第四九話。リリー・エピフィラム。

 リリー・エピフィラムはサーベルを鳴らした。

 瞳には、爛々と復讐の色が輝いている。

 掲げたサーベルの切っ先は、まっすぐと帝王の心臓を指している。

 まとめられた黒髪を、左手で解いた。背中に覆い被さるような長髪が、一枚の美しい布のように靡いた。紺色のドレスは、さきほどからの流れ弾や破片のせいで、大きく膨らんだスカートの裾がところどころ破れていた。

 白磁を思わせる細腕は、重いサーベルを持っても震えることはなかった。

 今までの道中、この一本の剣の何倍もの重さを抱えて歩いてきたのだ。


「良いのか、ヨルムンガンド。俺を殺せば——」

「一気に病が回るかもしれない」


 近親相姦……禁忌を幾代も重ねた結果、逸脱の罰として背負わされた奇病。

 今やエピフィラム家の人間は、確実に発病する。

 手足が腐り、腐食が内臓にまで達し遂には死に至る。

 リリー・エピフィラムが未だ発病していないのには、単純に内に宿す『ヨルムンガンド』の力によって、それが抑えられている可能性は大きい。

 世界の縁を囲むように、己の尾を食い眠る不死ウロボロス世界蛇ヨルムンガンド

 帝王の死は、すなわち己の死と同義なのかもしれない。

 それでもリリー・エピフィラムは、サーベルを下げることはしなかった。


「少しでも長く生きたかったから、無駄話をしたのだろう」

「…………」

「貴様が、あのリリー・エピフィラムが、べらべらと真理を喋る安い悪役のような真似をただですることはあるまい」


 帝王の声が、リリー・エピフィラムに聞こえているかどうかはわからない。


「まだ、生き足りないのだろう、ヨルムンガンド!」


 リリーの目は、サーベルの切っ先を見つめているか、その先にある帝王の心臓を睨みつけているかのどちらかだった。


「責任、なのよ……私の下らないわがままのせいで、お母さんを死なせることになった」


 かたり、とサーベルから音がした。


「責任。……石細工の話か」


 リリーは目を見開き、サーベルの石突きで帝王の頬を打った。

 石細工。石細工アーノルド・コーウェン。


「過去視の女か……」


 帝王は、暗く笑った。歯茎から出血していた。


「なるほどな」


 リリーの初恋の男であり、帝国からの刺客でもあった。素性のわからぬ男を好きになったと、リリーはレイラに打ち明けた。どうせ言わなくとも『過去視』のレイラがその気になれば、すぐにばれてしまうからだ。

 エピフィラム家は近親相姦しか許されていない。外で抱かれる暇があるならば、身内の男と子を作らなくてはならない。だがリリーは恋をしてしまったのだ。そしてレイラに言った。

 許してください。

 そう言った。レイラは我が子の痛切な顔と、そして背負わなければならない運命に心を痛めて、許したのだ。石細工アーノルド・コーウェンとの恋を。そしてアーノルドのことを決して探ろうとはしなかった。愛する娘を思ってのことだった。

 それが、あらゆる全ての仇となった。

 リリーは裏切られ、ペルジャッカは破壊される。唯一のペルット血脈であるエピフィラム家は壊滅状態に追いやられ、ラグナロクは遠のいた。


「……償いの烽火。私の責任なのよ」


 少女の想いが、大惨事を招いた。

 リリー・エピフィラムの決心の根本は、自戒にあったのだ。


「だから——だから!」


 リリーはきつく目を開いた。

 サーベルを腋に引きつける。

 帝王は口を一文字につぐんだ。真鍮の肘置きを強く握った。


「全て、終わらせる……!」


 リリー・エピフィラムは叫び……

 叫び、そして帝王の心臓を——突き刺した……



*



 雷神の拳をエイクは右手で受け止めた。だが、衝撃を吸収しきれるはずもなく、右半身は粉々に弾け飛ぶ。トールは無防備になったエイクの頭を鷲掴みにし、力任せに胴体から引き千切った。ばりばりと筋が切れる音と共に、血しぶきが吹き出す。右半身が無くなった上に首まで奪われた体は、地に倒れ伏して泡を吹き溶ける。出鱈目に砂漠に叩き付けられた頭から、エイクの全身が生えてくる。が、再生の途中で雷神はエイクの頭蓋を踏み壊した。べちゃりと潰れ、今度は胴から触手が生える。


「再生が早くなっているな」


 雷神は構わず、エイクを踏みつけ続けた。雷神が足を踏み降ろす度に、岩砂漠にクレーターができる。エイクが踏みつぶされる場所を中心として、円状の亀裂が大地に走った。

 為す術がない。

 神経器官が再生する前に、雷神の攻撃で全身が破壊される。

 動くことも、考えることもできない。何百、いや何千も死に、そしてその度に生き返る。エイクの精神にかかる負担は、凄まじいものがあった。

 反射反応だろうか。エイクは右手に触れるレーヴァテインの火炎を大きくした。エイクの体は炎の中に包まれる。雷神は舌打ちして、炎から離れた。

 エイクは自分の体を燃やしてまで、雷神の攻撃を止めるしかなかった。

 触手が炎を叩き消し、ゆらりとエイクは起き上がる。

 全身が爛れている。

 黒煙を吐き出す眼腔から、一筋、の涙が流れた。


 ——リリー・エピフィラムがいた。あまりに雄大な景色だった。燃えるような赤い花が、びっしりと咲いている。すぐにわかった。この光景は地獄だ。過去の地獄だ。リリーの左手の人差し指と中指は、石膏で固められていた。骨折している。左目には眼帯も巻かれていた。これはリリーがアルカルソラズを脱獄した直後の話らしかった。エイク・サルバドールと道化師アルフがリリーを中央大陸へと送り届け別れた、その後だろう。リリーは地獄で立っていた。目の前には、男が立っている。エイクにはこの男に見覚えがあった。レイラの映像で見せられた『ヨルムンガンド』だ。あの大蛇の、人間の姿だった。リリーが何か言った。聞き取れない。ヨルムンガンドが答えた。『息子に会ったのか』。そうだ、ヨルムンガンドはエイクの父親だ。リリーが答えた。『頼りになりそうね』——


 エイクに眼球が戻る。

 今の映像は、レイラの能力だろう。道化師アルフの魂を取り込んだ際に、紛れ込んでいたのだ。


「……リリー」


 リリー・エピフィラムはヨルムンガンド……エイクの父親の魂を取り込んでいた。

 エイクの父親は、リリーを後継者として選んだのだ。道化師アルフがエイクを選んだように。『不死』の力を託すべき者として、リリー・エピフィラムを選んだ。


「……!」


 エイクがぼうとしていると、ミョルニルが投擲された。左肩にぶつかる。半身が吹き飛んだ。エイクは血を吐き出す。揺らされた体を立て直す前に、雷神は間合いに迫っていた。拳が、エイクの頬を抉る。脳漿を弾かせ、エイクはきりもみ回転して吹き飛んだ。

 再生の途中で、過去の映像がちらついた。


 ——草原だった。日が沈みかけている中、道化師アルフとリリー・エピフィラムが何かを話している。リリーの左手の骨折は、まだ治っていない。道化師はポケットに手を突っ込んでいた。『ウロボロスの期間は?』。リリーは道化師を見ずに答えた。『帝王を、殺すまで』。『……お前が責任負うことないんだぜ、ヨルムンガンドちゃんよ』。


 再生しきったエイクは、立ち上がる。

「……ウロボロス?」

 疑問を口にするが、すぐに臨戦態勢に入る。雷神はゆっくりと近づいてきた。雷槌ミョルニルは、いまだ威力を落とす気配は無い。

 エイクはレーヴァテインを再び手に召喚する。

 雷神トールは、歩く速度を緩めることはなかった。

 エイクはまだ、一撃も叩き込んでいない。雷神は強すぎた。エイク・サルバドールを一方的に蹂躙している。じりじりと近づく雷神に呼吸を合わせて、エイクはレーヴァテインを構えた。

 途端、トールは凄まじい速度で突進した。エイクは寸でのところで反応し、ミョルニルの打撃をレーヴァテインで防ぐ。耳をつんざく反響音が鳴った。雷神はそれを予見していたのか、息をつく間もなくレーヴァテインのガードをめくる。完全に懐に入った。雷神が拳を突き出す。なんとか腕で防ぐが。肩ごと持っていかれる。骨の破片が散った。ガードを砕かれたエイクの心臓を、上から振り下ろされたミョルニルが叩き壊す。砂漠に打ち付けられたエイクの四肢は、衝撃に耐え切れずに散った。

 破壊された頭蓋骨から僅かに、虹色の粘液が散った。


 ——雪だ。これは、つい最近の光景だった。エイク・サルバドールと、リリー・エピフィラムが、エルズアリア城の演説台の上で話している。エイクは何かを決心したように、顔を上げるが、しかしリリーは『早く休みなさい。明日から、あなたも、私も、戦争なのよ』と言ってしまった。声は、震えていた。そしてエイクはおやすみを告げ、演説台から出て行ってしまう。映像は終わらなかった。リリーは呟いた。『これで良いのよ、リリー・エピフィラム』。そして丸くなる。まるで落としてしまった言葉を、拾うかのように見えた。


 レイラの能力を制御できていない。エイクの精神が、いよいよ弱って来ていた。

 エイクの触手は、心までは届かない。

 回復の速度は増していくが、雷神の攻撃に痛みを感じないわけではないのだ。ダメージが確実に積み重なっていた。


「そろそろ揺らぎ始めたか、魔王?」


 雷神の言葉に、エイクは睨んで答える。


「ふん、息が切れているぞ、魔王よ。死期が近いなあ!」


 ミョルニルを振りかぶる。油断か。雷神の懐が大きく開かれた。エイクはその隙を逃がさない。最短の攻撃を放つために、レーヴァテインを振らずに、直線的に突き出した。だが、雷神がそんな隙を許すわけがなかった。落雷。エイクの頭からつま先まで、稲妻が迸る。肉が焦げた匂い。黒炭と化したエイク・サルバドールの頭を、雷槌ミョルニルが叩き割った。


 ——また、過去の映像かもしれない。これは、エルズアリア城だ。リリーが帝王を追いつめたのだろうか。折れたレイピアを見つめ、帝王は絶望していた。リリーの紺色のドレスは、裾こそ汚れてはいるが、傷は無いようだ。『私の体で完全に再現できるわけがない。結果、こういう再現の方法になった』。リリーは折れたレイピアを握って離さない帝王に、諭すように言った。『世界を喰らう不死の蛇。ヨルムンガンドだからこそできた芸当。それもさすがに期限がある。あなたを、殺すまでという、が』。


「——があああああああああああ!」

 エイク・サルバドールが急に吠えた。

 全身をバネにして、飛び起きる。間髪入れずに雷神に飛びかかった。

 雷神はエイクのいきなりの捨て身の動きに、多少面食らったようだった。

 しかし、出鱈目に振られたレーヴァテインを雷槌で叩いていなす。重心を崩されたエイクはよろめく。雷神が、エイクの顔面を蹴った。何かが破裂する音がして、首が無くなる。一瞬痙攣したかと思うと、エイクの首は再生が終わっていた。


「な……!?」


 体勢も考えずに、エイクは雷神に食らいつく。覇剣を横薙ぎに振り抜く。雷神は這ってかわした。雷神はそのまま雷槌ミョルニルを振り上げる。エイクの上半身が消し炭となる、が——破壊されたそばから再生が終わっていた。


「なんだ!?」


 異常なまでの速度だ。再生力が跳ね上がった。

 エイクは雷神の兜にレーヴァテインを振り下ろす。

 遂に——雷神の髪の毛を、一束斬った。

 帯電していた光っていた髪はくすみ、燃えるような赤毛に戻る。


「こいつ……!」


 雷神は焦りのあまり、エイクから距離を取った。


 退


「急がないと——!」


 エイクは突進した。出鱈目だ。理性など働いていないようだった。ただただ何かに急かされて、奇跡の一撃を狙っているようにも見える。エイク・サルバドールは、文字通り捨て身だった。


「急がないと、リリーが死ぬ……!」

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