬がいつの間にかエイクの目の前で座っていた。


「おまえ……」


 獅子エドガー・ライムシュタイン……ではない。本物の番犬ケルベロスだ。エドガー・ライムシュタインが死に、魂が解放され地獄へと戻ったのだろう。


「神が死んだか」


 ケルベロスは、低く唸った。


「呪縛も解けて、俺たちも外に出られるようになった。魔王よ、ラグナロクの礼を言う。何か、望みはあるか」

「城、に……」

「承知した」


 三面犬は真ん中の首でエイクを咥えて自分の背中へ放り投げる。背中に乗ったのを確認すると、走り出した。風を切るよう速さで、エイクを運んだ。その間、ケルベロスが何かを言うことはなかった。

 地獄の門は明らかにケルベロスの体躯よりも小さかったが、吸い込まれるように這入った。地獄は心無しか、少し明るくなっているようにも見えた。

 信じがたいスピードで地獄を駆け抜けると、大きな湖にぶつかった。左右を見ても果てが無い。湖面から、水色の巨人が現れた。


海獣エーギル


 ケルベロスは湖面の巨人をエーギルと呼んだ。

 エーギルは頷き水中へと消える。すると湖が、ばかりと割れた。一直線に、ケルベロスが進む道を開いたのだ。三面犬はすぐに走り出す。湖を突っ切ると、森が見えた。確かにそこは、道化師アルフが、エイクに魂を託した場所だった。枯れ果て、切り株だらけだったはずだが、森として再生している。


「ここで、良いよ」


 三面犬は腹這いになり、エイクを降ろす。


「……ありがとう」


 エイクが礼を言うと、三面犬はすぐに走り去ってしまった。

 よろよろと階段を上り、門を開いた。地獄を振り返る暇は無い。くぐり抜けると、そこはやはり、エルズアリア城の裏だ。

 覚束ない足取りで、エイクは進む。目的地はリリーの居場所。なぜかリリーはまだ、レイラの能力で見えた部屋にいると思った。なぜかは、わからない。

 エイクは城に入った。戦士たちの怒号がまだ聞こえる。戦争は、まだ終わっていないようだ。帝王はもう死んだかもしれない。だが帝国軍はまだ降伏しない。アルセウス・イエーガーが死んだことに、まだ気付いていないのだろうか。それともまだ、リリーは帝王を殺していないのだろうか。獅子エドガー・ライムシュタインも死に、雨男レイモンド・ゴダールも死んでいる。エイクにもそれはわかった。地獄でケルベロスとエーギルを見たのだ。


 エイクは歩き続けた。レイモンドがここにいたなら、いますぐリリーのところへ行けというはずだ。こんなところで、泣き崩れるわけにはいかない。

 全身が軋むが、こんなところで止まるわけにはいかない。

 階段を歩き続け、やっと目的の部屋の前についた。過去視の力で垣間見た。この部屋で間違いない。エルズアリア城の奥の奥。帝王が、追いつめられた場所だ。守衛たちは一人もいなかった。殺されたのだろうか。下の戦場へと赴いたのだろうか。どちからにせよエイクには関係が無かった。

 ただ、この扉の先に、用があるのだ。

 エイクは呼吸を整える。

 リリーが生きているかどうかはわからない。過去視はあれから発動しない。雷神の攻撃で剥がされたのかもしれない。だが、もし発動できたとしても、その力で確認するのは、あまりに卑怯だとエイクは思った。

 伝えなければならないのだ。


 俺の人生に現れてくれてありがとう、と。


 だからエイクは、震えながらドアノブに手をかける。

 目を瞑った。

 もし死んでいたら——と考えないことはできなかった。嫌な想像ばかりが頭の中で飛び交った。

 だが、だがしかし愚かなエイク・サルバドールは……愛する女の名前を叫びながら、ドアを、開けるのだった——


「リリー!」


 これは神を殺すための物語でも無ければ、世界を救うための物語でもないのだから。

 何百年の因縁に巻き込まれただけの不器用な男と、あらゆる悲劇に巻き込まれただけの不器用な女の、切ない恋の物語なのだから。

 エイク・サルバドールにとって、リリー・エピフィラムにとって……ラグナロクなど、二人でいるための口実に過ぎなかったのかもしれない。神魔を交えた戦争など、臆病な二人が近づくための手段でしかなかったのかもしれない。

 ただこの扉を挟んだ向こうの世界だけが、神殺しの戦士にとって、重要だったのかもしれない……

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