第四八話。魔王対雷神。
エイクの首から、無数の触手がのたうちまわっているのが見えた。
びるびると赤い汁を撒き散らし、エイクの頭が再生されていく。
雷神は、鬼の形相でその様を睨んでいた。
「おぞましき奇神の血か……。しぶといゴミだ……」
エイクは完全に再生する。復帰の速度が、破壊されるたびに速くなっていた。エイクは感じていた。人間という常識が、血と共に薄まっていくことを。
拳を構える。一気に走り出す。全身全霊、渾身の力を込めた。爆弾のような狂拳が雷神に迫る。迫る。雷神はその拳を、まるで、まるで蠅でも叩き落すように払いのけ……エイクの頭を上から叩き砕いた。
首を失った体はよろよろ後ずさる。触手が生える頃には、今度は腹に風穴を開けられた。あらゆる内臓がこぼれ落ち、吹き出す血が雪原を真っ赤に染め上げる。
エイク・サルバドールは再生途中に気付いていた。
己が神の領域に、踏み込み始めていることを。
喉に引っかかる血反吐を吐き出し、エイクは両手を広げる。
手の間に、禍々しい箱が、次元の隅から引きずり出されて現れた。箱は、どこまでも黒かった。あらゆる絶望を塗りたくったような、直視も躊躇う黒だった。六角形の魔的な箱には、邪悪なレリーフが所狭しと彫られていた。蜥蜴がのたうち回り、空が浸食されていく様にも見えた。不吉な、不吉な文様だった。本物だろうか……箱の六角には眼球、唇、鼻、耳、舌、そして心臓が打ち込まれ、どれを見ても、びくびくと確かに胎動している。魔王エイクは、いつの間にか仮面を被っていた。白い仮面は、にたりと、頬まで裂けた口で笑っていた。魔王はこめかみに指を突き刺す。そこからずるずると、内臓を引きずり出すように、赤い筋で繋がれた九つの鍵を取り出した。腸のような鎖で繋がれた南京錠を一つ、一つと解錠していく。箱を封印する南京錠が外れるたびに、世界に轟くような爆音が鳴り響いた。腸は炸裂し、赤黒い血が白い新雪に飛び散る。やがて全ての鍵を開け終えると、六角の箱は悲鳴のような紫色の光を上げて、中から覇剣レーヴァテインが現れた。
魔王エイクはそれを手に取り、一振り。白刃は一息に燃え上がった。世界を焼き尽す火炎の剣。覇剣レーヴァテインは、魔王エイクの手に顕現した。
奇神の神具。
それがエイク・サルバドールの手にあった。
「アルフが刃物を使えと言っていたのは、このときのためだったんだ……」
エイクは、燃え盛る刃をまじまじと見つめた。
「リリーと会ってからは、あまり使わなかったけど……アルフには全部、理由があったんだ」
道化師がエイクを拾ったのにも。エイクを強く育て上げたのも。エイクをリリーに預けたことにも。そのあと一人で行動し続けたのにも。全て。全てに理由があった。
エイク・サルバドールに今までの全てを託す。
その準備だったのだ。
「アルフは、俺が産まれる前よりずっとずっと前から、始まっていたんだ」
エイクは、覇剣レーヴァテインを、強く握った。心地よい重さがあった。六百年前から脈々と受け継がれて来たあらゆる『約束』の重みが、覇剣に灯されていた。決意の力が込められていた。
孤独に戦った戦士たちが、エイク・サルバドールを通して、一つになった。
「負けられない」
エイクの不完全な魂に、充足感が満ちて来た。エイク・サルバドールに神への恨みなどない。ただ、何度も何度も破壊されても立ち上がることに理由があるとするならば、その重み。
約束を、そして決意を果たすという、その意思だけなのだ。
リリー・エピフィラムを守るという意思のもと、世界を滅ぼさんとする大敵と対峙する。
「ふん……レーヴァテインを抜くとはな……いいぞ、戦いたいのならば戦ってやる。何万回でも、その雁首叩き割ってくれるわ! ひとつひとつ、貴様が喰った魂を打ち砕いてやろう!」
雷神が吠えた。雷がエイクの足下に落ちた。純白の花が焦げる。火事場の匂いがエイクの鼻孔をくすぐった。
雷神が消える。今度は捉えた。エイク・サルバドールの体は、確実に常人離れしていた。エイクの視界の右の果て。青白く光る雷神トールが、鬼の形相で突進してくる。レーヴァテインを盾にした。
ミョルニルとレーヴァテインが打ち鳴らされる。
さながら大銅鑼。派手な衝突音が辺りを震わす。エイクは間髪入れずにレーヴァテインを蹴り上げ、雷神トールを吹き飛ばす。
エイクはすかさず腕を伸ばした。
ぼこぼこと胎動する腕から、無数の『腕』が生えてくる。生えた腕からさらに腕が生え、気味の悪い巨大な枝が伸びていく。腕たちはトールを捕まえようと迫り行く。視界いっぱいに広がる肉の津波に飲まれたトールはしかし、焦る風を微塵も見せず、ただその手に握るミョルニルを振るい、消し炭にして叩き割る。
激痛で呻くエイクに雷槌を振り下ろすが、寸でのところで『氷』に止められた。
「氷の魔人……」
とてつもなく硬い氷を何度も何度も打ち鳴らし、エイクの防御を破壊する。遂に脳天を撃ち抜かれたエイクは短い断末魔を上げ吹き飛ぶ。地面に叩き付けられる頃に再生が完了し、次の一手を繰り出した。エイクが口を開けると、中から不気味な網が飛び出した。紫色に光る気味の悪い網は、世界の果てまで広がるようだった。
「次は網の魔人か」
トールが雷槌を天空に掲げると、分厚い暗雲が渦巻き大木のような雷を落とした。
消し炭になったエイクが煙を上げる。網は全て焼き切れた。
だがすぐに動き出す。煙が上がる大地を駆け抜け、雷神の懐でレーヴァテインを振り上げた。
トールはミョルニルで応戦した。圧力が雷神の体にかかった。ミョルニルが受け止められ、レーヴァテインがせり上がってくる。受け止められた。破壊の金槌、神具ミョルニルが、受け止められたのだ。蹴り上げられたレーヴァテインは、雷神の体をも持ち上げた。振り上げられたレーヴァテインの影から、エイクが雷神を睨みつける。
だが、落雷が、エイクの兜を割った。
煙を上げるエイク・サルバドール。雷神トールは、難なく、ふわりと着地した。
しかし雷神の顔に余裕は無かった。再生を終えようとしているエイクを見て、不可解だという顔をしていた。
「貴様、俺が見えているのか」
さきほどからだ。エイク・サルバドールが成長している。少しずつだが、本当に僅かな差なのだが、確実に、エイクは雷神を捉え始めていた。
壊せば、壊すほど。
再生の速度が、上がっているように思えた。
立ち上がったエイクの影から、無数の影が散り散りに伸びた。伸び切った影たちはそれぞれむくむくと起き上がる。量産された平面のエイク・サルバドールは、一斉に雷神に飛びかかった。
「小細工が」
腰を捻り、力を溜める。ばちばちと光る雷槌を、一気に振り降ろした雷撃を伴う衝撃波。百に上るであろう影たちは、一瞬にして消えてしまう。
その途端に、雷神の頬を冷や汗が伝った。
エイク・サルバドールが掲げる覇剣レーヴァテインが、既に目の前へと迫っていたのだ。
「囮……!」
影はあくまで雷神の視界を覆い隠すためのものだった。視界が全て影の黒に埋め尽くされた後ろから、エイクは走り出していた。
大振り。
喰らえば必殺。
不死級の再生能力は奇神一族、それもヨルムンガンドの特権だ。雷神も回復は早いが、奇神のようにはいかない。
雷神は、ミョルニルを渾身の力で振り上げた。篭手がトールのエネルギーに反応し、真っ白に輝く。雷槌が覇剣とぶつかった。
レーヴァテインの炎とミョルニルの雷。超高エネルギーの衝突が、一点で起こる。
一瞬、空気が収束したような気がした。大気も何もかもを奪った圧縮特異点は、刹那の間、沈黙し——巨大な破壊力を伴った大爆発を発生させた。
エイクもトールも辛抱堪らず、足から浮いて吹き飛んだ。爆発は、大陸を越えたエルズアリア城からも、観測できた……
*
帝王は俯いていた。
この圧倒的な状況は、どうすることもできない。
「神に勝てるのか、赤毛は」
「勝つわよ。道化師が、エイクをその舞台まで引き上げた」
リリー・エピフィラムは、魔王計画のことを言っているわけではなかった。
道化師が、エイクと共に行動していたときのことだ。
「詳しくは知らないけれど、『腕を吹き飛ばし合ってた』とか言ってたわね。あれはきっと、エイクに残る『人間の血』を薄めるための行為だったんでしょう」
不死の世界蛇ヨルムンガンドと人間の混血。
ヨルムンガンドとしての能力を高めるために、人間としての常識から何度も何度も引きはがした。殴り続けた拳がやがて固くなるように。エイクの逸脱性は、どんどんと大きくなっていった。
道化師アルフによって、人間性が希薄になっていった。
「神の領域に、踏み込むためにね」
治れば治るほど、壊れていく。
道化師も、最初は少しの攻撃から始めたのだろう。その当時のエイクの回復力の限界値を見分け、そこを的確に突く。それによってエイクの回復力は、ヨルムンガンドの血は、濃くなった。
雷神に吹き飛ばされ、僅かに残った足首からも再生できるほどに。
*
大木に背中をぶつけて、エイクの滑走は止まった。
鋭い枝が、脇腹を突き破る。エイクはそれでもすかさず立ち上がり、枝を引き抜く。一瞬にして、風穴は塞がる。
雷神が稲妻のような速度で迫ってくるのが見えた。エイクは雷神を視界に捉えると、ぎりぎりまで引きつけ、そして煙になって消える。
雷槌が空を切る。大木が消し炭と化した。エイクは雷神の背後に現れた。地を這うようにレーヴァテインを振り上げる。雷神は体を捻りそれを躱した。レーヴァテインの火炎が空高く登る。エイクの懐ががら空きになった。雷神は足に力を込めて体勢を整える。雷槌が振りかぶられた。エイクはレーヴァテインに引っ張られた腕を戻すことができない。
一撃。
ミョルニルはエイクの心臓を叩いた。
尋常ではないスパークが、エイクの体を通した。受け止め切れなかった雷が、エイクの背後にこぼれる。稲妻がエイクを突き破る。
「が、————!」
声にならない絶叫がエイクの喉から漏れる。
雷神がミョルニルを振り抜く。エイク・サルバドールの破片は地の果てまで吹き飛ぶようだった。木々をなぎ倒し、岩をも砕き、エイクは雷神の視界から消える。
滑空を終え、エイク・サルバドールは砂漠にバウンドする。それが合図だったように、エイクの破片から触手が伸びる。地面で止まる頃には、腸の欠片だったそれから、エイク・サルバドールは完全に再生していた。
「はぁっ——!」
エイクは一息に立ち上がる。
が、何か違和感を感じた。
自分の右手を見る。
「魂が……」
減っていた。地獄であれだけ喰らった『魂』が、確かに減っていた。
「あ、あいつの攻撃……」
雷神トールの一撃だ。エイクが死に至るたびに、エイクが取り込んだ魂が剥がれている。
神々の戦い。肉体が滅んでも魂が死なない。そうやってオーディンは生き長らえた。死なないという意思の戦い。互いの『魂』を否定する。圧倒的な暴力が魂にまで届いたとき、初めて神は死ぬ。
エイク・サルバドールが取り込んだ魂は、まだエイク自身の魂と成り切れていなかった。ゆえに剥がれていく。雷神の一撃必殺の攻撃で、エイク・サルバドールの『能力』という鎧は破壊されていった。
「さあ立ち上がれ、魔王——」
雷神トールは、いつの間にかエイクの目の前に立っていた。
「貴様の魂が砕けるまで、何度でも叩き潰してやる……」
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